37.神様、ちょっと世界は丸いです
がくんと、落下特有の衝撃と、痒みとは違うけれど何かが走り抜けるようなぞわわとした感覚が足先から脳天まで通った。
「ひっ……!」
思わず目の前のルーナの身体に爪を立ててしがみつき、地面を探して足が動くけれど当然何も踏みしめられない。パニックになりかけた私の視界がぱっと開ける。風に靡いたマントが広がったのだ。
視界いっぱいに世界が広がる。綺麗な街並みが続く先には、緑の世界があった。左右の端がなだらかで、ああ、この世界も地球と同じで丸いんだと何故か妙に感動した。
なのに、綺麗な街並みのあちこちで爆音が響く。あれだけ綺麗に敷き詰められていた石畳が吹き飛んでいくのが分かる。
多分、時間にしたら数秒もないのだろう。視界がぶれた直後に、がくんと、落下とは逆にその場にとどまるような衝撃がきた。何なのだと聞きたいのに、一気に水分が失われた口では質問すらできない。どこに視線を持っていけばいいのか分からずに、動き回る私の目は、空に生えたロープを掴んでいるルーナの手を見つけた。その手は、見たこともない分厚い手袋をしている。
「ルーナ!?」
「黙ってろ! 舌を噛むぞ!」
返事をする間もなく、また落下の感触。ひゅっと飲み込んだ空気が変なところに入って、空で溺れかける。しかし、咽ている暇はなかった。よく見たら上階から垂らされていたロープにぶら下がっているルーナは、そのまま滑り降り始めたのだ。手袋は手が焼けないためにだろうが、私は慌ててルーナにしがみつき直す。
[ろ、ろーて! ろーて使ってぇ!]
舌が強張って日本語なのに噛んだけれど気にする余裕がない。ルーナは私の分の体重も支えている。二人分を片手で支えてロープを滑り降りているのだ。
しゃー、なんて軽い音じゃない。明らかに何かが焼け焦げている音が通りすぎていく中、私達の身体は一気に下まで降りていく。
「ルーナ!」
「舌を噛むなよ!」
下からアリスの声が聞こえた瞬間、短い忠告をしたルーナは躊躇なく私を放り出した。
[落ちっ……!]
え、ちょ、殺生な!
無意識に縋るものを探して宙を泳いだ私の身体は、先に地上に降りたアリスに抱きとめられていた。助かったと安堵したのに、それでも思わずしがみつく。心臓が物凄く煩い。
「カズキ! 息をしろ!」
目の前に再びルーナの顔が迫っていて、知らぬうちに止めていた息を吐き出した。
抱きとめられた体勢のまま見える視界の先では、到底地面まで届いていないロープの先が揺れている。多分、あの勢いじゃ、二人であの高さまでしかないロープから飛び降りられなかったので、先に飛び降りたアリスに私を渡してくれたのだろう。……死ぬかと思いました。
仰向けに抱きとめられたまま固まっていた私の顔に大粒の雫が降り注ぐ。痛いほどに激しい雨が降る。ああ、もっと降ればいい。そうして、爆弾なんか使えなくなってしまえ。湿気て、二度と使えないゴミになればいい。
さっきまでいた城を外から見れば、酷い有り様だった。あれだけ壮観に、聳え立つかのように存在していた城のあちこちで爆炎が上がっている。シンデレラのお城みたいにあちこち生えている塔が、根元から折れていく様がやけにゆっくりと目に焼き付く。
長い長い戦争の戦火はここまで届かなかった。どんな時でも国の象徴であり続けた城がいま、燃えている。
何かを振り払うようにアリスは城から視線を外した。
「行くぞ!」
「待て、アリスローク! カズキ、肩を見せろ!」
「手当をしている時間はないぞ!」
「止血だけでもしないとまずい!」
叩きつけるような雨で髪が下りた二人が新鮮だなと呑気に思っていたが、雨の勢いは増すばかりだ。仰向けの私は地上で溺れる。
「いっ……!」
腕の付け根を何かの布で縛り上げられた。もう、傷口が痛いのか縛られた場所が痛いのか分からないくらい痛くて涙目になる。そんなに酷いのだろうか。張り手はアドレナリン全開だから出来たんだなと今更気づいた。
覚悟を決めて、未だ自分では見ていない傷口を見下ろそうとしたら、今度はアリスが私を抱えたまま走り出していた。
「な、なに、何事!?」
「ロヌスターが落とされた!」
返事を返してくれたのはありがたいけれど、ロヌスターが何かがまず分からない。人ですか、物ですか? ロブスターが落ちたら三秒ルールで食べると思います。
「ロヌスターはブルドゥスの港町の名前だ!」
並走して走っていたルーナが答えてくれたと同時に、突然進路を変えた。体勢を低くして走り出したと思ったら、その先にグラースの騎士がいるのが見える。こっちに用事があるのか、お互い顔を見合わせて走り出した。
二人に気付いていないのか、足を止めないアリスを制止しようとした私は、呆然とした声を上げた。
「え…………?」
騎士二人が剣を抜き、鋭く声を上げてルーナに斬りかかったのだ。ルーナも当たり前に剣を抜いている。
[なん、で……グラースの、騎士が?]
