20.神様、ちょっと色々あり過ぎです
事態を把握することもできないのに、状況は私を置き去りにくるくる変わっていく。
いや、本当は最初から分かっていたのに私がそこまで頭が回らなかったのと、皆が隠してくれていたのだろう。その証拠に、ルーナはちっとも動揺していない。
「国を出る事にはなるが、俺はお前一人くらい余裕で養える。腕も鈍ってないぞ。追われることも考えると、東の少数民族のどこかに紛れ込むか、海を渡るという手もある。いっそ大陸まで足を延ばすか?」
[ま、待って、ルーナ待って!]
ルーナの声は、気負った様子はなく穏やかだ。焦った私の声だけが浴室に響く。
「いつまでだって待つ、と言いたいが、そう長くは待ってやれないのが現状だ。でも、出来るならカズキが選んだ道を行ってほしい。あまり選択肢を増やせないのが悔しいが。……カズキ。俺はカズキがどの道を選んでも必ず傍にいる。寧ろ、今よりは一緒にいれると思うぞ」
[そ、そりゃ嬉しいけど]
「こっちの世界、いつもこんなのでごめんな」
結局取られた手にはちゅーされた。恥ずかしがる余裕もなく、ついでといわんばかりに染めたばかりの湿った髪にもされた。
「この色も似合ってる」
[そ、そりゃどうも……]
手を取られたまま脱衣所へ行き、壁に設置されている鏡を覗き込む。日本のようにくっきり映らず、少しぼやけているけれど、充分判断できる。濃いずんだ餅みたいな髪色した自分がいた。ずんだ餅が食べたい。いやいや、エンドウ豆を煮つけたという可能性も。ワカメよりは白味があるし、ほうれん草とも違う。抹茶が一番近い気がする。緑茶を渋く入れすぎたとも考えられるけど、抹茶パフェ食べたい。
「…………ズキ」
抹茶は昔苦手だったけど、今は飲める。やっぱり大人になって味覚が変化したんだろうか。まあ、抹茶本体よりお茶菓子が好きなのは変わらないけれど。
「…………い」
お菓子……そうだ、最近お菓子作ってない。昔こっちの世界に来たとき、お菓子が食べたかったけれど作り方が分からなくてクッキー一つで悪戦苦闘した件を反省し、お菓子を作り始めたのだ。今ではクッキーは勿論、シフォンケーキだって作れる。焼き縮みするけど。
「…………るか?」
だが、こっちで作れるだろうか。温度設定ができるかすら不安だ。砦では竃だったわけだけど、たぶんここでも同じだろう。薪を中に入れてある程度燃やしたところに、焼きたいものを入れる。ボタンで温度調整なんてできない。
焼けるのだろうか。クッキーならいけるかな。昔でも出来たし。でも、いま食べたいのはクッキーじゃない気もする。今の気分は。
[チーズケーキ食べたい!]
「人の話を聞いてるか!?」
[はい! 聞いてません!]
「聞いてくれ、頼むから!」
[ごめんね!]
「惚れた弱みだ、許す!」
[ありがとう!]
私の恋人は太っ腹で幸せだ。太っても大好きだよ、ルーナ。太ったらお腹ぽよんぽよんさせてね。
というわけで、私は今、エレナさんと一緒に厨房に立っている。
ルーナを見送った後、私は向こうから持ってきた鞄からお菓子の本を引っ張り出し、お菓子を作りたいとエレナさんにお願いしてみた。
エレナさんはまず、本に興味津々でずっと見ていた。こっちの本とはいろいろ違うし、カラーだし、写真だし、興味深かったようだ。しばらく無言で本を読んだ後、颯爽と奥の部屋に行ったかと思うとエプロンを二つ持ってきた。
「わたくしも作ります」
「エレナさんも、お菓子創作好きにょろ?」
「以前、挑戦したことがあります。食べるのはもっと好きです」
「同意にょり!」
厨房まで歩きながら、エレナさんの目は本をまだ見ている。そのページはチョコレートケーキだ。
「この本は貴女の世界では一般的な物なのですか?」
「そう……だわよ!」
「語尾は、ある意味全てが不要です。見事な印刷技術ですね。絵も素晴らしい」
「あ、それなるは[しゃしん]ぞり」
「しゃしん?」
しまった、説明を求められた。ただでさえ説明は苦手なのに、こっちの世界の言葉に翻訳しながらという高等技術が必要だ。
「そ、そちらに林檎があるぞり!」
「ありません」
「あるとするぞろ」
「はい」
例えから躓いた。
「林檎を、書くするが絵。丸ごと……依然として……情勢は依然として……そのまま! そのまま待機! 待機違う! そのまま、覚える……報告書……保持……記録! そのまま記録保持したが紙にうつすがしゃしん!」
「そのまま紙にうつす、ですか?」
「そうぞよ!」
「林檎を紙に押し付けるのですか?」
