表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神様は、少々私に手厳しい!  作者: 守野伊音
第一章:再会
38/100

38.神様、ちょっともう分かりません


 移動しようとしていた集団が、先頭からぴたりと止まっていく。ルーナが私を抱いたまま剣に手をかけたのに気付いたとき、私もようやく前方から聞こえる音に気が付いた。

 がつ、がつ、と、重たく湿った足音が近づいてくる。それも、複数だ。

 明かりは担当の人が手元に持っている分しか照らしてくれず、相手は明かりを持っていないらしい。暗闇の中で足音が止まる。

 かちゃりと鍔の鳴る音が重なり、誰かが静かに細い息を吐く音が緊張感を募らせていき。

 私のお腹は鳴った。

「………………なんでだよ」

 呆れたティエンの言葉が突き刺さる。

 違うんです。身体が冷えているのと緊張感で変に力が入って鳴っちゃっただけで、お腹が空いてるわけじゃないんです。だからイヴァル、ポケットから雨ででろんでろんになったクッキー出してこなくていいよ。アリスちゃん、その、豪雨を受けてもなんの異変も見受けられないつやっつやの炭は、もしかしてお菓子でしょうか。結局その炭は懐に仕舞い直されたので詳細は分からなかった。



 隊長が剣に手をかけたまま一歩前に出る。

「そちらはどちらぞ!」

「ギニアス・ルーバか」

「……何故にして分かったぞ」

 名乗っていないのにあっさり見破られ、しょんぼりしている隊長の前に、影から数人の男の人が現れた。年齢は様々だが、びしょ濡れで怪我をしているのはみんな同じのようだ。

 先頭にいた長い髪の男の人は、隊長を確認して嘆息した。年の頃は隊長と同じくらいだろうか。ブルドゥスの騎士だというのは服装で分かった。そして、隊長の背からも緊張感が消えたのも分かる。ちょっと撫で肩の隊長は、気を張る時はいかり肩になるから分かりやすい。

「戦場で(まみ)える度に舌打ちしていた貴様に安堵するとは、俺も焼きが回ったものだ」

「ウルヴァス将軍であったか」

 ウルヴァス将軍と呼ばれた男の人と目が合う。とりあえず会釈したら驚かれた。

「黒曜か! よく、あの状況下で奪還できたものだ」

「手前共は黒曜を連れて逃亡しろとの命令を賜ったのみで、実態が把握できずにいるのであるのだが」

「ええい、貴様は相も変わらず面倒な喋り方をする! とにもかくにもついて来い!」

 身を翻したウルヴァス将軍の横に隊長が並び、他の人は一歩引いて道を譲った。こういう光景は何度も見たことがある。恐らく、この中では隊長とウルヴァス将軍が一番偉いのだ。

 しかし、後ろ姿だけでも対極な二人である。背が高い将軍と小柄な隊長。私から見れば女性であっても長いと思うくらい長い髪の将軍とつるりんぱの隊長。その二人が先頭を行く後ろを皆でついていく。かなり早足だけど誰も遅れず難なくついていった。



「今後の方針について話し合いが行われていたのだが、伯の一人があの妙な武器で弾けた」

 妙な物言いだと思ったけれど、すぐに気づく。自爆、という言葉がないのだ。自害ならあるけれど、爆弾どころか火薬がないのだから当然である。

以前ルーナと爆散という言葉を使ってはいたけれど、あれは私がルーナに教えた言葉だ。弾けるように散る、と説明した覚えがある。

「伯は以前より苛烈な人物だったが、弾ける前の言動を見るに脅されて仕込まれたわけではなく、伯は自らの意思で我らを滅ぼそうとしたのだろう。我らはアーガスク様をお連れしているが……負傷されている上に、少々……荒れておられてな。道が増水で進めず、戻った時に尋常ではない女の声が聞こえ、無体を働かれているのなら見捨てるわけにもいかぬと現れた次第だ。黒曜も負傷しているのか」

「麻酔が存在せず、あるがままで縫い合わせたが故だ」

「あの声はそれでか。こんな場所で女の声がするのはおかしいと思ったが、罠にしては酷い声だったのでな。……しかし、我々ならばともかく、惨いことを」

 将軍の部下の人達も私を見て痛ましい顔をした。しかし、うろちょろしているイヴァルが邪魔でよく見えない。まだ諦めてないようだ。ルーナはそんなイヴァルが見えないかのようにまっすぐ前を見て……偶にそっぽを向いている。見えている、絶対見えている!

「手前共は軍士ヒラギの隊により逃亡幇助を受けたが……エリオス様はどうなされているか存じているか?」

「…………それが、アーガスク様が荒れておられる要因だ」

 早足で進んでいる内に、皆の足音がおかしいことに気付く。水を掻き混ぜるような音になっている。水路から水が溢れているのだ。雨は爆弾を無力化するにはとても都合がいいけれど、地下水路を逃げる私達にはとてもまずいものだった。



 何度目かの角を曲がった先では、階段の踊り場で固まっていた人達がこちらを見て剣を納めた。その円陣の中心で壁に凭れている人を見て、アリスが駆け出す。

「アーガスク様!」

「針と糸を貸してくれ。こちらも血が止まらんのだ」

 イヴァルから受け取った将軍は、手早く蝋燭の火に翳して消毒を始めた。

 麻酔が無いのに縫われる同士ですね、王子様。

 アーガスク様は、右の脇腹を押さえて苦悶の表情を浮かべて……いなかった。浮かんでいたのは憤怒だ。予想外である。

「くそっ……馬鹿がっ……!」

「はい!」

 ちょっと一瞬だけぼうっとしていたから、馬鹿に反射的に反応してしまった。アリスに呆れた顔をされ、ルーナとイヴァルには頭を撫でられる。その生暖かい視線が逆に痛い。

「絶対に、許さんぞっ……! エリオス!」

 憤怒の形相で絞り出される声が紡いだ名前にぎょっとなる。てっきりゼフェカ側についた誰かの名前が飛び出てくるかと思いきや、書道部様の名前が出てくるとは思わなかった。それとも……まさか。

 信じられない予想が頭の中を駆け抜けたけれど、炙った針を持ってアーガスク様の横に膝を落とした将軍が予想を否定してくれた。

「エリオス様はアンキに長けておられるが故に、伯の行動に一早く気付かれ……アーガスク様を庇ってくださったのだ。間合いを読み違えたのは仕方があるまい。誰も、あのような兵器が存在するとは思わなんだ」