呆然と呟いてしまったので出てきた言葉は日本語だったけれど、グラースという単語でアリスは分かってくれた。
「ロヌスターを落としたのは、ガリザザ……大陸の、国だ」
「たい、りく」
「何故だ! ガリザザは確かに巨大な国だが、海を渡るためには、その前にルーヴァル国を越えなければならないのだぞ!? ルーヴァルとガリザザの兵力は拮抗していたはずだ!」
「そもそもガリザザは跡目争いが酷すぎて、海を渡ってまでこちらを攻める余裕などなかったはずだ」
いつの間にかルーナが戻ってきていた。さっきの二人はと聞きかけて、飲み込む。多分、聞いちゃ駄目だ。聞いても誰かに傷を残すだけだと分かった。
「カズキ。あれが何か分かるか」
あれが指す物は聞かなくても分かる。
[爆弾。私の世界の、武器……兵器…………]
「止める方法は分かるか?」
[火薬は湿気ると使えなくなるから、この雨は、多分凄く好都合だと思う。精度も……そんなによくないなら、すぐに使えなくなると思う……なってればいい]
私の言葉をルーナがアリスに訳してくれる。アリスは走りながらちらりと空を仰ぎ、安堵したのが分かる。
「そうか……ならばこれは僥倖か。ルーナ!」
一瞬目を瞑って何かを噛み締めたアリスの顔を下から見ていたら、またぐるりと視界が回ってルーナの顔を下から見ていた。アリスは、飛び出してきたブルドゥスの軍人に剣を抜いている。
[ブルドゥスの、人?]
「分からない。式典に乗じてガリザザの奴らがかなり混ざっている上に、反逆者も少なくない。もう、誰が味方なのかも分からない。王と決別した軍士達の大半が、既に都を離れている。そんな状況で、指揮系統も回らず、あんな新型兵器を出されては…………落ちるぞ」
何が、とは、聞かなくても分かる。分かってしまう。ブルドゥスが落ちる。国を守護してきた騎士と軍士が国に不審を抱き、誰もがバラバラになっていた時に爆弾まで出てきてしまった。あれは、この世界の人が見たことも想像したこともない武器なのだ。
[皆は、皆はどうするの!? リリィは!?]
