29.神様、ちょっと一日長すぎます
部屋に入ってきたゼフェカは、まだ繋いだままの私達の手を見てにやにや笑う。その顔が無性にいらぁとしたので、ぎゅっと握ってどや顔しておいた。凄く残念なものを見る顔をされたのは何故だろう。
「あんたには恥らうという選択肢はないのか……」
恥をかくはあっても、恥らうという選択肢はなかった。これだから女子力のない人間は!
「望み通り、そいつとの時間は取ったぞ。後は俺らのお姫様のエスコート、しっかりこなしてくれよ。怪我一つさせたら承知しないからな」
「こっちの台詞だ」
自分の女子力のなさをしきりに反省していると、視界がぶれた。ルーナに抱きこまれている。筋肉が硬いからちょっと痛いけれど、何だか嬉しい。そう呑気に思っていたら、段々ちょっとどころじゃなく苦しくなってきた。ルーナ、窒息します。
私を無言で強く抱きしめたルーナは、額にキスをしてから離れた。背中に回っていた手が肩を滑り、腕を通り、指に絡まる。最後まで私の人差し指を滑らせていった剣だこで硬くなった指が離れた瞬間、私の手はぷらんと落ちた。
そして、前髪が払われた額に柔らかいキスが降る。
[愛してる]
苦しそうな顔をするルーナを見るのは、私も苦しい。ここは、からっと笑って『秘儀! 特に意味のないポーズ!』をすべきかと考えていると、ルーナはぐっと唇を噛み締めて部屋から出て行った。当たり前みたいにキスされた事に動揺する間もないらしい。
閉まった扉を見て溜息をついた私の目尻に何かが触れて、反射的に叩き落とした。
「へえ、泣いたんだ」
延ばされてきた手を無造作に払ったことには、何の反応もないゼフェカが覗きこんでくる。それを三歩下がって避けた。
「ゼフェカに関係性のなき事柄」
両手で顔を覆って、大きく息を吐く。泣くだけ泣いたし、会いたい人に会えた。充分だ。泣いたことがばれたのは無性に悔しいけれど、泣き顔を見られたわけじゃないからよしとしよう。
顔を上げたタイミングを見計らってか、目の前に白いくしゅっとした布が放り投げられた。慌てて両手で受け止める。丸い布が細い紐で結ばれていた。
「それ、キャップ。頭につけて。あーあ、それにしてもなぁ。怪我させるなって言われてもなぁ。俺に責任がないとは言わないけど、あんた、真綿に包んでも綿に爪が引っかかって剥げたりとか、勝手に怪我しそうなんだよなぁ」
否定できないのが悲しい。
鏡の前に移動して、髪を一つに纏めてキャップをつける。キャップが落ちないようピンで留めていくにつれて、鏡に映った私とゼフェカの顔がシンクロしていく。最終的には二人とも項垂れた。
五分後、私の髪を纏めるゼフェカがいた。
「…………女って、自分で身だしなみ出来るもんじゃないのか」
あちこちがぴんぴこ跳ね、側面がぼこぼこし、がたがたになった頭が丁寧に纏められていく。言い訳が許されるなら、紐で結ぶって凄く難しいとだけ言わせてもらおう。
ゴムが恋しい。
「あんたの世界じゃどうだか知らないけど、こっちじゃ一般的に、女が男に髪を触らせるのは惚れてるからなんだぜ?」
思わず飛びずさって逃げてしまった。しかし、私の頭は既に完成している。
「ありがとうぅぅ」
「うっわ、そんな忌々しげに礼を言われるとか初体験」
自分ではできない頭をちゃんとセットしてもらえたから礼は言う。これをしなきゃ夜会の会場にもいられないらしいので、そこはありがたい、けれど、よく考えたら別に私が行かなきゃいけない訳でも、行きたい訳でもないのだ。
「理不尽」
「世の中ってそれで出来てるんだぜ。知らないの?」
投げられた白エプロンに袖を通す。紐が絡まって少々手間取る。無言で一回脱いで、どこにどう腕を通せばいいのか確認して着直した。もうゼフェカの手は借りない。借りてなるものか。