「そして、エリオス様はどちらなるにいらっしゃるぞ」

「…………酷い怪我を負ってしまわれ、動かすことが出来なかった為、留まる事に賭けるとグラースの騎士達と共に残られた」

 つい先日出会い、普通に話して、宴の約束をした。皆で無礼講の中で騒ごうと言った二人の王子様の顔は簡単に思い出せる。なんだか少年みたいに楽しそうできらきらした目をしていて、その後猿の威嚇みたいに額を突きつけあっていた姿まで鮮明だ。なのに、なんだか随分遠くに思える。

 そして、何が長けているのか分からなかったので後で聞こう。忘れてなければ。

「…………王は」

「………………王が一……伯に……近……った…………」

「そのようか……」

 何と言っているのか聞こえない。耳を澄まそうとした私の意識は、吠えるような呻き声を上げたアーガスク様の方に引き寄せられる。

 アーガスク様は、動くたびに掌の隙間から溢れる血も構わず、拳を地面に叩きつけた。

「あの馬鹿がっ……! 体格の差を考えることも出来んのか! 私を盾にするくらいのことも考えつかん頭脳で王子などと、片腹痛いわ!」

 吐き捨てた彼の脇腹に皆の視線が集中する。確かに、痛そうだ。


 縫うためにアーガスク様の手が退けられ、傷口をもろに見てしまった。あまり詳しくはないけれど、恐らく爆弾で砕けた破片か何かで出来た傷だ、と思う。爆弾だと火傷になるんじゃないかなと、思う。予想だけれど。

「参ります」

「ぐっ……!」

「ぎゅっ……!」

 何の躊躇いもなく針を突き刺した将軍に、さっき初体験した激痛を思い出し、アーガスク様と一緒に私まで呻いてしまった。しかし、彼が上げた声はそれだけで、後は苦悶の表情を浮かべながらも歯を食い縛り、荒い息を吐くだけだ。

 私があれだけ大声を上げてしまったのは、やっぱり精進が足らなかったからなのだろう。

「次なる事態では、必ずや沈黙を保ってみせるぞり……」

 私はひっそり決意した。

「次なんてあって堪るか! 馬鹿!」

「次なんて嫌ですよ! 馬鹿――!」

「次の決意より回避に動け! たわけ!」

 全然ひっそりしていなかったらしく、三連続で怒られた。私だって、別に次の機会を望んでいるわけでは全く以ってないのだけど、なんかごめん。




 ウルヴァス将軍は手慣れた様子で縫い終えると、すぐにアーガスク様を支えて立ち上った。長居は出来ないので、みんな素早い動作で動き始める。アーガスク様は体格がいいのでおぶえず、両方から支えられているも自分で歩いていた。私もそうすべきだろう。ずっとルーナに抱きかかえられているのは申し訳ない。剣を振るう彼らの腕を余計な事で疲れさせるわけには。

 そこまでぼんやりと考えいていた意識は、いつの間にか途絶えていたらしい。

「……ズキ、カズキ!」

 強く呼ばれた自分の名前に掬い取られるように意識が浮上した。

 薄暗い景色はまだ私達が水路にいることを示しているし、水量もさっきとあまり変わっていないからそんなに時間は経っていないようだ。なのに、必死の形相で私を呼ぶルーナが不思議でならない。

「カズキ!」

[さむ、い……]

 どうしたのと聞こうとしたのに、口から出たのは自分のものとは思えない、呼吸のような声だった。

寒い。表面だけじゃない。もっと奥、臓器から冷え切ったように寒くて堪らない。皮膚があろうが、肉があろうが、身体を流れる血がなければ命なんて保てないと知っていたはずの事実が虚ろに頭の中を流れて行った。

「大丈夫ですよ、大丈夫ですからね、カズキさん!」

 私の手を必死に擦っているイヴァルのほうが泣きそうだ。でも、イヴァルの体温が分からない。両手で握られて、息もかけてもらっているのに温度が届かないのだ。

「血液を流出過多しすぎたな」

「せめて服だけでも濡れてねぇもんにしてやりたいが、この雨じゃあな」

 皆の顔がこれはまずいと告げている。自分では何だか全部が遠くて、ただ寒いとしか思えない。ふわふわと浮いているようなのに、ずぶずぶと沈んでいくような不思議な気分だ。意識が浮かび上がるようなのに、後ろに引っ張られるみたいにがくりと落ちては、その感覚でまた浮上する。

「熱が出るのも困るがこれは……」

「体温が下がるより、まだそっちのほうがましだろう」

 小さな蝋燭に手を翳し、温もった掌を首に当ててくれたアリスちゃんは眉間に皺を寄せた。どうやら首も冷え切っているらしい。

「カズキは薬が効きにくい」

「そうなのか?」

「カズキの国は衛生状態が良く、医療が進んでいるらしい。だからか、カズキは病に弱い上に、向こうの質の良い薬が馴染んだ身体では、こっちの薬はあまり効かない」

「難儀な……」

 皆が黙りこくってしまった。それでも誰の足も止まらない。

 将軍に支えられながら歩いていたアーガスク様は、耐え切れなくなったのかがくんと体勢を崩して水の中に膝をつく。一緒に倒れかけ、踏ん張って耐えた将軍に支えられて再度立ち上がった彼は、薄暗い中でも分かる程顔色を悪くさせ、水が溢れる水路に視線を落とした。

「時代の終わりとあの男は言ったが、まるで世界の終わりだな……」

「何を……何を弱気なことを仰る! 貴方らしくもないことを!」

「……そうだな、私らしくもないことだな……。詮無き事を言った。忘れろ」

 時代の終わりとゼフェカは言った。時代は終わる。でも始まる。知っているけれど、それは後世の人から見た流れだ。いまここにいる私達には年表の境目なんて見えない。

 ああ、だったら今は。


[歴史の途中だよ――……]


 絶えず流れ続ける水に意識まで流される。その流れのように時間も時代も流れるのだ。淡々と年表を語る先生の言葉を聞き流した授業中に語られていた名前達だって、きっと、後に教科書に載るかもなんて考えずに走ったのだろう。