「物理的!?」
結局、本に載っているように、情景そのままを記録することができる的な内容をふんわり伝えた。私の語彙力では、ふんわりというよりごわごわ伝えた気もする。作り方が載っているページで、一緒に作っている人が写っている写真で何となく理解してもらえた、と思う。
専用の機械がないと写真は撮れないし、印刷もできないと言ったら納得してくれて、その話は終わった。
けれど。
「人を、当時の姿のまま形に残せるのは、とても良いですね」
ぽつりと呟いたその横顔が、凄く印象的だった。
エレナさんと二人で意外とかわいいレースのふりふりエプロンを着用し、厨房に仁王立ちだ。厨房にあった材料を確認した結果、チーズケーキはチョコレートケーキに変更になった。どっちも大好物です。
「エレナさん、以前創作したお菓子は如何ぞり?」
何を作ったのだろう。この世界でしかないお菓子とかだったら、今度是非作ってほしい。是非とも食べてみたい。その結果、私のお腹がぽよんぽよんになったらルーナに触ってもらおう。
いつも通り、ぴしりと伸びた背中でまっすぐに前を見つめたエレナさんは、はきはき答えてくれた。
「焼き菓子です」
「大好物ぞり!」
「均等で、艶々で、大層美しい」
「はい!」
機敏な動きで、ざっと音を立てたエレナさんが私に向き合う。
「炭ができました」
「はい?」
「硬かったです」
「食事したにょり!?」
「はい。食べ物を粗末にすることは許されません。大変不味かったです。正直、鍛錬より苦行だと思いました。次はケーキを作ってみましたが、チョコレートを使用していないにも拘らず、同じ色の岩ができました。硬かったです」
美味しいお菓子を作ろう。
何だか潤んできた視界に、私は決意した。
エレナさんが選んだチョコレートケーキは、無情にもメレンゲを使うタイプだった。これは焼き加減が物を言う。もう一つ言うなら、メレンゲ命だ。
ハンドミキサーがない状態でメレンゲを作るのは骨が折れる。でも頑張ろうといれた私の気合いは無意味だった。
目の前で、白身が見る見るメレンゲになっていく。無表情のエレナさんの手元では、最早目では追えない速度で手が動き、メレンゲを作っていく。メレンゲができるまで時間がかかるだろうと、悠長にチョコレートとバターを湯煎で溶かしている場合ではなかった。
傍から見れば、お前チョコレートとバターに何の恨みがあるんだと思われてしまうだろう勢いで二つを溶かす。卵黄を放り込んで泡だて器でぐるぐる混ぜる。そんでもって、一回振るった粉類をもいっちょ振るいながら投下。さっくり混ぜる。
その間にメレンゲは完成してしまった。
「これで宜しいですか」
「ちょいと持ち上げてみろやぞり」
「はい」
「お見事でよ」
「ありがとうございます」
柔らかいどころかしっかりめのメレンゲの完成だ。ちょっとしっかりしすぎている気もするので、もしかしたら焼いた時膨らみすぎるかもしれない。まあ、硬くなければそれでいい、甘ければ最高だと思う! お菓子の定義がちょっと分からなくなってきたけど、食べることが苦行じゃないお菓子が完成すれば、もう何でも成功だと思う。
エレナさんはメレンゲを一掬いして、私の作っていた生地にぐるぐる混ぜ合わせる。捨てメレンゲだ。こうしたほうがいきなりメレンゲを混ぜ合わせるより生地同士が馴染みやすくなる。ここまでの作業は泡だて器、こっからはヘラでやる。そして、選手交代だ。
私はメレンゲを半分生地に入れて、潰さないようさっくさく底から混ぜる。混ざったら、今度は生地をメレンゲに投下。さっくさく底から混ぜる。メレンゲの白い線が見えなくなり、生地に艶が出て滑らかになったら焼く。
バターを塗って粉糖を振っておいた型に流しいれて、竃に走る。
そこでは普段厨房を任されているコックのおばさんが、汗だくで用意してくれていた。
「頼むしますぞろ!」
「はいよ!」
頼もしいお言葉と一緒に、逞しい腕でケーキが竃に滑り込んでいく。後は、おばさんに託すしかない。
両手を組んで、神様に祈るように竃を見つめる。おばさんも真剣そのものだ。
「…………以前」
「はい」
「奥様のお作りになったブルトンヌを、あたし達がいつも焼いてるように焼いたんだ」
「…………はい」
「どうして、ああなったんだろうねぇ。それはそれは艶やかで、へこみ一つない、美しい炭だったんだよ…………」
私とおばさんは、がしっと固く誓い合った。エレナさんの作ったお菓子を完成させるんだ。そして、また笑ってもらうんだ!
