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神様は、少々私に手厳しい!  作者: 守野伊音
第一章:再会
34/100

34.神様、ちょっとパンドラの箱の回収願います


 お風呂も入ってさっぱりして、さらりとしたベッドで、さあ眠ろうかとしたけれどなかなか眠れない。今日もいろんなことがあった。最近は安心して眠れる場所じゃないところか、強制睡眠ばっかりだったから、こうして眠れる場所は本当にありがたいのに、落ち着かない。

 眠れない眠れないともぞもぞして、いろいろ考える。リリィが可愛いこと、軍部のこと、ティエンのこと、リリィが可愛いこと、イヴァルのこと、アリスちゃんのこと、エレナさんのこと、リリィが可愛いこと、ルーナのこと、犬猿の仲良しのこと。

 リリィ可愛い。私は末っ子だから、あんな妹が本当に欲しかった。私みたいな妹は真剣にいらない。お姉ちゃん達、妹が私で本当にすみませんでした!



 そして、気づいたら朝だった。

 頭を使った途端眠るとは、さすが私である。……疲れていたからだと思いたい。

 最後に可愛いリリィを思い浮かべたところまでは覚えているのに、何故か入れ歯に追いかけ回される夢を見た。悲しい。



 渡された着替えは、昨日の服よりもっといい感じだった。どういい感じかというと、ちょっと高そうなのである。きっといいお値段がするはずだ。そんな感じがする。裾や襟がかちっとして、裾や丈が色々長い。背が高い人がきたらかっこいいんだろうなと思いつつ、エプロンをつけた。エプロンも刺繍とフリルとレースがついていた。汚れるからするのだろうに、こんなに可愛くていいんだろうか。

 エプロンをしたら何だかやる気が出る。制服を着たら気分が変わるのと同じだと思う。エプロンを着たら家事をする気になる。今からすることは家事じゃないけど。

 部屋を出ようとしたら、ネビー先生が私を呼び止めた。

「カズキ」

「はい?」

「あの子を、見ていてやれ」

「え?」

 先生は、静かな声でそう言った。




 ルーナとアリスちゃんに連れ添われてどこかの部屋に入ったら、ゼフェカとスヤマがいた。一日ぶりだね、ゼフェカ。全然恋しくないや!

 ゼフェカは昨日とあまり変わらない、従者用の礼服で、スヤマは下ろした髪を丁寧に巻き、明るい色のドレスを着ていた。今日は私のジーンズではないらしい。

「おはようさ――ん」

 ティエンの真似をした私の無気力な挨拶を受けたゼフェカは、ちょっと眉に皺を寄せた。なんですか、気に入りませんか。私だって朝からゼフェカに会いたくなかったやい。

「昨日の服はどうしたんだよ」

「仮にもそれが黒曜だというのなら、付けるのがメイドでどうする。侍女だろう。そもそも、カズキをメイド扱いさせること自体許し難いんだ」

 今一意味が分からなくてルーナを見上げて、怖かったのですぐに視線を戻す。目つき悪くするとやっぱり怖いね、ルーナ!

 ルーナとゼフェカが睨み合っているので、二人に聞くのは諦めて親友(仮)の裾を引く。静電気で弾かれた。冬じゃないのに静電気を発生させるほど、私に女子らしい行動は似合いませんか。

 でも懲りない。

「アリスちゃん、アリスちゃん」

「何だ」

「じじょとは何ぞ?」

「……メイドが分かってどうして侍女が分からないんだ」

 不思議そうな顔をされた。そうは言われても、砦で皆が洗濯物の山に埋もれつつ『あー、メイド雇ってくれねぇかなぁ』と愚痴っていたので、お手伝いさんのことだと思っていたのだが違うのだろうか。

 そう言ったら解読にしばらくの沈黙を得て、返事を返してくれた。

「まあ、考えればそうだな。砦に侍女が派遣されるはずもない。侍女の単語を聞いたことがなくても不思議ではないな。一般人がやればメイド、良家の子女がやれば侍女くらいの認識でいい。特にお前は」