だから、アーガスク様。時代や世界の終わりだと悲しい顔しないでほしい。

私達は常に後世の人間でしかない。歴史はずっと繋がっている。時代は変われど、歴史は終わらない。だからずっと途中だよ。

「…………こいつ、偶に突拍子もなくいいこと言うんだよな」

「普段から良いこと言ってますよ! 大抵台無しな言葉選びしてるだけで!」

 翻訳してくれたらしいルーナの声の後に、呆れたようなティエンの言葉が聞こえた。そしてイヴァルのそれは、褒めてくれているのか何なのか今一分からなかったので聞こうと思ったのに、もう、水音しか聞こえない。頭の中では水音だけが溢れ返り、それに伴って体温もどんどん下がっていく気がする。まるで身体の中を水が流れているかのように錯覚してしまう。

「カズキ、大丈夫だ。大丈夫だから」

 私を抱いている腕に力が篭もる。

 分かってるよ、ルーナ。大丈夫だよ。分かってるよ、全然、つらくなんてないよ。寧ろずっと抱いてもらって迷惑かけてごめんだし、みんながそんな顔しなくていいよと伝えたくて、あんまり成功した覚えがないけど馬鹿の一つ覚えみたいに秘儀笑って誤魔化せを発動する。

 そうすると、やっぱり成功しなくて、ぐしゃりと痛そうに顔を歪められて終わってしまった。別の秘儀を会得したいところだけれど、身にしみついた秘儀はそう簡単には変更できない気がするのだ。




 ゆらゆらと意識が揺れる、と思って目を開けたら、視界はがくんがくんと揺れていた。水を掻き回すような音がする。

 皆が走っているのだ。

 いつの間にか、薄暗くて音の反響する水路は抜けていた。でも空は水路と同じほどどす黒く、雷鳴が轟いている。雨は止むどころか更に酷くなっているようで前も見えない。いや、ルーナ達は前を見ているから見えているのだろうけれど、視界がぶれているのか、霞んでいるのか、よく、見えないのだ。

 でも、地面が緑色なのは分かる。雨でぐちゃぐちゃになった植物の上を駆け抜けているから、水を含んだ音がするのだろう。

「走れ! 走れ走れ走れ――!」

 まるで空を掻き回すように剣を振りながらティエンが怒鳴った。もう、なりふり構っていられないといった風にぐしゃぐしゃになった皆が走る。叩きつけるような雨で皆の髪はべったり張り付いているし、服は雨と泥で色が変わってしまっていた。

 アーガスク様と将軍さん達の姿がない。はぐれたのか別れたのか分からないが、この人数では一緒に逃げられないと分かれたのだろうと思う。そうであってほしい。

 揺れて霞む視界を何とか凝らして周りを把握しようと努める。草と土の匂いが強いからたぶん草原なのだろう。周りに人工的な建物は見えない。見渡す限り自然が広がる広い場所だ。晴れた日に、いや、雨でもいいけれど、こんな状況でなければピクニック気分になれたと思う。日本じゃちょっとお目にかかれない景色だなと、やけに呑気な考えが浮かんで、散る。思考が小刻みに途絶えるのは気絶だろうか。駄目だ、ただでさえ怪しい頭なのに、まともに考えられないので馬鹿みたいなことばかり浮かぶ。



 私を抱いていたルーナが、弾かれたように身体の向きを変えて剣を引き抜いた。今まで後ろばかりを気にしていた皆も、一瞬遅れてすぐに横に意識を向ける。

 向こうから集団が来るのが見えた。馬だ。馬に乗った集団が横から迫ってきている。

「ルーナ! 構うな! 前進行進ぞ!」

 止まりかけたルーナに隊長が怒鳴る。

 ルーナははっと隊長を見た。何かに気付いたルーナに、隊長は頷く。

「託したぞ」

「はっ!」

「騎士アリスローク、貴殿にも謹んで託して申し上げるぞ」

 荒い息を吐いて剣を構えていたアリスが目を見開いた。

「私が背を向けていい訳がない! 私はブルドゥスの騎士だ!」

「それ故にだぞ。手前共より地理に詳しい…………ルーナとカズキを託すぞ」

 ぐっと何かを飲み込んだアリスが頷くと、隊長は満足げに微笑んだ。そして、私の頭に手を置く。

「カズキ、壮健であるぞ」

[待っ、て……隊長、待って]

 声が上手く出ないのは血が足りないからか、寒さで舌がもつれるからか。それとも、怖いからか。

再度笑って、もう振り向かない隊長に手を伸ばしたのに、泳いでいる時みたいに視界がぐにゃついて掴めない。


「カズキ、お前、ほんととことんついてねぇなぁ。今度があれば、今度こそ平和な場所に落ちとけよ。後、男風呂はやめとけな!」

 からから笑って私の頭を撫でたティエンの手は、いつもはびっくりするくらい冬でも温かいのに、今は別人かと思うほど冷え切っていた。

「カズキ! ルーナと喧嘩すんなよ!」

「いや、寧ろ喧嘩してやれよ! 喧嘩だぞ!? 珍妙漫才じゃなくてだぞ!?」

「無理だろ」

「無理だろうなぁ……」

 見知った面子が次々に私の頭に手を置いていく。


「カズキさん」

 何も掴めなくて彷徨う私の手をイヴァルが取ってくれる。あの頃は私の片手で彼の両手を掴めたのに、今はまるで私の方が子どもに見えた。

「ありがとうございます、カズキさん」

 泣きべそばかりかいていたのに、いま、イヴァルは皆と同じように微笑んでいる。子どもは大人になったのだ。イヴァルも、アリスも、リリィも、ルーナも。みんな大人になって、私ばかりが変わらない。変わらないまま、変わり続ける世界についていけないでいる。

「平和を守れと戦場に追いやられたけど、その平和がどういうものか経験したことがなかった僕に、幸せを教えてくれてありがとうございます。人と手を繋ぐと安心するってことも、頭を撫でられると嬉しいってことも、抱っこされると温かいってことも、眠る前の子守歌の心地良さも、雨の楽しみ方も、全部……楽しいことや、温かいことは全部、カズキさんが教えてくれたんですよ」

「イヴァル……待機、懇願、待機、イヴァル……」

「……あなたの為を思うなら、僕らと会ったことはいいことじゃないのかもしれません。でも…………」


 待って、お願いだから、みんな待って。

 私、そんなに賢くないから、分からないんだよ。こんな、次から次へと状況がくるくる回ったら、何が起こってるのか分からなくて、どうしたらいいのか分からなくて、ただ、怖いだけで。

こんな、何も分からないまま、ただ、失っていくことだけが分かるのは嫌なんだよ。


「僕は、あなたと出会えたことに感謝します」



 額に冷たい唇が落ちる。イヴァルは、知らない人みたいな顔で笑った。

 寒い。寒くて寒くて堪らない。

喉奥どころか、お腹の中、臓器も骨も、芯から寒さが湧き上がってくる。でも、いま震えているのは寒さじゃない。

「お元気で、カズキさん!」

[待ってっ……イヴァル、待って、お願い、待ってぇ…………!]