「なあ、知ってる? 男が女に服を贈る理由」
それくらい日本でも耳にしたことがあるから知っている。でも、これは服を贈られたことには入らないと思う。そして、私の恥らいを見ようとしてもそうはいかない。こんなちょっとしたセクハラくらい、さらりと流せるのだ。ミガンダ砦で鍛えられた私は、きりりと答えた。
「離脱ぞためと、私とて存じるぞ」
「離脱!?」
「……着脱?」
「あ、そっちのほうが近いわ」
きりりと間違えた。まあ、いいや。
姿見の前で身なりを確認する。後ろから肩に手を置いて覗き込んでくるゼフェカが邪魔だった。白いエプロンは裾と紐の部分にフリルがついていたけれど、後は至ってシンプルな作りだ。可愛い。ポケットが裏側についているのは機能的でいいと思う。今は入れる物が何もないのが悲しい。
「じゃあ行くか。ああ、そうだ」
部屋から出ようとしたゼフェカがくるりと振り向いたので、たたらを踏んでしまった。
「いいか? 俺達は黒曜と騎士ルーナのお付だからな。余計な事するな、言うな…………余計じゃなくてもするな。寧ろあんたは突っ立ってる以外、何もするな」
「それなるは、私を待機指定が最良ぞ?」
そんなに念を押すくらいなら、最初から連れて行かないほうがいいんじゃないだろうか。
私の視線を受けて、ゼフェカも苦虫を噛み潰したような顔をした。
「分かってるけどなぁ……こっちだって色々あるんだよ」
社会人は大変なのだろう。気苦労もあると思う。是非とも、気苦労さんにはその勢いで頑張ってもらいたい。そしてゼフェカの額は広くなればいいと思うのだ。ルーナやアリスちゃんの所に所属する気苦労さんにも召集をかけたいくらいである。
「あ、後、スヤマと二人っきりになった時は一応気をつけといてくれな」
何に気をつけろと言うのだろう。さっきルーナに、スヤマに怪我をさせるなと言っていたからそのことだろうか。もしかして彼女は、そんなにしょっちゅう怪我をする人なのだろうか。それなら、友達になれる気がする。こんな出会い方じゃなかったら良かった。
残念な気持ちになり落ちた私の肩に、ぽんっと手が置かれる。
「殺すなって念を押しといたけど、ガルディグアルディアの所であんたを殺そうとしたのはあいつだから、まあ気をつけといて」
「危機的状況なるは私だった案件!」
「一応、私兵はあいつのだからなぁ。いやぁ、危なかった危なかった。死ななくてよかったな」
軽いノリで背中をぱんぱん叩かれた。そんなノリで話されても困る。大丈夫大丈夫と言われても全く信用できない。『はいはい』と一緒で、繰り返されると信用できなくなるのだ。
それにしても、なんで初対面の人に命を狙われなくてはならないんだろう。いや、そもそもあの時はまだ会っていなかったから、見ず知らずの人に、だ。
「ゼフェカ、似非スヤマなるは、何故に私を標的にするよ」
「間違ってはないけど、偽って言ってくれよ、偽って」
「がせ」
「に」
「がに」
「そっちじゃねぇよ」
結局、偽を教えてもらっただけで、質問自体ははぐらかされてしまった。はぐらかされたのか、私の物覚えが悪かっただけなのかは悩むところだ。
部屋を出たら、ちょうど隣の部屋からルーナとスヤマが出てくるところだった。ルーナはさっきの服に上着を着ている。
「じゃあ、行くか」
ゼフェカに促されて、スヤマがにこりと微笑む。そして、ルーナの腕にするりと腕を絡める。
「ええ、行きましょう」
にっこりと私に向かって微笑むスヤマを見て、私は自分の頬が引き攣るのを感じた。正確には、スヤマの隣に立つ、恐ろしいまでに無表情のルーナが怖い。私はあまりの理不尽に眩暈を覚えた。何で私が怖がらなきゃならないのか!