「とにかく城から離れないことにはどうにもならない。敵と味方の区別がつかない。……ネビー医師は、走れないから残ると動かなかった」
[残ったら、どうなるの]
返事はなかった。
会話が途切れた私達の耳に届くのは、破壊音と怒声と悲鳴だ。
声が錯綜する。逃げろ、逃がすな、逃がせ。誰もが叫び、誰もが追って追われて、逃げて、逃がされている。混迷する声の中、守れと叫ぶ声がどんどん消えていく。
同じ服を着ている者同士が剣を向け合い、違う服を着た者が背を合わせて取り囲まれる様子が、次から次へと流れていった。
斬りかかってくる人達と、二人は交互に応戦している。最初はグラースの人はルーナ、ブルドゥスの人はアリスなのかと思っていたけれど、単に近いほうが応戦しているようだ。だって、もう何が何だか分からない。騎士服でも軍服でもない、侍女だのメイドだのの服装をした人も剣を構えているのだ。
そして、私はずっとお荷物である。
がくんがくんと揺れて回る視界は、走っている二人にぽいぽい回されているからだけではない。叩きつけるような雨が肌に触れる度に、体温が逃げていくのが分かる。そして、腕が痺れて動かない。ルーナもアリスも、私を抱えている間は強く肩を押さえつけている。多分、血が止まっていないのだ。
どこをどう走ったのか全く分からないけれど、いつの間にか目の前に見知った人達の姿を見つけて泣きそうになる。いつでも変わらない、にかっとしたティエンの笑顔と、つるりとした隊長の頭は本当にほっとする。
「よくやった、ルーナ、騎士アリスローク!」
駆け寄ってきた隊長とティエンに覗きこまれた。
「よお、カズキ! 元気……じゃねぇな! 残念だな!」
「残念じょりん……」
「お前の語尾も残念だな!」
けらけら笑いながら私の肩を見ているティエンとルーナがひそひそ話している。ごめん、全部聞こえてます。
「……血が止まってねぇな」
「……縫わないとまずい」
「……麻酔がねぇぞ」
「……最悪、そのまま縫う」
その話、聞きたくなかった、いやほんと。
思わず頭の中で浮かんだ五七五を誰かに伝えたかったけれど、暇そうな人は誰もいなかったので我慢だ。そうか、さっきから頭がぼーっとして世界がぐるぐる回っているのは貧血だったのか。貧血、今まで全く無縁だった病名です。なんか女の子っぽいとか、馬鹿な事を考えた。
見たことある人も見たことない人もいる。全部で数十名だろうか。少なくても、ここにいる人は信頼できると思っていいのだろう。だって、全員剣を握っていても意識は円陣の外に向けていた。背は、仲間に預けている。
何だか木が多いなと思っていたら、ここも見覚えがあった。見覚えも何も、今日アリスのおじさんと話をした場所だ。
その人達の視線が、全員弾かれたように同じ向きを向いた。雨音の中に、人の足音が混ざっている。
誰かが剣を握り直した音がやけに大きく聞こえた。
しかし、灰色の世界の中に飛び込んできたのは、コスモスみたいな色をしたドレスを身体に張り付けたリリィだった。
「カズキ!」
「カズキさん!」
走り寄ってくるリリィの後ろには、ネイさんと自警団の人が数人、何だか泣きそうな顔をしているイヴァル。
そして。
「ヒラギ、さん」
「再度見える幸運があったはいいが、飲み交わせる状況ではないのが如何とも、だな」
濡れた髪を鬱陶しげに払ったヒラギさんは、そのまま何十人か連れていた男の人達を片手で止めた。部下の人達だろうか。
ヒラギさんは無造作に足元の石を拾い上げ、まるでお手玉のように投げて遊ぶ。
「おじ、上」
「お前も黒曜も、人の呼び名を途中で区切るのが流行りか? 安心しろ。私はあちら側ではないさ。声をかけてくれていれば入ったかもしれないがね」