 身を翻したイヴァルに追い縋ろうとした視界がぐらりと揺れる。頭が重たくて支えられない。首が据わらない赤ちゃんみたいにがくりと崩れた私を抱え直し、ルーナとアリスは敬礼した。そして、全てを振り切るように走り出す。

「大人しく投降すれば手荒な真似はしない!」

「ヒューハ――!」

 聞こえてきた声と、吠えるようなイヴァルの声に愕然とする。自分の頭さえ支えられない身体を腹立たしく思いながら、ルーナの腕の中でもがく。

[待って、待ってっ……!]

 分かっている。本当は分かっているのだ。待ってもらっても私には何もできない。邪魔になるだけだと分かっているけれど、こんなのは嫌だ。

 嫌だよ、イヴァル、隊長、ティエン、みんな。

 やめて、嫌だ。何がなんだか分からないから、何が嫌なのか自分でもちゃんと説明できない。でも、嫌だ、嫌だよ。

 こんなのは嫌だよ――……。





 ぶつ切りでしか保てない意識がある時は、常に視界が動いていた。ルーナもアリスも何も言わず走り続けているのだ。もうどれくらいこうしているのか分からない。叩きつけるような雨から守るようにマントで包まれていたけれど、分厚い生地越しでも分かる程雨足は強かった。

 意識が途切れた時は夢ばかり見ていた気がする。昔、ミガンダ砦で皆と過ごした時の夢だ。淡々としていたルーナが段々つんつんしだして、よく笑うようになった。柱の陰から遠巻きにこちらを気にしていたイヴァルが、満面の笑顔で抱きついてくるようになった。ティエンが背中を叩く手の力が倍になった。隊長の頭部の輝きが更に増した。

 ああ、皆だ。皆がいる。

 安心して走り寄るたびに、夢は覚めた。



 何度も途切れた意識が次に浮上した時、打ち身が出来そうなほど肌を叩いていた雨の感触は無くなっていた。でも、雨音は聞こえる。

 それ以外は、酷く、静かだ。

 自分が何をしていたのか分からなくて、少しぼんやりとする。何をしていたのか、今、何をしているのか、分からないことを疑問に思えない。まともな思考を行うにはちょっと、私の身体は血を流し過ぎているみたいだ。

 ぼやける視界に肌色の物を捉えて首を傾げる。シャツを羽織っただけの半裸のルーナがいた。そのルーナに抱かれている自分と触れあう感触もおかしい。私はぼんやりと視線を落とし…………見なかったことにした。

 これは人命救助だ。私の為にやってくれていることだと分かるし、そうしなきゃいけなかったのだろうから文句なんてない。ないけれど、私をパンツ一枚まで脱がしたのはルーナなんだろうなと思うと、なんかこう、うがぁ! と叫びたくなる。元気だったら叫んでいたかもしれない。でも今は、瞼を開けているだけでも億劫だ。頭ががんがんするし、腕はじくじくするし、胸の中では何かが大声を上げて泣き叫んでいる。その心のままに泣き叫んでしまいたかった。何かを責めて、何かを呪って、大声で泣き喚きたい。

 でも、そうしたくないのも本心だ。何を責めればいいのか分からない。何を呪えばいいのか分からない。それに、ここにいる誰の所為でもないと分かっているのに、私が責めれば、この優しい人達は受け止めてしまう。そんなのは嫌だ。



 目の前では、弱い炎がぱちぱちと音を上げている。燃やすものがなかったんだろうなと私でも分かるラインナップが燃えていた。

私達に背中を向けて火の前に座っている、これまた半裸のアリスの向こうには、楕円形の森が見えた。ここは洞窟とか洞穴なのだろう。そして、風などで中に吹き込んで濡れていなかった木々や葉でなんとか火を起こしたから、こんな雑多なものが燃えているのだと思う。煙もそれなりに出ていたけれど、奥かどこかが吹き抜けなのか、風が運んで行ってくれている。その中に虫らしき燃えカスがあることに気がついた。この虫は油を多く含んでいて火付けに凄く役に立つのだと、昔ティエンが教えてくれたことがある。何かの幼虫みたいな白いぶよぶよの塊だけどあれで成虫だそうだ。そして、それを私の背中に入れてくれたことは一生忘れない。半脱ぎで腹踊りしながら迫って驚かせてごめんね、ルーナ。慌てすぎて服が絡まってしまい脱げなかったんです。尻もちついて後ずさるルーナは、そういえばあれが初めて見せてくれた感情だったように思う。なんか、ほんとごめん。



 私が起きたことには気づいていないのか、二人はぽつぽつと言葉を交わしていた。

「体温はどうだ?」

「まだ低いが、さっきよりは回復している……よかった」

「それならいいが……この雨の中辿りつくまでもてばいいな……」

「辿りついて、大丈夫だという保証はないのだろう?」

「まあな。しかし、守護伯が寝返っていたのなら、何の道どこに逃げても同じことだ」

「それもそうだな」

 そこで一旦会話は途切れる。二人とも何かを考えているのだろうけど、どちらもぐったりして疲れ切っている。当たり前だ。疲れないはずがない。ぐうすか寝ている私を抱いて、この雨の中、追われながら走ってくれたのだ。

 それなのに私は、彼らへ感謝の気持ちを伝える為に口を開く体力を別のことに使っている。今にも閉じてしまいそうな瞼を必死で開けて、他に誰かいないかを探しているのだ。でも、誰もいない。隊長も、ティエンも、イヴァルも、みんなどこにもいなかった。

 あの入口からひょっこり顔を出して『ひっでぇ雨だな、おい』って『カズキさーん! すっごい濡れちゃいましたぁ』って『滴る雨を遮るものが無き様がこれぞ……』って言ってくれそうなのに、誰もいない。

