22.神様、ちょっと残念過ぎます
自分が殴りつけた相手に手当てをされるという、気まずく、情けなく、微妙な時間を過ごした私は今、部屋の中で仁王立ちしていた。
ゼフェカの仕事が何かは知らないけれど、色々することもあるのだろう。ずっと私に付きっきりというわけにはいくまい。ずっと待っていた一人の時間をようやく得ることができた。これから、脱出口捜索活動に入ろうと思う。
ちなみに、手当のお礼はちゃんと言った。酷く驚かれたけれど、そもそも殴りつけたのは私だし、彼らが私にした事を恨むのと、私が筋を通す事は別問題だ。
利き手である左の指が折れたのは痛い。いろんな意味で。人差し指と中指を纏めて、添え木と一緒に包帯で巻かれた自分の手を見て嘆息する。右手で殴るべきだった。そんな冷静な判断ができるならまず殴りかかったりしなかったわけだけど、利き手は痛い。
ちゃんと考えなければと思った矢先にこれだ。ゼフェカが反撃してきたら、私なんて一巻の終わりだったのに、激情のままに殴り掛かってしまった。
一拍置いて、掌の付け根で自分の頬を叩く。振動が折れた指に伝わって痛かったけれど、反省と気合い入れを兼ねているからちょうどいい。
「うし、頑張ろ」
まずはベッドに繋がった足枷の調査からだ。さっき首飾りを探す時に這い蹲って気づいた。足枷の鎖はベッドに溶接されているわけではない。ベッドの足に輪っかを通していたのだ。つまり、持ち上げれば外れる。
[と、いうわけは、扉の外に見張りがいるんだろうなぁ……]
過剰な拘束をされていないということは、逃げられないように他が固められているのだろう。
とにかく部屋の中だけでも自由を得ようと、ベッドの足に通されている輪っかを回収することにした。頑張れば動かせないこともないベッドは、勿論頑張らないと動かせない訳で。
[ふんだばらっしょぉおおおおおお!]
足を差し入れ、使えない左手は肘を代用として、全力で少し浮かせたベッドの足から輪っかが落ちる。すかさず足を引いて鎖ごと引き寄せて、どすんとベッドを落とす。石床が割れるんじゃないかと思う音がして、慌てて扉に目をやったが誰かが入ってくる様子はなかった。
回収した鎖と輪っかは、邪魔なので腰に適当に巻いておく。なんとなく気になって手を嗅ぐと、馴染のある臭いがした。
[うへぇ……鉄棒とかブランコの臭いがする。ベッド、これ鉄の土台か]
除菌ティッシュが欲しいとか贅沢は言わないので、せめてウエットなティッシュが欲しい。ごしごしと服で拭って、改めて部屋の中を見回す。パッと見たところ通風孔は見つけられない。もしかして壁を埋め尽くす本棚の後ろだろうか。だが、それだと通風孔の役目を果たしていないんじゃなかろうか。
[まずい! 私窒息する!]
通風孔がない部屋なんて冗談じゃない。ピラミッドの遺体安置所だって通風孔があると聞くのに、なんてことだ。奴らは私を生きながらミイラにするつもりなのだろうか。
[神様! ヘルプ!]
頭を抱え、空を見上げるつもりで天井に視線を向けて、私の焦りは無意味と知った。この部屋に通風孔は普通に存在している。
天井付近の壁にだけど。
これはあれか。自分の限界に挑戦しろと。そういうことか神様! よし、任せろ!