「おじ上!」
「あながち冗談でもないが、いざこうなると……どうにもこうにも腹立たしいな!」
語尾を強めて突如投げられた石が耳のすぐ傍を通りすぎていく。ぎゅんっと吸い込まれそうな音が耳を掠めていった先で、鈍い音と悲鳴が重なった。
たくさんの見慣れた服が追ってくる。グラースの服、ブルドゥスの服。だけど、着ている人はどこの人で、どこに所属すると決めた人なのだろう。
「行け、アリスローク」
「おじ上!」
「離反も覚悟した。だが、俺達はまだこの国の軍士だ。ならば抗うが道理だろう。……後一日待ってくれれば、こんな損な役回りは投げ出したのだがな」
重なる苦笑の声は、ヒラギさんが連れてきた男の人達が上げたものだ。彼らは肩を竦めて剣を抜いた。
そんな彼らと同様に肩を竦めたヒラギさんは、目を細めて一部崩れ落ちた城を見上げる。
「…………一度は置いていくと決めたが、やはり腹立たしいものだな。英霊が眠る地を、よりにもよって異国の者に荒らされるのは」
城には慰霊碑があるとエレナさんが言っていたのを思い出す。
ここは、エレナさんのご家族が、アリスのお父さんやお兄さんが、眠る場所なのだ。
「カズキ」
走り寄ってきたリリィの冷え切った手が、ルーナに抱きこまれている私の頬に触れた。
「私は行けないから、どうか無事に逃げて」
「リリ、いっ……!」
告げられた言葉に驚いて身を捩り、肩に激痛が走る。まるで、傷口ががまぐちみたいに開いた感触だ。ルーナの大きな掌が素早い動作で私の傷口を抑え込む。乾いたタオルがないのが致命的だ。濡れたタオルで止血しても、どんどん滲んで余計に失血していくから意味がない。
「私はガルディグアルディアだから。……ガルディグアルディアは帝都を守らなくちゃいけないのに、この事態を止められなかったっ!」
「リリィ……」
小さく細い肩に、雨で濡れたドレスが張り付いている。私は動く方の腕を何とか動かして、その小さな頭を胸に押し付けた。冷たく強張ったリリィの手がゆるりと動き、私の手を握り締める。
「……ごめんね、この失態の責任は必ず取る。けれど今は皆を守らないと……カズキ、ありがとう」
「謝礼も、謝罪も、申すは私ぞ、リリィ…………ごめん、ごめんっ、リリィ!」
私はきっと、最悪のタイミングでこの世界に戻ってきた。一番皆の目を逸らさせてはいけない時にこの世界に現れて、掻き乱した私は、まるで疫病神だ。
リリィの手を煩わせたのは私だ。いろんな気を逸らせたのも、余計な手間をかけさせたのも、私だ。謝ったって許されないのに、他に何を言えばいいのか分からない。なんでお礼なんて言ってくれるのかも、分からない。
リリィ、リリィ、ごめん、ごめん、ごめん!
言葉にならない全部リリィを抱きしめる片腕に託す。濡れた頭に額をつけて、ひたすらに抱きしめると、何故かリリィは小さく笑った。
「カズキの所為じゃないよ。カズキは何も悪くない。いつだってカズキを巻き込んだのはこの世界に生きる私達で、カズキはそんな私達にいつも優しかったよ。恨み言言ってよかったんだよ。なんでこんなことに巻き込んだって、怒鳴りつけてよかったんだよ。なのに、カズキはいつも優しいね…………ありがとう、カズキ」
「何故に、何故にしてリリィが謝礼を申すの! 私、私は、何事も」
泣くのはずるいと分かっているのに泣き出しそうになった。駄目だ、泣くなと自分を必死に戒めるのに、涙が溢れる。幸いにも雨が流してくれてほっとしたのも束の間、リリィは的確にその涙を拭ってしまった。
そのまま両手で私の手を握って冷たい額をつけ、まるで祈りを捧げるように瞳を閉じる。