「…………帰してはやれないのか」

 ぽつりと、アリスの口から唐突に出てきた言葉は私には意味が分からなかったのに、ルーナは即座に理解したらしく私を抱いている手に力が篭もった。

 なんだろう。主語がないから分からない。

 考えようとした思考が散っていく。ああ、駄目だ。ふわふわとした浮遊感と、重しを持ったまま粘着質な液体に沈んでいくような感覚が交互に訪れる。これは意識が落ちる前兆だ。そのまますぅっと気を失うには、私の体調が不調すぎるのだろう。浮遊感があれば体中の痛みが増し、沈めば遠のく。楽な方に逃げたいけれど、もう、逃げるのは嫌だなと無駄に抵抗してしまう。

 一人で体力を消耗している馬鹿な私の上では、二人の静かな会話が続く。

「…………俺には方法が分からない」

「……そうなのか?」

「もしも知っていたのなら、俺は十年前のあの日、絶対にその条件を揃えたりしなかった」

 十年前のあの日。

 その言葉でようやく分かった。アリスは、私を元の世界に戻そうとしてくれているのだ。

 でも、私もルーナも、その条件が分からない。何度も二人で考えたけれど結局分からずじまいで、いつの間にか考えることはやめていた。お互い話にも出さなくなったのだ。

 だって、帰ってしまいたくなかったから。

「……でも、そうだな。きっと、帰してやるべきなんだろうな。戦争がなく、医療が進み、子どもが子どもでいられる、穏やかで優しい、カズキの故郷に。……十年で、そう思えるくらいには、なった」

「……そうか」

 視界が遠のいて、ルーナがどんな顔をしているのか分からない。聞こえるのは、淡々とした声だけだ。

「だけど、それでも、俺は――……」

 遠くで聞こえるその声は、酷く悲しそうで、酷く優しかった。




 ひと眠りしたら、二人はまた雨の中進み始めた。私は常に眠っているような気がする。さっきまで洞窟の中にいたと思ったら森の中を進んでいた。いや、林かもしれないけど私には違いが分からない。あれってどういう区別なのだろう。木が二本が林で、三本が森ってことしか分からない。

 ごうごうと水が流れる音がするから、近くに川があるのだと思う。でも、私はマントに包まれていて視界が極端に狭くなっているのでよく見えない。

 おぶったほうが絶対楽なのに、ルーナは頑なに私を抱きかかえた。雨が止まないからだ。マントで包まれているから大丈夫だと何度も何度も言ったのに、これ以上冷やすのは駄目だと頑として譲らなかった。

「そういえば」

「………………え?」

 不意に話しかけられて、一拍どころか三拍くらい反応が遅れる。

「カズキは何かしたい事ってあるか?」

「……どのように、したぞ、ルーナ?」

「いや、よく考えたら、カズキはまともに観光どころか町巡りすらしたことないんじゃないかって思ったんだ」

 いきなり世間話を始めたルーナに首を傾げたら、アリスが乗ってきた。

「ああ、そういえばそうだな。というかお前は通貨の種類を知っているのか?」

「ツーカーを知らないじょり…………」

「金だ、金」

「所持した経験が、ないぞり」

 リリィの所ではお給料もらう前にあんなことになったし、その前もその後もお金を得て払ってという、生活に当たり前のことを行う機会がなかった。金欠どころか一文無しである。しょっぱい。いや、逆にお金がないのに生活させてもらえていた環境に感謝するべきだ。

そうだ、私は衣食住の何にもお金を出していない。これは由々しき問題だ。生活費を返さないと! ……お金がない。しょっぱい。

「金……買い物……通貨欠乏……塩辛い……」

「おい、何か唱え始めたぞ」

「カズキの世界にも魔法なんてものはないはずだぞ」

 嫌だよ、こんなしょっぱい呪文。

 金欠に喘ぎながら変身する魔女っ娘を想像して悲しくなった。子どもに夢も希望も与えてくれない呪文である。

「ルーナと」

「ん?」

「町中を連行して、徒歩を行ってみたい」

「俺もカズキとデートしてみたい。カズキは食べ歩きとか好きそうだ」

「デートを意味していたのか!?」

 驚愕に慄いたアリスちゃんが滑った。足元注意である。



 他愛もない話が続く。何でもない話ばかりだ。アリスちゃんは辛い物がちょっと苦手で、私は酸っぱい物がちょっと苦手で、ルーナは熱い物がちょっと苦手で。アリスちゃんは海老が好きで、私はパンが好きで、ルーナはハムが好きで。海老とハムのサンドイッチだと最強だと言ったら、二人は真顔で賛同してくれた。

 私が何かを言ったらルーナが解読してくれて、アリスちゃんが驚愕する。そんな繰り返しが楽しくて、浮かれてしまう。そんな場合じゃないだろうと、こんな時によく笑えるなと頭の片隅で誰かが罵る。誰かといっても自分だろうけど。

「カズキ……カズキ?」

 またぷつりと途切れていた意識がルーナの声で浮上する。目が覚めて一番にルーナの顔を見れるので、ちょっと嬉しくて笑ってしまう。そんな私にルーナも笑おうとして、失敗した。今にも泣き出しそうな顔で、私の額に額をつける。

「死なないでくれ、頼むから、カズキっ……」

 悲痛な声にびっくりしたのはこっちだ。え? 私そんな、生死の境を彷徨うような状態だったの!? 初耳です。

 木は点在するけれど、いつの間にか少し開けた場所に出ていた。ちょっと先には裂け目と吊り橋が見える。でも、建物がないから鏡もない。顔色が見れないけれど、たぶん凄い惨状だろう。ホラーかもしれない。好きな人に、ぼろっぼろのよれっよれの顔を至近距離で見られている。よかった、恥らいの心がなくて。そんなものがあれば今頃羞恥で死んでいるだろう。

 でも、ルーナもアリスもぼろぼろで、嬉しくもないお揃いだ。

[死なないよ……だって、王子様達が、宴しようって、言ったんだよ…………無礼講だって、みんなで、全部終わったら、みんなで……絶対、楽しい]

 私よりよっぽど疲れているはずの二人に歩かせているのに、私は未来の夢を見る。

 そこには皆いる。こんな叩きつけるような雨じゃなくて、びっくりするくらい青い空の下で、皆で美味しい物を食べるのだ。いつか、そんな日が来る。

 だから。

[楽しみ、だね]