ふんっと気合いを入れ、全然怖くないという態度を示す。つまり、どや顔だ。
どうだ、私だってそのルーナを怖がったりしないでいられるんですよ! と、スヤマに宣言する。ルーナを見ないのは、これは彼女に宣言しているからであって、決して、ルーナが怖いからではない…………無言の圧力に屈してしまい、ちらりとルーナを見上げる。するとルーナは、さっきまでの恐ろしい無表情から一変して、小さく笑っていた。思わずつられる。
きっ、と、睨んでいたスヤマの目が更に険悪になってしまった。
違うんです。あなたに睨まれたのに、嫌みを籠めた笑顔で返したみたいになったけれど、単にルーナが笑っていたのにつられたんです。どや顔対決中に余所に意識飛ばして、勝手に幸せになっていて誠に申し訳ございませんでした。特に反省はしていません。
しかし、この時の私は知らなかった。
今日一日いろいろあったが、一番つらい時間はこれからだということを。
つらい。
私の心を占めているのはその言葉だ。
視線の先には、いつもより多く飾りがついた服を着たルーナと、私の安売りコーディネートを着て尚、美しいスヤマが踊っている。会場中の視線が二人を見ていると思う。
会場に入った瞬間からざわめきが起こった。ルーナにエスコートされて人の中に進んでいくスヤマの頬は少し紅潮し、潤んだ瞳が彼女をさらに魅力的に見せている。
「騎士ルーナが連れているという事は、あの御方が本物の黒曜様だというのか!」
「帰還の噂は真だったのか……」
あちこちでそんな声が上がった。みんなの目が輝き、食い入るように二人を見つめている。波のように広がっていくざわめきも、耳を凝らせばわりと聞き取れるものだ。
「ああ、なんてお似合いなの!」
「運命に引き裂かれたお二人がいま、こうして再会を果たせるなんて! 本当にお伽噺のようね!」
きゃあきゃあ騒ぐ女の人達もいた。皆さん、丸聞こえです。
ルーナがエスコートしていることで、みんなの目には彼女が本物の黒曜として映っているのだ。
一着いったい幾らくらいになるのか、見当もつかないドレスを着た人達がいっぱいいる。こういうドレスを見ていたら、日本の普段着がどれだけ実用性があってシンプルなのか改めて気づける。重ね着でおしゃれしてる気分になっている場合ではなかった。
私とゼフェカは二人から少し離れた場所で控えることになった。夜会の会場に入れるのは貴族とか招待状がある人だけかと思ったら、そんなことはないらしい。どの貴族の人もお付の人を連れていた。お付の人は、ご主人さんの目線一つで飲み物を用意したり、空いた席を探しに行ったりしている。
壁の花、という言葉を聞いたことがあるけれど、本当に壁に張り付いているのは使用人である。
そして私は、じっと立っているだけだ。つらい。
ルーナと踊るスヤマは幸せそうに笑っている。ルーナの顔は恐ろしいまでに無表情だったけれど、彼女の目はどこかうっとりしていた。私を殺そうとしたり、王冠を奪って国を脅したりしている人だとは思えないくらい無邪気に笑っているように見えるのは、私の目が節穴だからだろうか。
そんな二人を見ながら、私はつらくて堪らない。
だって、凄く暑いのだ!
この世界では、電気がないので光源は全て炎だ。天井に何個もあるシャンデリアには蝋燭が大量に取り付けられ、地上でも壁にも柱にも、テーブルの上にも大量の燭台に太い蝋燭。今が夏じゃなくて本当に良かった。蒸して熱いだけでもつらいのに、会場中に充満する臭いの塊がまたつらい。
ご婦人方の香水はこれでもかと香るのに、何とも融和しない。私が一番と主張しあう匂いに交じり、会場中に飾られた花の香りもこれまた凄い。更に食事まで用意されているとなると堪らない。
臭い、暑い、あと眠い。
何、この苦行。シュッシュッしたい。空気清浄器の前をぶん取りたい。
香水はもともと体臭を誤魔化すためのものだと聞いたことがある。皆さん、お風呂毎日入ったらいいですよ! と思うのは、日本が水の豊富な国だからだろう。湯水のようになんて言葉も、所が変われば、宝物の意味で取られたりするのだ。
などと、関係のないことをつらつら考えていても、やっぱり暑い。
心頭滅却すれば火もまた涼し。
強風により、停電でエアコンがご臨終した真夏日。日当たり抜群の教室で、尚且つ一番日が当たる教壇に立っていた先生は、にこりと笑って言った。
『心頭滅却すれば火もまた涼し。さあ、皆さん。瞑想しましょう』
そう言って本当に目を閉じたお爺ちゃん先生の指示に従って、私達は目を閉じた。どこかで鳴り響く蝉の声がやけに大きく聞こえた昼下がりは、今でも印象深い。ああ、優しく穏やかだったお爺ちゃん先生の声を思い出す。あの静かな声音で、『不可です。残念ですねぇ』と笑ったお爺ちゃん先生。試験滅茶苦茶難しかったです。今期取り直して励んでいたのに、こっちの世界に来たことでまた落第だろう。あのままでも落第だった気がしてならないが。レポートの枚数規定、鬼のようでした。
[心頭滅却心頭滅却…………雑念多すぎで無理です、先生!]