「了解したじょ。なればこそ、私はメイドで宜しかろう?」

「そうもいくか。メイドは立場が弱い。貴様をメイド扱いなど、騎士ルーナが許すはずもない。昨日も相当腹の中が煮えくり返っていたはずだ。それに、仮にも黒曜にメイドをつけたとなると、国の威信に関わる」

 昨日の服でも可愛かったけれど、いろいろあるらしい。私はあんまりそういう文化に詳しくないので分からない。西洋の文化に詳しかったら分かったかもしれないけれど、如何せん知識不足だ。アルバイトと正社員みたいなもの、という認識で合っているのだろうか。……間違ってる気がする。

 とにかく、一応『黒曜』とされているスヤマにメイドをつけるのはおかしいのは分かった。でも、それだったらどうしてゼフェカは私にメイドの衣装を用意したのだろう。

 こっちの世界での常識を、こっちの世界の人間が知らないのはおかしいのではないだろうか。

「……ゼフェカ、ブルドゥスの人間では無き様?」

「…………さあな」

 ひそひそと話していたら大きな音がして慌てて視線を戻す。ゼフェカは打ち鳴らした両手を上げ、ひょいっと肩を竦めた。

「分かった分かった。庶民派黒曜様の演出は諦めるさ。ほら、そいつ渡してくれ。今日はあっちこっちで茶会の誘いが入って忙しいんだ。お貴族様は暇だねぇ。こんな状況下で、やることは茶会ばかりかよ」

 呼ばれても駆け寄りたくないし、動くのを躊躇っていたがそうもいかない。

 観念してスヤマの隣についた。ゼフェカの横に行かなかったのはせめてもの反抗だ。いつか反攻もしてやる。

 無表情のルーナとアリスちゃんにひらひら手を振って、にかっと笑ってみた。

「…………カズキ、歯に胡椒が挟まってる」

「歯磨くぞおこなったにも拘らず!」

 笑って誤魔化せ作戦は私にダメージを与えてきた。どうやら私は、笑って誤魔化せ作戦の効果を見誤っていたようだ。

 とにかく、サンドイッチには気をつけなければならないと肝に銘じた。ハムは美味しいのに、なかなか手ごわい相手だ。






 お茶会と聞けば、ししおどしがどこかでかぽーんと音を立てている光景が思い浮かぶ。だって日本人だもの。

 中学校の日本文化を学ぼうという授業で、お茶をしたことがあった。しかし、如何せん抹茶が苦い。今ならちょっと苦いけど意外といけるとなっただろうけれど、数か月前まで小学生をしていた中学生には、何の苦行かと思った。正座より何より、そっちがきつかったのを覚えている。お菓子だけが救いだったのに、相手方の都合で予定していたお茶菓子が酒饅頭になって絶望した。まあ、正座もきつかったので、見事にひっくり返ったクラスメイトと折り重なって、先生に笑われたオチもしっかりついている。

 そんな、あらゆる意味で苦い思い出を噛み締める昼下がり。うふふおほほと響く、上品な笑い方が溢れるお茶会会場で、私は静かに立っている。

「あちらなるお菓子を頂戴致したい」

「お腹空きましたもんね」

「あちらなるお茶も頂戴仕りたい」

「喉も乾きましたもんね」

 訂正しよう。別に静かではなかった。

 私の左にイヴァル、右にはブルドゥスの騎士がいる。更にその左右には、ここでお茶会している人達の護衛だの侍女! の人がずらりと並んでいた。新しい言葉を覚えるとつい使いたくなってしまう。

 イヴァルとブルドゥスの騎士は、私の護衛である。護衛がつくなんてビッグな女になった気分だ。雰囲気を出すためにサングラスもしてくれないだろうか。



 私語をする人なんて私達くらいしかいない。方々から飛んでくる冷たい視線が痛いけれど、私達はやかましくお喋りだ。

 何故なら、『目立て』と任務を受けているのである。

 今日のお茶会では、今までスヤマに付いていたゼフェカがいない。ゼフェカは王様と王子様を脅し……謁見中だそうだ。

 だから、スヤマを揺さぶるためにも精々調子を崩してやれと言われている。ルーナは何もさせたくなさそうだったけれど、出来ることがあればやりたいと申し出たのは私だ。

 スヤマが表に出てくる時は、いつもぴったり張り付いていたゼフェカがいないのだ。これはチャンスである。ゼフェカはスヤマに、自分が合流するまで部屋には戻るなと言っていた。その言いつけを破らせるのが私の役目だ。