まず挑戦したのは壁の角を利用した、スパイダーウーマン的な動きで地道に登っていく方法だ。幸い石をくみ上げた壁なので指を差し入れやすかったのだが、ここで問題になったのは折れた指だ。掌の付け根を押し付けて何とかしようと思った結果、盛大に落ちてお尻をしこたま打ち、しばらく呻いた。
次に挑戦したのは本棚の上からの大ジャンプだ。この馬鹿高い本棚を利用すれば、こう、壁走り的な勢いで通風孔に手をかけるくらいはいけるんじゃないかと思ったのだ。壁走りをやったことはないけれど、日本人だし『NINJYA!』的な感じでいけちゃったりしないだろうかと期待した。結果、よじ登っていた本棚が倒れて咄嗟に掴んだ隣の本棚も倒れた。薄情な私は本棚を裏切って心中を避ける。本棚もそのつもりだったのだろう。本棚は倒れる勢いで私は跳ね飛ばしたのだ。なんて優しい本棚だろう。ルーナという恋人がいなければ惚れていた。あ、でもリリィにはルーナがいても惚れてしまった。あれは仕方ないと思う。
スローモーションに見える世界でそんなことを思いながら、私は盛大に落ちて額を切った。
「何の音だ!」
轟音が鳴り響いた部屋に、兵士のような恰好をした男の人が二人駆け込んできて、中の様子を見てぽかんと口を開けたままになる。
なんということでしょう。
さっきまで、静かで本好きには堪らない雰囲気だった部屋は、私の手によって様変わり。壁に並んでいた本棚は倒れた衝撃で破壊され、飛び散った木片が積まれた本の上に降り注いでいます。もうもうと立ち込める白い埃が、この場の状況を更に悪化させて見せます。何より、この部屋の印象を決めるのがこちら、顔半分を染めて尚止まらない血を隠そうと、髪を全部前に持ってきて顔に張り付けて笑う私。お部屋の印象を一発で決めてしまう、私の腕がきらりと光った逸品です。
「うびゃぁ! …………うへ、へっへっへっへっ」
カルーラさん直伝『うほん作戦』を決行しようとしたら、意気込みすぎて変な声になった。それが何故か自分の中で非常にツボに入り、笑いが止まらなくなる。大声ではないけれど、へっへっへっと笑いが断続的に湧き上がり、お腹が痛くなってきた辺りでゼフェカが部屋に飛び込んできた。
部屋の惨状に唖然としたゼフェカに何ともいえない視線を向けられても、笑いはしばらく止まらなかった。
『うほん作戦』のみならず、日本人の心『笑って誤魔化せ作戦』も失敗に終わったようだ。敗因はきっと、血が隠れ切っていなかったことだろう。次に生かして頑張る所存だ。
しかし、冷静になれば、何があんなに笑えたのか本当に分からない。
「俺はね」
「はい」
「あんたの気持ちは分かるんだよ」
「はい」
背筋を伸ばして椅子の上で正座する私の目の前には、ゼフェカの胸がある。
「俺が言うのもなんだそりゃって感じだろうけど、浚われてきたらそりゃ逃げたいだろうし、恋人いりゃあその胸に飛び込みに行きたいだろう」
「はい」
「でもな、俺らは何もあんたを取って食おうとしてるわけじゃない訳だ」
「はい」
「確かに襲撃はしたけど、最初にあんたの命を狙ったのは俺らにも予定外の事態だったわけで、何もあんたに危害を加えようとか、あんたが憎くてしてるわけじゃない」
しょきょりと包帯が切られる音がして、鼻が当たるほど近くにあったゼフェカの胸が離れていく。薬箱らしきものに鋏と残った包帯をしまうと、私の肩を強く掴んで項垂れた。
「なのにあんた、なんで一人で勝手に怪我していくわけ?」
「摩訶不思議にょろ」
「あんたが一番摩訶不思議だよ!」
思わず謝ろうとして、慌てて口を噤む。手当をしてくれたとはいえ、ゼフェカは私を浚った相手だ。礼はともかく謝罪はいらないのではないだろうか。とはいえ、勝手に怪我していく私の所為で怒られることもあるかもしれない彼に、一応謝罪は必要かもしれない。
私は記憶を辿り、ティエンが使っていた謝罪の言葉を引っ張り出した。確か、軽く謝る時に使う言葉だ。
「へーへー、すんませんねー、ぞり!」
「うっわ、すげぇ腹立つ。女の子なんだから顔に傷が残ったらなことを心配してくれよ。男いるんだからさー。フラれるぞ、そんなんじゃ」
頭の傷は、思ったより血が出るものだという知識くらいはあるので、縫ったりしない程度なら大丈夫だと思っている。傷は、まあ、残ったら勲章ということで。
「ルーナぞ、否、は、ルーナは、そのような些末事薙ぎ払ってくれるわ! で、私なるを嫌ったりしない、良い男なのですぞよ」
「ああ、うん。あんたに付き合っただけじゃなく、恋愛にまで持ち込んだ騎士ルーナはすげぇと思うよ。今までは伝聞でしか聞いたことなかったけど、俺いま本心からそう思うわ」
ルーナの良い男っぷりが認められて嬉しい。相手は敵だけど。
恋人のイケメンっぷりを思い出していると、段々逆上せてきた。よし、話題を変えよう。
自分の中の話題を変えようと、とりあえず目の前にいるゼフェカを観察してみる。言動が軽いからついつい子供っぽく思いがちだけど、こうしてまじまじと見てみるとルーナと同じくらいの年齢はいってそうだ。ちょっと猫っぽい目をしている。そして、口調と違って動きは意外と雑じゃない。さっきだって、薬箱の蓋を押して重力で閉まるがままにするんじゃなくて、ちゃんと最後まで蓋を持ってぱたんと静かに閉めていた。
まじまじ見つめる私に気付いたゼフェカは、しなを作ってウインクする。