「訳の分からない言葉ぶつぶつ言ってると思ったら、突然叫ぶのやめてくれる?」
バルコニーに繋がる大きな窓の傍でただ立っているだけの私でさえ、じんわり汗ばんでいる。せっかくお風呂に入ったのにと、残念な気持ちだ。ドレスを着て踊っている人達はどうやってあの優雅さを保っているのだろう。あれが女子力なのか、そうなのか。そしてルーナも、汗一つかかずにさらりと踊っている。あれがイケメン力なのか、そうなのか。
「あーあ、騎士ルーナずっと踊ってるわ。うちのお姫様明日大丈夫か?」
ルーナ達は、ダンスをしている時意外はひっきりなしに話しかけられている。それを避ける為か、確かにルーナはずっと踊っていた。それに付き合うスヤマも、最初は幸せそうだった微笑みが、若干引き攣って見える。ルーナは完璧な無表情だ。
こっちも『黒曜様』のお付とあってそれなりには話しかけられているけれど、基本的には全部ゼフェカが相手をしているし、隙あらば『黒曜様』とお話をとそっちに流れていくから、私の役割は本当に立っているだけだ。
SPとかが必要なほど囲まれたりするのかなと、ちょっとだけ思っていたけれど、そんな心配は必要なかった。隙あらばと狙っているのは分かるけれど、誰かを押しのけたり我先にと走ったりする人はいない。対面やプライドもあるのだろうけれど、表面上は皆さん上品だ。何故か常に笑っている。あれはあれで怖い。うふふ、ははは、と笑っている人しかいない場所に一人でいると、場違い感でそわそわしてしまいそうだ。 だけど、良くも悪くもゼフェカが隣にいるので、どこか隅っこにいたいときょろきょろしなくて済んでいる。全然嬉しくはないけれど。それに、既に壁際で突っ立っているので隅っこにはいた。
緊張も特にしないので、三重苦から意識が逸れないでつらい。臭いし、暑いし、眠い。けれど、きらきらと美味しそうに輝く食べ物に心惹かれたりもする。だってご飯を食べていないのだ。なのに出席者じゃない人間が食べることはできない。これまた苦行だ。四重苦である。
本当にやることがないので、会場内の人を観察していようとしたら、じろじろ見るのは目立つからやめろと言われた。何をしていればいいんですかね。
このままだと立ったまま眠りそうだ。
「ゼフェカ、オルカン返却要求」
暇なので交渉してみた。
「嫌だね」
即却下された。そりゃそうだ。
ゼフェカは両手を前で揃え、綺麗に背筋を伸ばしたまま話を続けた。
「そもそも、オルカンなんてへんてこなもの盗った覚えはねぇよ」
この姿勢で立っている人がこんな会話をしているなんて、誰も思わないだろう。そして、たぶん、私がちゃんと王冠と言えないからこの会話は止められてないんだろうと予想をつける。語学力のなさが役に立った。
会話が遮られる様子もないので、そのまま続ける。
「どちらさんが、オルカン略奪したぞ?」
「俺じゃないことは確かだなぁ。っていうか、知らない? いまこの二国で不満を噴出させてるのが誰か」
「存じぬが神」
「確かに、知らないほうが幸せな事ってあるよなぁ」
うんうんと一人で納得して頷くゼフェカを見ているのも何だったので、視線を会場に戻す。ルーナとスヤマはたくさんの人に囲まれていて、ルーナの頭しか見えない。仕方がないので食べ物でも眺めていようと視線を流していると、ふと気が付いた。他の人より体格がいい男の人と目が合うのだ。目が合えばすいっと流されたけれど、こうも続くと偶然じゃない気がする。それが一人じゃないのだから余計に気になる。
「軍士だよ」
「え?」
いきなり話が進んで、慌ててゼフェカを見上げる。
「ブルドゥスとグラースの民の間では、軍部の縮小、又は解体の声がでかいんだよ。戦争が終わって十年、英雄だ守護者だのと持て囃されていた軍士は、今や税金の無駄遣い、ただ飯ぐらいの役立たず、戦争の負の遺物だの、言われ放題だ。騎士はもともと国内の守備職だから残されるらしいけど、軍士達は解雇しろってあちこちで言われてるんだぜ」
あれだけ暑いと思っていた空気が一気に冷えていく。臭いも気にならない。血の気が失せていく感覚が鮮明に分かる。