 ふへっと変な吐息が漏れた私の笑みに、二人とも苦笑に近い顔だったけれど今度こそ笑ってくれて、とても嬉しかった。




 そんな私の夢は、切り裂くようなアリスの声で途切れた。

「ルーナっ!」

 何かが潰れるような、鈍く重い音が、した。二度、三度、と続く。

 凄い力で突き飛ばされ、私を抱いていたルーナは前のめりに倒れ込む。咄嗟に胸に押し付けられて頭を守られる。

 突如起こったことが理解できない。さっきまで動いているのか疑問に思うほど小さかった心音が、耳の中で割れんばかりに鳴っている。心音に合わせるようにだんだん荒くなってくる呼吸は、弾かれるように剣を引き抜いたルーナに少し乱暴な動作で地面に下ろされて止まった。

「うっ……!」

 地面は濡れていて、泥と敷き積もった濡れ葉でそんなに衝撃がないはずなのに、視界が真っ白に染まるほど身体に響く。口に入った泥を吐き出すことも思い浮かばず、私は這いずって手を伸ばした。

「アリス!」

 地面に倒れ込んだアリスの背中に剣が突き刺さっている。ルーナが向いた先に敵がいるのだとしたら、この剣は投擲されたのだ。次いで飛んできた剣は、ルーナに叩き落とされる。

「ぐっ…………」

[アリス、アリスっ……!]

 アリスは自分に突き刺さった剣を抜いてしまい、私の喉からは変な音が出た。何かを言おうとしたのに、結局悲鳴のような金切声のような呻き声のような、変な音しか出なかった。

動くたびに溢れ出る血を押さえる物が何もない。私は縋るようにアリスの背に凭れ、痛いと分かっているけれどマントで傷口を強く押さえる。他に何をしたらいいのか分からない。血を止める為には止血点を押さえるといいということは知っていても、それがどこかは分からないのだ。

「すまん……カズキ…………」

[何がっ……喋っちゃ、駄目、だってば!]

「どうやら、密偵は、私だったようだ」

 アリスは歯を食い縛り、抜いた剣を見て、固く目を閉じた。

「気配は消したつもりだったが、よく分かったな。アリスローク」

「……こういう、場所では、貴方なら、こうするだろうと、思い出して、いました、から」

 木々の隙間から現れた人物には見覚えがあった。

まるで熊のようにごつい、大きな男だ。記憶にあるのは、大柄でありながら清潔感ある姿だったが、雨に濡れて泥が跳ねていることを差し引いても随分と印象が違う。

 病み上がりのような暗い影を纏い、男はまた一歩踏み出した。

[クマゴロウ……]

「何故ですか、ヌアブロウ隊長!」

 クマゴロウじゃなかった。あの頃はクマゴロウにしか聞こえなかった発音が、今ではちゃんとヌアブロウと聞こえる。成長だ。しかも将軍じゃなかった。いろいろ間違えていたのが、今では自分で分かる。あの頃の自分より、今の自分の方が圧倒的にこの世界に馴染んでいるのだ。



 目の前でゆっくりとした動作で近づいてくる男は、十年前、私を砦から引きずり落とした張本人であり、アリスの隊長だ。

「貴様……いま、カズキを狙ったな?」

 ルーナの声が低くなっていて、私に言っているんじゃないのに怖い。

「……一人、か?」

「こちらの指揮系統も混乱している。部下を割く余裕がなかったのだよ、騎士ルーナ」

 ヌアブロウは先程投擲した剣の鞘を、興味なさそうにばらばらと地面に捨てた。

「一度離反を決意したはずなのに、いざ国が燃えれば心変わりする者が多くてな。軟弱な事だ。戦時中、屈強な精神で死をも恐れず戦った戦士達はどこにいったのだ」

「隊長!」

「ヒラギにも声をかけなくて正解だった。国に対してあれだけ、憎悪すら抱いていても、結局は国につく。アリスローク、お前と似て頑なな男だ」

 ゆっくりとした動作で私達を見たヌアブロウとの間にルーナが滑り込む。その瞬間、ヌアブロウが剣を振りかぶった。組み合わさった剣の音がやけに重い。尖れた刃物が重なり合うというより、鉄の塊がぶつかり合っているみたいだ。

「牢に入れようが、殴られようが、気にも留めぬといった風に笑っていた女が、たかだが刃傷一つ、雨に降られて死にかける。……それほどに脆弱な女に、我々は追いやられたのだ」

「隊長…………?」

 ルーナが押されている。ヌアブロウの剣を受ける度、ルーナの身体は泥の中を滑って少しずつこっちに近づいてきているのだ。踏ん張りが効かないだけじゃない。それほどに、ヌアブロウの攻撃は重い。素人の私が見ても分かるくらいだ。

「戦争は終わってはならなかったのだ、アリスローク。仮令怠惰で惰性から続く戦争であっても構わなかった。民衆は国を守る王族と戦士達を尊重し、慎ましやかに生き、王族は戦士と共に国を守る。その形を我らは三百年間続けてきたのだ。それが終わった、終わってしまった。その結果がこれだ。民衆は戦士達を蔑ろにし、王族はそんな民衆を押さえられない。これが、私達が守り続けた国だ。そんな国を守る為に、私はどれだけ殺した? グラースの兵を殺し、私の命令で部下を殺し、血を血で贖い続けた結果がこれか! 私は英霊達になんと詫びればいい!? このような国を築くために貴方々は死んだのだと、どうして言える!」

「お気持ちは分かります、痛いほど、同感です。ですが、だからといって、カズキは、関係ありません!」

 ルーナの背中が私を隠そうとしてくれているけれど、相手の方が一回りも二回りも大柄だ。ルーナの頭越しに、ぎらぎらとした目が私を捉える。

 あれは、殺意だ。ナイフで切りかかってきた偽黒の気迫なんて可愛い物だと思う。視線だけで身体が竦む。冷たい物が競りあがってきて吐きそうなのに、その為の呼吸すら凍りついたように動かない。

 ヌアブロウは、底なし沼みたいな目で私を見ていた。

「力を持たず、財を持たず、ただその身だけの人間だろうが、時代が求めれば時代を動かす楔になることがある。そういう事があるのは、戦場でも分かっているだろう」

「だからと、いって、カズキを殺す必要は、ないではありませんか!」

「繋がっている者が問題なのだ! 国中に名を轟かす者ばかりと繋がっていながら、影響力がないとぬかすか、アリスローク。現にこの者は、我々が守ってきたブルドゥスという国の形を壊した。長らく不変であった我が国の変化に、この者が無関係であったとは言わさぬぞ!」