「……やっと言えた。私ね、カズキ、あの日からずっと、あなたに言いたかったの」
「リリィ……?」
「最初はあなただって分からなかった。けど、カズキ……カズキが黒曜だったんだね。……泣き喚いて暴れる私を、ずっと抱きしめてくれてありがとう。魘されて飛び起きる私に付き添って、一晩中子守唄歌ってくれてありがとう。泣きすぎて痙攣をおこしそうになってる私に、何羽も何羽もオリヅルを折ってくれてありがとう。癇癪おこして石をぶつけたのに、笑って許してくれてありがとう、ごめんね、カズキ、ごめん、ありがとう、ありがとうっ……」
喉が裂けんばかりに泣き続ける幼子がいた。両親を含めた人間全員を強盗に殺された旅団の中で、唯一いた生き残りの子だった。
言葉も何も話せなくなって、唯一出る音は泣き叫ぶ絶叫で。
本来なら敵砦から連れ去ってきた私に触れさせるはずがなかったけれど、盗賊に両親を惨殺された女の子は、騎士や軍士の男たち全てを受け付けなかったのだ。
その子は三日後、お爺さんとお婆さんに引き取られていった。
お婆さんに抱き上げられて、親指を吸いながら涙をいっぱいに溜めた大きな目で、最後まで私を見ていた。
いま抱きしめている身体は小さいけれど、記憶にあるあの子より随分と大きい。
「……赤、髪で、あった、にょ?」
あの子は少し癖のある赤髪だったはずだ。
呆然とそれを伝えれば、顔を上げたリリィが嬉しそうに笑う。
「覚えててくれたんだ。大きくなったら色が薄くなっちゃったの。私の髪、梳きにくい上にあの時は暴れて大変だったのに、カズキ、何度も梳いてくれたね。…………ごめんね、私、あなたの顔も、声も、ほとんど覚えていないの。けれど、けれどね、あなたがとても優しかったことだけは、覚えてるんだよ」
叩きつけるような雨がリリィを濡らす。ああ、でも、その頬を伝い落ちるのは雨じゃないね、リリィ。
「あなたは私を優しいと言ったけど、最初に優しくしてくれたのはカズキだよ。自分を浚ってきた敵国の子どもに、あなたはずっと優しかった。私ね、ずっとカズキみたいになりたかったんだよ」
走り出した沢山の男達がヒラギさん達の集団と重なった。耳を劈くような、鋭い鉄と鉄が擦れ合う音が響く。
私を抱き上げたままのルーナが、少しずつ後ろに下がった。隊長も、ティエンもイヴァルも、戦闘に加わっていない人達は、同じように距離を取り始めている。
さっきリリィがしてくれたみたいに涙を拭ったら、その手に頬を寄せてリリィは目を閉じた。
「私、喋れなかったから、あなたが名前を聞いてくれたのに答えられなかった。だから、あなたに名乗るまで、誰にも名乗らないって決めてたの。カズキ、私ね、リーリアっていうの。リーリア・ユル・ガルディグアルディア。カズキが救ってくれた、泣き虫の子どもの名前だよ」
「リー、リア?」
「リリィは愛称だよ。お爺ちゃんもお婆ちゃんも死んじゃったから、リーリアって呼ぶ人、もういないの。カズキが偶に呼んでくれたら嬉しい」
それまでずっとリリィの後ろに立っていたネイさんが静かに口を開いた。
「お嬢様」
「分かってる。カズキ、再度見える幸運を!」
リリィが遠ざかる。ルーナが走り出したのだ。
「リリ……リーリア!」
ちょっと目を見開いたリリィが笑う。まるで花が綻ぶように、幸せな夢を見た子どものように、嬉しそうに笑った。
「カズキ、大好きだよ!」
叩きつける雨の中、こっちが泣きたくなるほど華奢な身体は、あの時と同じように、最後まで私を見ていた。
どんどん小さくなり、ついには見えなくなったリリィの姿をそれでも追ってしまう。
話したいことがいっぱいあるんだよ、リリィ。あの時も、あなたの存在に救われたのは私なんだよ。あなたの温もりに救われたんだよ。あなたがいたから泣かずにいられた。あなたに笑ってほしいから、私は笑えたんだよ。