いつも大きな声で笑うティエンが背を丸めていたことがある。違う戦場で戦友が死んだと歯を食い縛って泣いていた。誰もが何かを失って、それでも守る為に戦い続けた。それなのに、彼らにかけられる言葉はそんな物だと言うのか。守ってもらったのに、色んなものを犠牲にしても守ってくれていたのに、守られていた人が返すものが、どうしてそんなものなのだ。
ああ、吐きそうだ。人の身勝手さが気持ち悪い。
「十年は、人が恩を忘れるには充分な時間だったんだろうな」
目の前がちかちかするほど、どんどん血の気が失せていく。失せた血はどこにいくんだろう。冷たくなっていく手足に反して、心臓の音は大きくなる。硬質でとげとげした鼓動が大きくなっていく。心臓だけが激しく動いて、息ができない。
「まあ、俺は忘れないけどな。騎士ルーナもあんたを忘れなかった。忘れない奴は忘れないけど、大多数の奴は今がよけりゃいいんだろうさ。だから、三百年も共に戦わせた騎士と軍士の間を裂くようなことが平気で言える。蟠りしか残らないだろうになぁ」
エレナさんの凛とした横顔が浮かぶ。国の為に戦った人達を誇りと言いながらも、帰ってきてほしかったと願う彼女を前にしても、その人達は同じ言葉を吐けるのだろうか。
「戦時中は、相手に勝つことだけ考えて余力もなかったのに、下手に余力が出ればこの様だ。人間ってのは業が深いなぁ、カズキ。国の為に一丸になって戦っていた時代は終わった。今度は、自分の為に、自分さえよければそれでいい人間達の戦場が始まったんだ」
グラースもブルドゥスも、不満があればすべて敵国の所為にしてきた。しかし、和平が成り立って十年。民の不平不満をいなす先が無くなった。そうして、その業を軍人にかぶせるつもりなのか。誰かの所為にするのはとても楽だけれど、それを、大恩ある人達に擦り付けると言うのか。
三百年も戦争を続けて内乱が起きなかったのは、ひとえに軍士と騎士が戦友だったからだと、昔聞いた。賄賂や買収など悪事が蔓延らなかったのも、ちょっとしたバランスで国が失われてしまうと誰もが分かっていたからだと。どれだけ地位を買っても、土台である国が侵略されては意味がないのだ。
そうして保たれていた暗黙の了解が、平和を得て変わっていったのか。
「戦争してたほうがよかったって思う奴が現れても仕方ねぇと思わない? ああ、でも」
ずっと背筋を正したままだったゼフェカは、その背を曲げて私の顔を覗き込み、にたりと笑った。
「戦争が終わったの、あんたの所為だっけなぁ。あんたが三百年続いた時代を終わらせた。あんたの所為で、軍人達は窮地に立たされたって訳だ」
ああ、吐き気がする。
ルーナも、ティエンも、アリスも、エレナさんも、きっとみんな知っていた。知っていて、私には教えてくれなかった。優しい人達だから知らせないようにしてくれたのだ。
そんな優しい人達に、私が返せるものは何もないのか。返すどころか、奪うのか。
何をどうすればいいのか分からない。いっそ滑稽なまでに膨れ上がった幻の黒曜とやらが、ぱあっとすべて万事解決してくれたらいいのに。誰もが幸せな形を作ってくれるなら、服だろうが名前だろうが、何でも使ってくれたらいい。全部喜んで差し出すのに。
目の前がちかちかして、足元がぐらぐら揺れる。気持ちが悪い。不快感のような、痛みのような塊が胸の奥を陣取っている。吐き出したいのに、吐き出したそれが醜い悪態だったらどうしよう。余計に不快感が増して、更に嫌悪感までプラスされるかもしれない。
三百年続いた時代が終わった。そんなものを私が動かせたとは思えない。そこまで自分に価値を見いだせるほど図々しくはない。しかし、何の所為であれ、時代は確かに終わったのだろう。
『時代が終わるまで』
ゼフェカは、あの地下室でそう言った。戦争をしていた時代は終わった。そうして二国は十年の歳月を得た。次に終わるのは、何だ。終わって、そうして次に訪れるのは何なのだ。
このまましゃがみ込んでしまいたいけれど、ゼフェカには縋りたくない。ちかちかと白く点滅する視界は無意識に縋る人を探す。微笑む少女と踊っていたルーナがくるりと回った拍子にこっちを見て、目を見開いた。
ざっと青褪めたその顔で、頽れそうになった足に力が入る。
大丈夫。大丈夫だから、そんな顔しなくていいよ。
足腰に力を入れて踏ん張り、背筋を伸ばして胸を張る。顎を上げて視線はルーナに、後は口角を上げるのみ!