 鋭い音がしてルーナの足元に小型の刃物が落ちる。いつ投げられたかも分からなかった。私に向けて投げられたそれをルーナが弾き落としたのだ。



「…………だからこそ、私は後悔している。貴様はあの時、殺しておくべきだった!」

「ならば俺は、貴様を殺すぞ、ヌアブロウ!」

 重い剣の音が一撃、一撃交わされる度、心臓に直接響く。がん、がんと、剣の音に合わせて心臓が脈打つ。憎悪とはああいうものをいうのだ。人から本気の害意を向けられたことなんてなかった。日本で生きた十九年間、何かを憎んだり、誰かを本気で憎んだりしたことはない。嫌いだなとか、苦手だなとか思うことは勿論あった。でも、そんな時でも憎むまでいったことはない。悔しい時はその対象より上に行こうと頑張ったし、どうしても合わないときは関わらないようにした。苦手でも、嫌いでも、悔しくても、その相手をどうにかしようと思うより、自分をどうにかしてきた。

 だから、誰かを殺したいほど憎い感情が分からない。誰かに、殺したいほど憎まれる感情を叩きつけられたことも、ない、から。

 ただ、怖い。気持ちが悪い。誰かに憎まれることがこんなにも恐ろしいことだと知らなかった。そして、知りたくなかった。

 見たくないのに、どろりとした怨嗟の瞳から目が離せなくなった私の肩をアリスが掴んだ。はっとなって振り向く。アリスは肩を押さえて立ち上がっていた。

「立て、るか……?」

「動く、否、アリスっ」

「隊長の力、と、まともに組み合える奴など、軍士ハイくらいだ…………本来、ならば、いなすべき、攻撃を、私達がいるせいで、ルーナは、受けるしか、ない。このままでは、剣が、砕かれる」

 ルーナは身体が出来上がっていない時から大人の中で戦っていた。ルーナの武器は、素早さとしなやかさだ。相手の攻撃をいなして、流した勢いを利用して自分の攻撃を叩きこむ。昔に比べたら立派な成人になっている今だって決してごついとは言えない。そのルーナが、地面に足が埋まるほどの衝撃を一身に受け続けているのは、私が邪魔だからだ。

 アリスが伸ばしてくれた手は視線で断わって、自分で立ち上がる。血塗れの人の手を借りるのは申し訳がない。

 立ち上がっただけで視線だけじゃなくて身体がぐらぐらするのが分かる。白靄が点滅して、自分の呼吸音がやけに大きく聞こえてきた。一歩でも動くと意識が飛びそうになる私の手を掴み、アリスが走り出す。走ると言っても、一歩一歩強く踏み出すアリスに引っ張られて私は進むだけだ。アリスも、前のめりになりそうな勢いで進み、踏み出した一歩で身体を支えている。



「アリス……アリス、アリスっ…………」

「……なんだ」

 痛い。苦しい。気持ち悪い。吐きそう。

 寒い。怖い。悲しい。つらい。

 疲れた。歩きたくない。温かいベッドで寝たい。テレビ見て、友達とメールして、お母さんのご飯が食べたい。

「……私」

 私、皆と会っちゃいけなかった?

 私、この世界にいたらいけなかった?

 私、私、私は。

 胸の中で泣き喚いている言葉のどれも口には出さない。だって、伝えたい言葉はそんな物じゃない。彼らが与えてくれたのはもっと温かいものだった。彼らと出会って得たものは、こんな苦しくつらい言葉じゃない。胸の中ではぐるぐるぎゃあぎゃあ泣き叫ぶ言葉があって、今はそれらが大騒ぎしているけれど、一番大きな気持ちだけを口に出す。

「私、皆と会えた事柄、非常に、嬉しいっ……」

「…………私もだ。だから、そんなに泣くな」

 違うよ、これは雨だよって言いたかったのに、もう言葉なんて出せない。

 髪が張り付いた頬を雨が叩いていく。泣いてない。泣いてなんかない。これは雨だ。

 出来ないことばかりだから、せめて出来ることくらいちゃんとしよう。もう、何で霞んでいるか分からない目を擦り、必死に足を動かす。

 吊り橋は、鉄線などで補助されていないと思うと怖いけれど、もう全部怖いからどうでもいい。遥か下を轟々と流れる川は見ない、雨風で激しく揺れてもそれは私が死にかけてるから視界が揺れてると思えば、まあ、なんとかなる。



「勝者も敗者もなくして、三百年流れ続けた血が許すとでも思っているのか! 子どもの遊戯ではないのだぞ! あのままミガンダが落ちてさえいれば、明確な形での終戦が叶ったのだ! 貴様らも半ば諦めていただろう! それを貴様らは、あの女を引き渡せぬと死に物狂いで抗い始め、たった一年の結果がこの様だ!」

「戦争に疲れ切り、終戦を願ったのは民意だ! そして俺達が変わったのは、俺達がそう願ったからだ!」

「敗者が存在せぬ状態で、戦争の責を誰も取らず、取りたがらず! そうして全ての咎を押し付けられた戦士達の屈辱と無念をどうして許せる!」

「だからといって、カズキに責を取らせる事こそ咎だろう! 俺達の問題がどう動こうと、それは俺達が負うべきだ!」

 水が轟く音も、叩きつける雨の音も凄まじい音量なのに、二人の怒声は何にも遮られず私に届く。だから、聞こえてしまった。

「貴様はあの女を強みとするが、私からすればただの弱みだぞ、ルーナ・ホーネルト!」

 ヌアブロウの声が変わり、それまで一心に進んでいたアリスまでもが弾かれたように振り向いた。一拍遅れて、私も振り向く。


 この時見た光景を、私は一生忘れない。




 赤い雨が降る。

 灰色の世界の中で唯一色づく赤を纏い、ルーナの身体が頽れていく。


「あやつらを逃がすために受けていた分が致命傷だったな」

 砕けた剣を蹴り飛ばし、ヌアブロウが歩を進める。振り下ろされたヌアブロウの剣は、受けた剣ごとルーナの身体を切り裂いた。

[ルー、ナ]

 半分以上渡った吊り橋を無意識に戻りかけた私をアリスが止める。でも、何で止められているのか分からない。アリスに掴まれているから進めないのに、何で進めないのかも分からない。戻るじゃない、進むだ。いま、私の頭の中にはルーナの元に行くことが進行方向になっている。

「っ、カズキ!」

[ルーナ、待っ、て、ルーナ、ルーナ、が]