頷き合う私達二人を前に、エレナさんはまだ本を見ていた。横から覗きこんでみようとしたが、大きなお胸と長身に阻まれてよく見えない。それに気づいたのか、ちょっと本を傾けてくれた。
とんっと指で示されたのはシフォンケーキだ。
「これはどのようなお菓子なのです?」
「ふりふり……違うぞり、ふわふわぞり。スポンジケーキよりふわふわわよ!」
「作るのは難しいですか?」
「材料を細かく測量した後、竃にかける熱意ぞ成功すれば、できるぞろ。竃より取り出したる後、天地がひっくり返ったような大騒動をするのがコツぞり」
「…………ケーキの上下を引っくり返す、で宜しいですか?」
他にも気になるお菓子がたくさんあったらしく、あれもこれもと聞かれる。全部作ったことはないけれど、何となくぼんやり説明できたと思う。
そういえば、お母さんとはこんなことあんまりしなかった。
あっちに戻った後、お菓子も料理も作れない自分に反省し、実家に帰った折に夕飯を手伝ったりはしたけれど、基本的には母が主体で、母が決めたメニューを手伝っただけだ。まめまめしく手伝い出した私に、さては男ができたわねとからかってきた母に『逆です。男を失ったんです』とは言えなかった。
突然、ぐしゃぐしゃと頭を掻き回された。どっちかというと、頭ごと揺らされて首ががくんがくんと動く。驚いて顔を上げれば、無表情のエレナさんが私の頭を鷲掴みにして揺らしていた。
これは、たぶん、慰められている。
気づいた瞬間、思わず笑ってしまった。
向こうではとっくに卒業したような対応をされている。子ども扱いだと怒ったり恥ずかしく思うより、くすぐったさとありがたさが勝った。
こういう場所にいたい。こういう場所で、自分に出来る仕事をして、自分に出来る範囲の世界で向上して、そうして生きたい。
たったそれだけのことが、どうしてこんなに難しい。向こうでは逆にそれ以外の道の方が難しいのに、どうして。
自分の身の丈では到底不可能な世界の話に、知らない間に組み込まれていた。それが嫌なら逃げるしかない。大好きな恋人が手を取って逃げてくれるという。ありがたいし、嬉しいし、惚れ直す。
だけど、ルーナと逃げたら、今ある全てを捨てていくことになるのだろう。この世界で得た大切なものを置き去りにする覚悟が、どうしてもつかない。
優しい人達が、生まれ育った世界を遠く離れた私に居場所をくれたのに、どうしてその得難い存在を置いて、また知らない場所へと飛び出していかなければならないのか。
選ぶことが多すぎる。多すぎるのに、状況はくるくる変わって、私はそれに巻き込まれたままくるくる回っているだけだ。何も選んでいない。選ぶ暇もなく、道が一本しかなくなっていく。
流されるのは、私の決断の遅さが原因だろう。踏み切れない弱さが原因で失うものは何なのだろうか。
いい匂いが漂ってくるのに、私達の間に走るのはぴりりとした緊張感だ。息を吸うのも憚られる張りつめた空気の中で、おばさんが巨大なお好み焼きのへらみたいな道具にケーキを滑り乗せ、私の前に差し出してきた。いい匂いを発し、焼き上がったばかりでふわりと膨れた薄茶色のケーキ。艶々しているが、炭ではない!
私はそれに細い串を指そうと震える手を押さえる。本来は中が焼けているかを見る作業だ。串に中身がついてこなければ大丈夫なのだが、今は刺さるかどうかを重要視している。
ごくりと喉を鳴らしたのは誰だろう。もしかしたら全員かもしれない。
串は、すっと抵抗なく滑り込んでいった。引き抜くことも忘れてがばりと上げた私の顔は、感動と歓喜に溢れていただろう。
そのまま、無言で両手を広げたエレナさんの胸に飛び込む。お胸で息ができないくらい抱きしめられたけれど、この喜びの前では呼吸なんて二の次だ!