「なに? 惚れちゃった?」
「壊滅的に存在しない事態」
「くっそ、真顔で言われると傷つくわ」
絶対に傷ついていないと言いたいけれど、確かに微妙に傷ついているような気がする。真顔か、真顔がよかったのか。切り札として今度から練習しよう。目標はアリスちゃんの真顔だ。いつもは憤怒! ってくらい怒るのに、何故ふとした拍子に真顔になるのだ。あれ、地味に傷つく。
「ありがとう」
おでこにぴたりと巻かれた包帯に触りながらお礼を言う。こっちの包帯は日本で使っていた物に比べて伸縮性がないので、ずれない為には本当にぴたりと張り付くように巻かなければならない。砦で救護のお手伝いをした時には、散々不器用扱いされたものだ。多少動いてもずれないように隙間なく巻くのは、慣れないと凄く難しい。
お礼を言う度、ゼフェカはちょっと片眉を上げて、その後に苦笑する。
「どういたしまして。痛み止めの薬置いとくから、痛くなったら早めに飲んだほうがいいよ」
「了解」
「よし……にしたってなぁ」
はーっと長いため息をつかれる。
部屋の中は、私が手当てを受けている横でせっせと片づけられていた。重たそうな鎧を着た兵士のような、というよりたぶん兵士なんだろうが、鎧をがちゃがちゃさせながら嘗ては本棚だった木片を運んでいく。それを横目で一瞥して、ゼフェカは疲れた顔で言った。
「何か欲しい物は? 大抵の物は揃えてあげるから、頼むから大人しくしててくれないかな」
「望む行動は?」
「…………ものに、よるかな?」
このまま部屋の中で死なれても困るしねと肩を竦められる。こっちとしても、がちがちに拘束されるのは望むところではない。
まずしなければならないことは何だろう。ここから逃げることだ。ここから逃げる為には何が必要だ。敵をなぎ倒す力。無理。追っ手を振り切って逃げ切る脚力。鍛錬しよう。今の状況を推理して紐解く頭脳。あったらいいな。うふんあはん大作戦を成功させる色気。いつか手に入れよう。
出来ないことばかりだ。ミガンダ砦でも、この年になって何もできない自分を恥じた。今まで何をしてきたんだと情けなくて、みっともなくて、帰りたいだけじゃなくて消えてしまいたい思いも何度もした。
その度に、ルーナがいてくれた。出来ることをすればいいのだと。何も出来ないと俯く私に、じゃあ笑っていればいいと。あの頃のルーナは今よりずっとずっと、感情の出し方が不器用だった。それなのにぎこちなく笑って、私を励まそうとしてくれたのだ。その後の一年でよく笑う少年になった。それが非常に嬉しかったのに、その後の十年で逆戻りしたような形相に再会の時は度肝を抜かしたものだ。
「おーい?」
目の前でぱぁんと風が弾けた。びっくりするから普通に声をかけてほしい。私の半眼に、呆れた視線が返る。
「何度も呼んだんだけど」
さあ、話題を変えよう。
ここにルーナはいない。いたとしても、おんぶにだっこじゃ私が廃る。廃るほど繁栄しているのかと聞かれたら悩むけれど。
いつも同じことで落ち込む。自分の希望的観測でなければ、ミガンダ砦で過ごし始めたばかりの時より出来ることは増えている。少なくとも、日常的な動作で躊躇うことは少なくなった。
けれど、ずっと同じことを悩む予感がする。出来ることが増えても、出来ないことがある限りずっとだろう。そして、出来ないことなど何もない超人には、絶対なれない。
しかし、同じことを悩んできたということは、その度立ち直ってきたということでもある。立ち直っているだけで、別に解決はしていないけど! めそめそべそべそしている場合ではないし、何より、何でこの人達の前で泣かなきゃならんのかという。ルーナの前でさえあんまり泣いてないのに。
行動で何もできないなら、せめて情報だけでも集めたい。私は何の為に連れてこられたのか、ゼフェカ達は誰なのか、何なのか。一番聞きたいのはそれだけど、そんなことを探る手腕も、頭脳もない。ならば、まずはここがどこか、せめてこの部屋が何階にあるのかとか、そういうことから始めよう。
その為にはまずこの部屋から出なければ何も分からない。窓もないし、扉にも覗き穴も一切ついていない。憎いことに鍵穴すらない。だから、恐らくは鍵は外付けなのだろう。
そこまで悶々と考えて、はっと気づく。あるではないか。部屋から出る、真っ当で、実は割と切羽詰まっている用事が。
「トイレ懇願、切望に」
この部屋にはトイレがないのだ。そこでしろとか言われたら辞書で殴りつける。
ゼフェカは、あ、と間抜けな声を上げた。
「ごめんごめん。噂と違い過ぎる黒曜に驚いてうっかりしてた。こっちだよ」
ゼフェカが扉を叩いて合図を送ると、がちゃがちゃと音がして扉が開いた。ちょっと拍子抜けしながらあっさり扉を越えてしまった。しかし、左右に兵士が立っていてぎょっとしてしまう。四人もいるのか。
部屋から出るとひんやりと薄暗く、黴臭い臭いがする。壁も床も石だ。きょろきょろと廊下を見てみると、この部屋から廊下が伸びている。つまり、ここが突き当たりなのか。廊下の先は暗くてよく見えないけれど、そんなに距離はないらしく、反対側の突き当たりに薄ら階段らしきものが見える。上にしかない階段に、ここは地下か一階と見当をつけた。
まあ、トイレまでの道のりをじっくり覚えさせてもらおう。私の作戦はこれからだ!