にっと笑ってみせる。大丈夫だよ、ルーナ。私は今日も元気です。
なんかまた痛そうな顔をさせてしまったけれど、咄嗟に出るのが笑って誤魔化せなのは、もうどうしようもない。だって日本人だもの。
小さく口笛を吹いたゼフェカが、いきなり視界の端に消える。驚いてそれを追うと、ゼフェカの腕を強く引き、ルーナ達のほうに押しやる人がいた。
「何て顔で笑うんだ、お前は」
「アリスちゃん!」
炎の色を受けて、少し赤みを帯びた金色の髪を光らせたアリスは、小さく嘆息してもう一回ゼフェカの身体を向こうに押しやる。たぶん、凄く失礼な行動だと思う。真面目なアリスがしているという事は、よほど腹に据えかねたのかもしれない。
「偽黒が呼んでいるぞ。早く行け」
忌々しげに睨みつけられたゼフェカは、ひょいっと肩を竦めた。
「はいはい、アードルゲ唯一の男子様の仰せのままに。ああ、そうだ。カズキ、ちゃんと戻ってくることが条件だけど、もう好きに動いていいぜ」
「さっさと行け、賊が」
「おお、怖い怖い」
微塵もそう思っていないと分かる声音で、ゼフェカはこっちを見ているルーナ達の元に歩いていった。ルーナの顔が遠目でも分かるくらい安堵している。とりあえずひらひらと小さく手を振ってみた。ふわりと笑われた。倍返しだ!
[笑って誤魔化せ作戦危険だわ……ルーナにされると惚れ直す!]
「お前は……青くなったり赤くなったり忙しない奴だな」
呆れたように嘆息される。その嘆息さえなんだか懐かしくて、思わず飛びつこうとしたら素早く避けられた。悲しい。
「やめろ、たわけ! ただでさせ不安定なこの時世に、騎士ルーナとの友好関係にまで罅が入ったらどうしてくれる!」
「アリスちゃんと体感ぞり――!」
「実感といえ、実感と!」
「びっちょん!」
「実感だ! たわけ!」
発音って難しい。
でも、さっきまで感じていた息苦しさは一気に霧散した。アリスちゃんは偉大だ。
周りの視線は若干気になるけれど、こうして話せる嬉しさに比べたらなんのその! ……ぐさぐさ視線が突き刺さって背中が痛い。あ、冷や汗かいてきた。
「全く貴様は……」
この短時間で連発された嘆息をもういっちょ追加され、促されるままに厚手のカーテンの裏に入る。壁があると思いきや、そこは壁が窪んだスペースがあり、椅子が並ぶちょっとした休憩所のようだ。他の壁にもこうしたカーテンがあったので、会場のあちこちにあるのかもしれない。
しかし、そんなことに驚いている暇はなかった。そこにいた人を見て、思わず叫ぶ。
丁寧に結い上げられた茶色の髪に、薄らと化粧を施された白い頬。小さな身体なのに、子どもっぽさを感じさせない凛とした立ち姿。
「リリィ!」
薄化粧でそばかすを隠しても可愛いリリィが、こくりと頷いた。