 いろいろ考えた結果、何も思い浮かばなかったのでお喋りに落ち着いてしまった。まあいいや。慣れないことをするより、居心地悪い思いをしながらでもお喋りする方が失敗はしないはずだ。

 きっと下がってしまう騎士二人の評判は、後で責任もって上げてくれるそうだし、こんな侍女を諌めることも出来ない人間として落ちるのが黒曜の評価だけなら別にいい。元々、今ついている評価は私には与り知らぬもので、過ぎたるものだから。

 でも、お茶会の空気を悪くしてしまっていることは、本当にごめんなさい。



「どうしたの、ヒューハ。今日はやけに大人しいね」

「こんな状況でへらへら笑ってられる程、俺は豪胆じゃない」

「ヒューハはイヴァルと同年だった」

「え、今も同年です」

「同じ年なんだねーって言ってるんだよ」

「え」

 お喋りはなかなかスムーズにいかない。主に私の所為で。イヴァルの通訳がなければだんまりになっていたかもしれない。

 ヒューハはイヴァルよりも少し背が高い。イヴァルはひょろひょろだけど、ヒューハは少し鍛えられているように見える。イヴァルも別に鍛えてないわけじゃないだろうけれど、筋肉がつきにくいのかもしれないが、それは言わずに口を噤む。男の子にとって、筋肉ないねと言うのは傷つくらしいと、昔のルーナを見ていて経験済みだ。散々からかい倒していたのがティエンだからという理由だったらどうしよう。

「ヒューハはイヴァルと友達だった」

「え、今も友達です」

「さっきと同じだよとだけ言っておくよ」

 重ね重ね申し訳ないけど、その語尾言いにくい。だったんだね……だったんだね……。

「だったるじょんね」

「え、なんか怖い」

 そんな、実際に二歩も離れていかないでください。これでも精一杯舌を回しているんです。



 少し離れた場所で席に付き、うふふおほほとやっているスヤマがちらちらこっちを見ているのが分かる。話し相手の人達の視線も、スヤマを見ているようでいてこっちを向いていた。ドヤ顔で応戦してみる。毛虫を見るような目を返された。凄い、毛虫のような睫毛が毛虫を見るような目で私を見てくる!

「カズキさん、カズキさん」

 ある種感動のようなものを覚えていると、イヴァルに裾を引かれた。なんだそれ、可愛い。静電気も発生しない。イヴァルの方が女子力があるようだ。

「僕、カズキさんから貰った物、全部大事に持ってるんですよ!」

「え、何物を差し上げたぞ……」

 イヴァルの笑顔は子どもの頃と変わらず輝いているのに、何だか嫌な予感がしてきた。

「えっとですね、クッキーと」

「廃棄求む! 至急緊急廃棄求むぞ!」

 にこにこと爆弾発言が飛んできた。それ、たぶんもうパンドラの箱並に開けちゃいけない何かになってる。パンドラの箱は一応希望があったけど、こっちは絶望しかない!

 一発目から飛ばしてくれたイヴァルは、その後も次々とかっ飛ばしてくれた。書き損じた書類でこしらえた折り紙や、得体のしれない何かになった手袋は腐るものじゃないからいいとしても、絶望だけが詰まった食べ物BOXは捨てることを約束させなければ。

 必死に言い募ると、イヴァルは全力でそれを跳ねのけた。

「嫌ですよ! それに、大事なものは捨てないんです! ね、ヒューハ!」

「全面的に同意はするけど、食べ物はちょっと躊躇うかも」

「ちょっとのみ!?」

 そこは全面的に躊躇ってほしかった!

 物凄く不満な顔をされたけど、物凄く不安な私の気持ちもどうか分かってほしい。必死にイヴァルを説得する。しかし、頑として首を縦に振らない。そういえば、あの頃から何でもかんでもとっておく子だったけれど、ここまでだったとは。あれだけ流行って、あっちでこっちで見かけた断捨離本を読んでおくべきだった。しゃりって美味しそうとか思っている場合じゃなかった!