意気込みを見せないよう平静を保つ私の前で、ゼフェカはくるりと振り返った。
「はい、トイレ」
出てきて一歩、右側の壁に扉。頭の中で、軽快な音楽と共にテロップが流れる。
残念、カズキの冒険はここで終わってしまった!
[残念過ぎる!]
「え? 何?」
怪訝な顔をするゼフェカに反応を返さず、扉に手をかける。大丈夫だ、まだお風呂という手がある。頭を怪我したから今日は入らないほうがいいかもしれないけど、まだこの建物内をうろつけるチャンスがある。
そう思い直して、とにかく火急の要件から済ませようとトイレに入った。
だが、それを見た瞬間に頭の中に再度音楽とテロップが流れる。
残念、水回りはセットでした!
[残念過ぎる!]
トイレの横で、一つ段差を得て広がるタイル床とバスタブを見て思わず抱えた頭がずきりと痛み、私はすごすご用を足して部屋に戻った。
壊れた本棚は撤去されたが、中身、つまり本はそのまま積み上げられただけだ。何とはなしにその山を眺めていると、不意にゼフェカが足元にしゃがんだ。何だろうと覗き込むと、足枷の先をベッドに繋げているらしい。後でまた外そうと思っていると、がしゃんと重たい音がして慌てて視線を戻す。ベッドに繋がった足枷に大きな南京錠が通されて固定されていた。
「ちぃい!」
「えっ、そんな気合いの入った舌打ち初めて聞いたんだけど。しかも相手が女とか……」
鎖もかなり短くされた。これだとベッド周辺しかうろつけない。ベッドを引きずれば移動は可能だろうが、かなり疲れる。…………その為のベッド装備か!
疲れたらいつでも眠れるようにベッドを持ち運ぶのは妙案かもしれない。かもしれないも何も、妙な案だと自分で思った。
「流石にあんたをそのまま放置するわけないだろ。はいはい、とりあえずこれ飲む」
ベッドに座らされ、温いお茶を飲む。苦い。
[うへぇ……]
「ちょっと苦いかもだけど、年頃の女の子がなんつー顔するの」
「お年頃な女取扱いしてくれるは、ルーナだけで存分」
ゼフェカはちょっと考えた。
「充分?」
「それ…………」
手の中からカップが滑り落ちる。割れると思って身を竦めようとしたけれど、身体は勝手に倒れていく。荒いシーツの感触が頬に触れ、突然霞み始めた視界の中では、ゼフェカに救われたカップが揺れている。本棚に続いて君まで臨終しなくてよかった、カップさん。
「俺、今から出かけなきゃならないから、もうあんた寝てて。痛み止めと水差しは枕元に置いとくから。後、明日は暴れないようにしてね。したいことも考えといて。暴れられるよりマシ。用事あったらこのベルで呼んで。誰かはいるから」
考えるも何も、眠らされたら考えられない。結局今日は、殴り掛かって指折れて、NINJYAしようとして頭切れて、残念、カズキの冒険はここで終わってしまったしただけだ。
とにかく外に出なければ。ここがどこなのか、せめて建物の雰囲気だけでも掴みたい。したいことなんてそれくらいしかないのに。
[したい、こと……できる、こと………………]
「ん? 寝言?」
確認の為に屈みこんでくるゼフェカに焦点が合わない。普段あまり薬を飲まないから、ちょっとしたものでも効きやすい私の意識はもう限界だ。
もごもごと要望を伝えてみると、何ともいえない顔をされた。うまく言えてなかっただろうか。だったらもう一回言わないと。
そう思うのに、私の意識はどんどん浮かんでいく。こういう時意識が沈んでいくとよく聞くけれど、どっちかというとふわふわ飛んでいくみたいだ。
「なんで最後の最後に女の子っぽい要望なの」
困ったような声で毛布をかけられたところまでは覚えているけれど、そのまますぅっと眠ってしまった。