「リリィ……リーリア…………リ、いぃ!?」
何度も何度も、まるで自分を奮い立たせる呪文にも思える名前を繰り返していたら、もう十分すぎるほど経験した落下の感覚が襲ってきた。ルーナは地面にぽっかり空いた穴に飛び降りて、私を抱えたまま危なげなく着地する。ルーナに抱かれていたので落とされる不安はなかったけれど、落下の衝撃が全身をびりびりと走り抜けていった。
暗くてよく見えないけれど、また水路だろうか。雨音とは違う、激しく流れる水音がする。
だんっ、だんっと、さっきルーナが着地した時と同じ音が断続的に続く。皆が飛び降りているのだ。そして、誰も立ち止まらずに走り出す。いつもなら分厚い鉄底の重たい足音が鳴り響いただろうけれど、雨に濡れてべちゃべちゃになった皆の足音もどこか湿っている。
私も自分で走るべきだと思うのに、足腰どころか視界まで回ってよく見えない。
どこに行くの。どこまで行くの。ルーナ、私はどこに行けばいいの。どこに行けば、リリィを迎えに行けるの。泣いて、泣いて、顔を真っ赤にして、喉が裂けんばかりに泣き叫んで絶望を伝えていた小さなあの子を雨の中に置き去りにして、私はどこに逃げるの。
「…………が」
「……ない、頼む」
頭の上で声がする。私はぼんやりとする意識を何とか掻き集めた。
私が抱きつくように凭れているのは、硬いけれど柔らかい何かだ。これは知ってる。筋肉だ。
[……あれ? アリスちゃんだ。ルーナかと思った]
「……げっ」
ぼんやり見上げたら、心底嫌そうな顔をされた。
[げって……]
「なんでここで起きるんだ、お前……」
全身濡れ鼠になった同士が引っ付いていてもべちゃべちゃで気持ちが悪い。しかし、離れようともがいても身体が重くて動かない。べったり凭れて迷惑だと思うのに、本当に指一本動かせないのだ。特に右肩から指先まで感覚すらない。
なんとか顔だけ上げてアリスちゃんの肩に顎を乗せて、私は状況を把握した。口元が引き攣るのが分かる。
薄暗くて丸い天井は、ここがまだ地下の水路だからだろう。ちょっと黴臭い。肌寒いのは、私達が濡れてるからだけじゃないだろう。
点々と散らばっているようで、恐らくそれぞれの分かれ道で追手を警戒している人達の影が伸びてゆらゆら揺れている中で、蝋燭の火で針を炙っていたルーナが顔を上げて私に気付き、心底気の毒そうな顔をした。
どうやら私は、迷惑にも気絶したにも拘らず、麻酔なしで縫われる直前に目を覚ましたらしい。なんというタイミング。せめて、二針三針は縫われてからにしてほしかった。
何か地図らしきものを見て話しあっている隊長とティエンを背景に、ルーナが近づいてくる。蝋燭の火が下から照らした顔は、シチュエーションも含めて今までで一番怖かった。
「私ではなく騎士ルーナに抱きつきたいだろうが、許せ、カズキ。私は縫えん」
ルーナが私の横に膝を下ろして、何かの切れ端を広げた。何本かの線が見えるが……物凄く、交通渋滞状態だ。その中でかろうじて一直線に縫われている線をルーナが指さす。
「さっき布で試し縫いした結果、俺が一番ましだった、が」
[ここで不吉な『が』が!]
「絶対痛いのに変わりはない。耐えてくれ」
[ぬ、縫わないって、選択は…………無理、です、よ、ね、はい……分かってる]
右腕の袖はいつの間にか破られていた。剥き出しの自分の腕を恐る恐る見下ろして、そこを初めて見る。ぱっくりと裂けた傷口から見える肉は意外と平気だったけれど、未だに血が止まってないことに絶望する。これさえ止まってたら縫わなくてよかったのに!