「何故にしてそのようなものを後生親身に保管するぞ!」

「だって人は消えちゃうじゃないですか!」

 身を切るような声に、私は思わず動きを止めた。

 いつの間にかひょろりと伸びたイヴァルは、けれど昔と同じように服をぎゅっと握っている。我慢をさせているのだと、分かった。

「人はぱって、ぱって消えちゃうじゃないですか! 後方支援だから死なないって言ってたのに奇襲受けて死ぬし、強い人だって何でもない交戦で死ぬじゃないですか! 戦闘には出ないから、絶対死なないって思ってたカズキさんは、消え、消えちゃったじゃないですかぁ!」

「イヴァル……」

「でも、物は残るじゃないですか! 物があったら忘れたりしないし、その人は消えてもいなくなったりしない! 生きてても、いなくなるし、今みたいに国が僕らをバラバラにしようとするなら、物だけでも一緒にって、だからっ……!」

 大きくなったのに、昔の泣き虫イヴァルのままだったのだ。今にも泣き出しそうな顔で、必死に自分を守っているような声が私を責める。

 朝、ネイ先生が言っていた言葉を思い出す。

『あれは、ゆっくりと失うことを知らん。戦場での別離はいつだって唐突だ。それしか知らんまま図体ばかりがでかくなり、緩慢な別れに恐怖を抱いている。放っておくと崩れるかもしれん。お前さんだってその一因じゃぞ。お前さんの責ではないにしろ、見ていてやれ』

 幼い頃から戦場にいたイヴァルにとって、別れとは死だった。病気で死ぬ人も、寿命で死ぬ人も、配属替えで別れることすらなかったという。

『わしもいつかは老いで死ぬ。それすらもあれには初めての経験で、恐怖だ。わしのことで脅えている今に、初めて死以外の別離を教えたお前さんが帰ってきて、今は軍部との分裂じゃ。ちゃんと見ていろ。さもなくば壊れるやもしれんぞ』

 死ななくても人は別れるものだと、私が教えてしまったのだ。いま、死ではなく、私みたいな別れでもなく、もっと精神的に近い別れが彼を取り巻いている。今まで絶対だった軍士と騎士が分裂しようとしているのだ。仲違いとは違うかもしれないけれど、目指す先が分かれている。生きているのに別れなければならない。その事実が、イヴァルを蝕んでいる。ただただ理不尽だと、分からないと切り捨てられる子どもではなくなってしまったのが、更に彼を混乱させているのだ。

 十年、イヴァルは人との別れを極力避けてきたとネイ先生は言った。つまり、新しい出会いを求めなかったのだ。現に、イヴァルの知り合いで私が知らない人はヒューハだけだった。そして、たぶん、ヒューハはイヴァルと似ている。

 イヴァルの声に驚いた人々の視線が集まる中、ヒューハだけが静かだ。その眼が共感している。そうだ、彼も戦場で育った子どもだ。

 戦場で育った子ども達は、別れに鈍感になるか、敏感になるかの二択なのだそうだ。彼らは理不尽で不条理な別れを日常的に見過ぎた。突発的な死に慣れて、緩慢な死を知らない。理解できない。



「イヴァル!」

 昔より高くなった頬を両手で挟んで目を合わせる。額を合わせたかったけれど高さが足りない。野菜が食べられなくていやいやするたびに、眠れないと泣くたびに、よくした体勢だ。年上になった彼に、こんな公衆の面前ですることになるとは思わなかった。

 場所を移動しようとか、後にした方がいいとか、常識的な事も頭をよぎる。けれど、すぐに打ち払う。駄目だ、今じゃないとイヴァルが逃げる。

「食べる物箱は処分!」

「嫌です!」

「再度作成するから!」

 振り払おうとする腕に喰らいつく。逃げようとする顔を強く抑えて目線を外さない。これは小さい時の癖だけれど、イヴァルは目線が合っていない話はちゃんと聞かないのだ。

「幾度再度、作成するから! 再度再び邂逅叶ったから、幾度でも作成可能ぞから!」

「新しい物作ってくれても、カズキさんはまたいなくなっちゃうんでしょう!? ずっといられるかなんて、分からないんでしょう!?」

「はい!」

 咄嗟に勢いよく肯定してしまった。

 ぐしゃりと歪んだ顔に、慌てて何かを言おうとして一旦飲み込む。言葉を選べ。間違えるな。きっと、言語が同じでも丁寧に紡ぐべき言葉を、ただでさえ残念な語彙力で伝えなければならないのだ。