「カズキ!」

 私を引きずって連れていこうとするアリスのほうが泣きそうだ。私は、なんでだろう。涙が出ない。さっきあれほど雨で誤魔化そうとしていた涙がぴたりと止まってしまった。

 倒れたまま赤を広げていくルーナに固定された視界が黒い影に遮られる。ゆっくりと、まるで吸い寄せられるように視線が上がっていった。ルーナの血で赤く染まった剣は、雨で洗い流されていく。けれど、事実は変わらない。この男は、ルーナを斬ったのだ。

 ルーナを斬った剣が頭上高くに掲げられ、ぴたりと動きを止めた。恐怖は湧かない。怒りも、憎悪すらも。

 ただ、つらい。

 ずるりと座り込んだ私の目には、滴り落ちてくる赤しか見えない。何かが切れたのが分かる。どんなに深く吸っても息が上手く出来ない。

もう歩けない。もう進めない。しんどい。つらい。苦しい。痛い、苦しい、悲しい。その全てが飽和した。

「貴様の同胞が齎した兵器は、やがて世界を飲み込むだろう。戦争の形が変わる。訓練など受けたこともない人間が多数を殺せる兵器が広まれば、最早騎士も軍士も必要なくなる。我らが愛した国が変わろうというのなら、せめて引導は我らが下す。だが、せめて、世界を変えた責を負え、黒曜!」


 何がいけなかったのだろう。

 この世界に来たこと? 

 でも、だったら、どうしたらよかったのだ。私も、きっともう一人の人も、自分の意思で来たわけじゃない。どうやったら行けるのか、どうやったら帰れるのかそんなの分からないのに放り出された。そんな中で出会ってくれた人達と日々を過ごしたことは、そんなにも、誰かから憎悪を生み出すことだったのだろうか。

その結果が皆を失うことだったのだとすれば、私はどうしたらいいのだろう。


 恨めばいいのか。呪えばいいのか。

 でも、何を?

 世界を、人を、時代を、憎めばいいのだろうか。こうやって恨まれるように、私達をこの世界に放り込んだ神様を、今、ルーナを、アリスを傷つけたこの人を、呪えばいいというのだろうか。

 ああ、でも、それも、嫌だな。



「やめてください、隊長! やめろ――――!」

 私は前が見えないほどの雨と、振り下ろされる剣だけを見ていた。







 赤を撒き散らしながら私の上に剣が落ちる寸前、ヌアブロウは両目を見開いて身体を捻った。しかし、そこには誰もいない。

「俺が、カズキを、殺させるわけが、ないだろうっ……!」

 吊り橋の太いロープを利用して跳躍したルーナは、ヌアブロウの肩を飛び越え様に踵で顎を蹴りあげる。そのままの勢いで腕を挟み、無理やり剣筋をずらした。向きを変えた剣の切っ先が首を掠める。でも、痛くない。血が出ているような気もするけれど、雨が強すぎるのと、元から流し過ぎていた血で身体は既に冷え切っている。

「ぐっ」

 呻き声を上げて膝をついたヌアブロウに背を向け、ルーナは私を抱えて走りだした。倒れていたアリスの腕も掴み、そのまま吊り橋の端まで走り、私達を放り投げる。

 乱暴な動作で私の顔を傾けて首を確認する。あからさまに安堵を浮かべたと思ったら、血塗れの両手で私の頬を掴み、強く口づけた。

「愛してる、カズキ。お前に会えたその事実だけで、俺は一生、幸福でいられる」

 ルーナが笑った。私みたいに笑って誤魔化せの曖昧な笑顔じゃなくて、初めて笑ってくれた時みたいに、ふわりと、幸せを形にしたような笑顔で。

「ルー、ナ……?」

「好きだよ、カズキ。みんな今のカズキを愛した。忘れるな。お前だから、俺達の出会いは意味を持ったんだ」

 痛みを感じないのに、血の味だけはやけに鮮明だ。

 心臓が、うるさい。頭の中に心臓があるみたいに、どくんどくんと、真っ赤な何かが鳴り響く。ルーナを掴もうともがくように伸ばした手は、何も掴めなかった。ルーナが私を突き飛ばしたのだ。私の下敷きになったアリスが呻き声を上げる。

「アリスローク、カズキを頼んだ」

「よせ……やめろ、ルーナ!」

 ルーナは、それにも笑うだけで、吊り橋に戻ってしまった。



 頭を一振りしてヌアブロウが立ち上がる。

「……よくぞ動いた」

「俺は、騎士だからな。騎士は、守るものだ。それに、俺はカズキの男だから、自分の女に狼藉働く不埒者一人排除できないで、どうする」

 ルーナだってもう限界だ。遠目でも肩で息をしているのが見える。ルーナが触れたところ全部が真っ赤になっているのを見ても、どれだけ出血しているのか分かった。

「それで、これからどうするつもりだ。若くとも本当の戦場を知る者である以上、あまり無様な真似はしないでもらいたいものだが」

「俺はカズキを守れるのなら、無様だろうが、本望だ!」

 剣を持っていないルーナを押し潰すような勢いで剣が振り下ろされる。ルーナは揺れるようにそれを避けたが、剣は吊り橋に触れる前に斜めに振り上げられた。どこかに当たったのか、また赤が散る。ルーナの身体が倒れていく。

 雨は今も降りやまない。なのに、ルーナが笑ったのが見えた。

 狭い吊り橋の上でヌアブロウが動けばそれだけバランスが悪くなる。大きく揺れる吊り橋の上で、ルーナは剣を握ったヌアブロウの腕にするりと身体を絡めた。

「でかい図体が、致命傷だったな、ヌアブロウ!」

 足も使って身体を絡めたルーナは、揺れる吊り橋の勢いを利用して、そのまま宙に躍り出る。

 

 そして、灰色の世界に全ては飲み込まれた。






「………………ルーナ?」

 泥で滑る地面を掴み、地面に線を描きながら端に這い寄る。爪の間に泥が詰まり、何か棘まで刺さった。

「ルーナ」

 背高の細い草を掴んで身体を寄せ、切り立った下を覗きこむ。見ただけで足が竦む高さの下では、茶色い水が渦を巻くように流れている。水が岩に叩きつけられて弾ける様まで見えるのに、ルーナが見えない。

「ルーナ」

 音が、聞こえない。

「ルーナ」

 色が消えた。

「ルーナ」

 痛みも熱も感じない。

「ルーナ」

 世界が見えない。




「ルーナ」




 もう、何も、分からない。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