意思の力でどれだけ押さえつけても、身体は勝手に逃げようとする。けれど、アリスにしっかりと抱きかかえられると身動ぎも出来ない。
見たくもないのに、既に縫い付けられたように動かせない視線を持て余している私の口に、何かが捻じ込まれる。硬いけれどお箸よりは断然柔らかいそれは、アリスの指だった。
「口を開けろ」
「もぎゃ」
「………………どういう返事だ」
アリスの指が捻じ込まれて喋れなかったんですと抗議しようにも、そのまま強引に口を開かれて肩に押し付けられた。
「噛んでいろ。噛み切って構わん」
「もが」
涎つくよとか、噛むのはちょっととか、肩が張ってるから既に顎が疲れたとか、色々思い浮かんだ。けれど、深く息を吸い、そして吐いたルーナに全身が強張る。勝手に震える身体をアリスがしっかり抑え込む。身動ぎくらいさせてほしい。縫われる痛みなんて想像もできないのに、凄く痛いことだけはしっかり想像できる自分を殴りたい。その勢いで気絶したい。
「意識飛びそうだったら逆らうな。そのまま気絶しろ。いいな」
さっきまで蝋燭に近くて温められた指が、冷え切った私の肩にひたりと触れる。
「……いくぞ」
ぐっと唇を噛み締めたルーナに、私は神妙に頷いた。
こないでください。
追手がかかっている身としては、こんな音が反響する場所で大声上げるなんて愚の骨頂と分かっているし、ちゃんとアリスの肩も噛んでいた。けれど、道の先を確認しに行っていたイヴァルがすっ飛んで帰ってくるくらい、くぐもった絶叫は響き渡ったらしい。
針が刺さる瞬間までは出来るだけ声も押さえて、アリスの肩も噛まないようにしようと思っていたのに、終わった時には服越しじゃなかったら噛み千切っていたかもしれないくらいしっかりと噛んでしまっていた。どっちかというとこっちの歯茎にも大ダメージだけれど。
「……なんでこういう時は気絶しないんだ、お前は」
「……そういえば、昔から時間差で気絶してたな」
「時間差か……」
「時間差だ……」
ぐったりした私の上でしみじみ頷き合うの止めてもらえますかね。そんなこといっても、ふっと意識が飛びかけた時に、とってもぴったりなタイミングで激痛が走ったら目も覚めるというものですが。
「ルーナ、片づけは私がやろう。それよりもカズキを」
「僕! 僕がカズキさんを抱っこします!」
「イヴァル、暇なら針と糸を頼む」
「暇じゃありませんよ!」
アリスが受け取ろうとしていた針と糸が、くるりと方向を変えてイヴァルの手に渡った。イヴァルはぷりぷり怒りながらも受け取る。
[針と糸があるのに……なんで麻酔ないんですかね…………]
自分の声が、自分でも驚くほど擦れていて別人のようだ。喉奥で上げた絶叫の影響がこんな形で現れた。でも、麻酔なしで縫われる痛みに比べたら大したことないので特に気にならない。なのに私を見下ろす三人が揃って痛ましい顔をしたので、何だか大したことあるような気がしてきてしまった。
「ネビー医師がカズキに渡そうと用意していた救急箱に、ちょうど麻酔が切れていて取りに行くところだったんだそうだ」
神様は、小技を効かせてちょっとしたところに手厳しさを混ぜてきている気がする。
私は、針と糸をイヴァルに渡して空いたルーナの腕に渡された。この短期間で何回腕の中を移動しただろう。
「イヴァル……質疑応答いい?」
「はい」
「ヒューハは……逃亡、出来上がった?」
グラースの人もブルドゥスの人も混ざって逃げてるのに、そこにヒューハの姿はない。イヴァルは一緒じゃなかったのだろうか。ああ、それに王子様達はどうなったんだ。
イヴァルは一瞬息を飲んだ。けれどそれは束の間で、すぐににこりと笑った。
「ヒューハとは、はぐれちゃったみたいです」
「[そっか……]……ご無沙汰……沙汰……ぶ、無事……ご無事なら宜しいぞね」
「ええ」
どうしてイヴァルは笑うのだろう。笑おうとした顔で、笑うのだろう。
その笑顔がそれ以上の言葉を拒絶しているように思えて、何も言えなくなった。
「おーい、そこなる四人組、近々出立するぞ」
地図を見ながら額を突きつけあっていた隊長が声を上げると、周りに散らばっていた人達も腰を上げ始める。私達も隊長の元に移動した。移動といっても、私は運ばれているだけだけれど。
「ほんと……いつからはぐれちゃってたんでしょうね」
私を抱いたルーナが立ち上がって視界が上がる。俯いたイヴァルが呟いた言葉がやけに耳に残った。