 私は、乾燥した口の中で、なんとか唾液を飲み込む。

「イヴァル、私にょ…………少々待機」

 早速詰まった。ちょっと待って。確か、何かいい単語を聞いたことがあったはずだ。

 目線は外しているけれど、私の手に挟まれて成すがままになっているイヴァルに、慌てないよう言葉を探す。

「いずれか、いなくなるやもしれぬ。ですが、それまでの期間、共に並ぶが可能で、それによりて…………イヴァル、私のみならず、人は、いずれ必ずいなくなる。ですが、私は、いずれそれなるのなら、大切に失いたい」

「え……?」

「大事に、大切に、失いたい」

 それが何でも、永遠に失わずにいられる保証なんてない。出会えば必ず別離は来るのだ。でも、その別離がどういうものかは、過ごした時間が決める。

 緩慢な別離は、いま過ごしている全てだ。出会って、別れるまでの全てがそうなのだ。

 人が言葉を交わして別離するまで、生きて死ぬまで、始まって終わるまで、全てが別離までの道程だ。

 そして、終わると分かっているからこそ、いつかその瞬間が訪れた時に悔いないようにしたいと願う。

「いなくなるやもは、イヴァルも同様である、から、ですが、イヴァル。私は、今現在を、大事に過ごすしたい」

 願いも明日も、ぶつ切りに奪われる死だけが別離ではないとイヴァルは知った。だったら次は、別れ方を知るべきだ。それさえ知れば、イヴァルは大丈夫だと、私は思う。だってイヴァルは強い。これだけ別れを経験して、これだけ別れを恐れても、出会いを嘆いたことは一度もなかったのだから。

 もう視線は逃げていない。合っている視線は戸惑いによるものだけれど、まっすぐに私を見下ろしている。昔は必死に私を見上げていた瞳が、私を見下ろす。

「イヴァル、大事なるは失うまでの期間で、大切に別離を惜しじょふっ………………」

 妙な沈黙が落ちた。頬を挟んだままだった私の両手をそっと外して、イヴァルが覗きこんでくる。

「………………噛みましたね?」

「…………ひゃい」

 口の中に血の味が滲んでくる。結構いった。単語を選ぶのに必死になって、舌の動きにまで気が回らなかった。大変、痛い。

 口を押えて悶えていると、さっきまで私がしていたように頬が挟まれる。

「口開けてください」

「あ――」

 大人しくかぱりと開けると、中を覗き込んだイヴァルはうわぁという顔をした。やめて! 余計に痛くなる!

「あ――……かなりやりましたね。先生に薬を貰ってきます。ヒューハ、少しお願い」

「え、ちょ、イヴァル!?」

 引き留めようとしたヒューハの声に、既に走り出していたイヴァルは振り向かず、手を振るだけで答えた。

「お前がいないと通訳いないんだけど!?」

「私なるは、いつおう同様なる言語をお喋りしてるにょ!?」

「いつおう!?」

「い、しゅおう?」

「………………………………一応?」

「それぞり」

 今や会場中の視線を二人占めした状態だ。スヤマを揺さぶるつもりが、まるで主役状態である。ここまでしろとは誰も言ってなかったし私もするつもりはなかったのにどうしてこうなった。

 居心地悪そうにしているヒューハには大変申し訳ない。けれど、イヴァルはもう少しだけ帰ってこないと思う。

 私は、快晴なのに一滴だけ降ってきた滴で濡れた頬を袖で拭った。


 イヴァルは、大丈夫だ。知らないだけで、知れば、ちゃんと受け止めて進んでいける子だ、と思う。それは彼の子ども時代を一緒に過ごした親ばか的な考え方かもしれないし、そうであってほしいと願う私の願望かもしれない。

 でも、彼の傷になるしかない私は、伝えたいものを伝えるしかできないのだ。私の言葉をどう受け止めるかは彼次第だ。届いてはいると思うから、後はどう飲み込むかを待つしかない。その結果が望んだものと違ったら、また話し合う。それだけのことだ。

 それに、あんな飯『だった』テロをこの世界に置いておくわけにはいかない。かといって、あっちの世界に置かれても困るけど。

 出来ればイヴァルに納得してもらって、彼の手で処分してもらいたい。パンドラの箱を捨てて嫌われたくはないが、もしもの時は強硬手段も必要だろう。……まさかとは思うけれど、手袋もどきや折り紙も同じ箱に入れてはいまいな?

 私が悶々と考え始めたとき、大きく手を鳴らす音が響いた。

 今まで私達に集中していた視線が音の出どころを見た瞬間、会場中の声がうねったのが分かる。ざわりと音がざわめいた様が視覚できそうなほどだった。

 何が起こったのだろうと音の出どころを探す。すると、人が割れるように後ずさりしている場所があった。音もそこからだ。

 片方に革の眼帯をつけた男の人が、拍手をしながら歩いてくる。

 腰に帯剣しているので軍人か騎士だ。男の人を見て露骨に眉を寄せる人から、脅えるように後ずさる人までいる。その人は確実にこっちに向かって歩いてきて、私の前で止まった。

 背が高い、三十代ほどの男性で、名前は知らないけれどナイフを背中や腰で止めるベルトが見えるから、この人は軍士だ。

「いい言葉を聞かせてもらった。礼をしたい。黒曜、君の侍女を少しの間借りてもいいだろうか」

 突然話を振られたスヤマは、がちゃんとカップを皿にぶつけた。さっきまで、詳しくは知らないので合っているかどうかは分からないけれど、綺麗な作法だったのに動揺しているらしい。違うんです、スヤマさん。動揺してほしいのはこういうシーンでじゃなくて、もっとこう二人っきりになった時にぽろりと情報を頂ける感じでお願いします。ぽろりもあるよ! みたいなサービスを頂けると大変うれしいです。生身のぽろりはいりません。私が悲しみに打ちひしがれることになります。

 私が現実逃避の旅に出ていると、スヤマがこほんと咳ばらいをした。

「い、いえ、お恥ずかしながら、見ての通り作法のなっていない侍女ですので」

「ご覧の通りぞ有様だす!」

今だけはスヤマに同意だ。そうです、お恥ずかしい侍女はこの私ですから、他を当たってください。貴方がどなたかは存じませんが、他を当たってください人違いです!

 私の必死の祈りは、低い淡々とした声で打ち砕かれた。

「それで結構。私も武骨な軍士。優美な作法など身に着けてはおりませんゆえ。では」

 言うなり私の手を掴んで引いていくこの人は、一体誰なんですかね!

 慌ててヒューハを見たら、こっちも慌ててついてこようとしている。

 すると男の人は、壁でもあるかのようにぴたっと止まった。当然ぶつかった。カズキは急には止まれません。

「ヒューハ・ニキュヤ。少しの時間、譲ってもらいたいのだが?」

「し、しかし!」

「二言が必要か?」

 淡々と告げられた言葉に、ヒューハがぐっと詰まった。もしかして、凄く偉い人なのだろうか。上下関係に厳しい職種だけれど、ヒューハは騎士でこの人は軍士のはずだ。だったら直接の上下関係ではないはずなのに、ヒューハは一拍迷った後、胸元に指を揃えた掌を当てて踵を揃えた。騎士の礼だ。軍士は拳を当てる。

 まあ、つまり。

「諦観した!?」

 諦められたのである!

「ヒューハ――! 待機! 少々待機――!」

「……了解しました。待っています」

「助力懇願救出要請!」

「…………あ――……聞こえません。何言ってるか分かりません」

「どちらさんなるか、通訳を! 翻訳求む――!」

 誰か、通訳呼んで――!


 犯罪者だって弁護士を呼ぶ権利があるのに、私に通訳を呼ぶ権利はなかったらしい。

 結局私は、訳が分からないまま引きずられて会場を後にした。


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