「刺さるぞ! 刺さるったぞり――!」
「その場合は刺さったが正しいでしょう! ですが、刺さりました!」
「刺さったが――!」
歓喜している私達の横で、おばさんはケーキに刺さったままの串を拝みだす。
その様子を、いつの間にか帰宅していたアリスが入口から見ていた。
「だ、誰が刺されたのだ…………」
冷や汗をかいて後ずさる親友(仮)の目は、綺麗に洗って並べられた包丁に釘付けだった。
その日の晩は、ちょっとしたパーティーになった。どうしても夜会に出なければならなかった人を除き、結構な女性達が夜会を断り屋敷に残る。
ちなみにパーティーの名称は『エレナさんのお菓子を食べる会』ではなく『エレナさんの作ったケーキになったケーキを見て感涙する会』だ。
私は配られて早速食べてしまった。美味しかったです。
冷めたケーキは、やっぱり少々膨らみすぎた影響でひび割れが目立った。けれど、一口ずつに切り分ければ気にならない。そのまま出す時は、上に粉糖かココアパウダーでもふればいい。ただし、そっとだ。周りをコーティングしていないケーキに飾り付けたパウダー類は、扱い注意である。間違ってもお誕生日ケーキに使用してはならない。
蝋燭を吹き消す大盛り上がりのシーンで、爆裂に吹き飛んでいくからである。
そっとケーキやその他を寄せて、テーブルを拭く虚しさといったらない。
何はともあれお祝いだ。
お酒はどうしようかと思ったけれど、日本人なので二十歳まで我慢である。細長くて可愛いグラスに入っているのは、柚子蜂蜜に似た味のジュースだ。美味しい。
皆が一口サイズに切り分けられたケーキを崇め奉る様子は壮観だ。
「カズキさん! 凄いわ!」
「カズキさん、ありがとう!」
「本当に素晴らしいわ!」
「ねえ、いつお姉様になってくださるの!?」
最後の問いに、まじまじと親指の先サイズのケーキを眺めていたアリスが噴き出した。
「天地がひっくり返ってもあり得ん話をするな!」
心からの叫びに、耳を劈く大ブーイングが起こる。グラスを持っていなかったら耳を防げたのに、直撃を食らってしまった。
「どうしてですの!?」
「わたくし達、カズキさんとでしたら仲良く出来ましてよ!?」
「お兄様!?」
「寧ろ大歓迎でしてよ!?」
「手ぐすね引いてお待ちしておりましてよ!?」
「はっ!? ロドリゲスに敵わないと最初から諦めて!?」
「いけませんわ、アリスロークさん! 愛する女性を簡単に諦めたりしては!」
「わたくし達も応援しますわ!」
「どんな手を使っても援護いたしますわ!」
「アリスロークさん!」
色の大洪水に詰め寄られたアリスは、普通なら彼女達の勢いに呑まれて何も言えなくなってしまいそうなところを、窓に張り付いたまま怒鳴り返した。流石、この家で生まれ育ったアリスだ。
「私は!」
「なんですの!?」
「どうされたの!?」
「何か策がおありですの!?」
「流石アリスロークさん!」
「それでこそアードルゲの男ですわ!」
一言投擲すればマシンガンで返ってくる。それがアードルゲクオリティ。このマシンガンに勝てるのは、バズーカを思わせるエレナさんの張りのある声だけだと思う。
「カズキと私は、しっ、しっ、親友だっ……!」
そんな、心底心外である、何でこんなことにみたいな顔して親友宣言しなくてもいいじゃないか。寧ろ淡々と宣言してほしい。その後ぼそっと『寧ろこんな女娶ったら、ありとあらゆる意味で家が沈む』って呟くのやめてください。
「そうですわ! 一度お伺いしたいと思っておりましたの!」
「男性と女性が親友だなんて素晴らしいわ!」
「一体いつお知り合いに!?」
「どんなきっかけで親友に!?」
「後学の為にも是非教えて頂きたいわ!」
アリスの視線と私の視線がばっちり合った。女性達はわくわくと輝いた顔で私達を見つめているが、私達は無表情でこくりと頷く。
パンツで繋がる縁だとは、黙っていよう。
私達の心は確かに繋がった。今なら親友に仮をつけなくていい。
ただ、私はアリスに言おうか迷っていることがある。
私の故郷には、二度あることは三度あるってことわざがあるということを。
窓際に張り付くようにして二人で避難する。アリスはまだ一欠けらのケーキを眺めていた。早く食べてください。透かすように天井に向けて掲げなくても美味しいです。
「騎士ルーナと逃げるか?」
まじまじとケーキを眺めながら唐突にかけられた言葉に、葡萄っぽい色した葡萄じゃない味のジュースを噴き出した。これ何のジュースなんだろう。美味しい。
「それもありだろうな。ブルドゥスもグラースも、お前には住みづらくなる」
「アリスが発言していいにょろ……」
「騎士アードルゲとしてはまずいが、実家でくらいいいだろう」
ついにぱくりと口に移動したケーキは、一瞬で消えた。もぐもぐ咀嚼している姿は、何だか子どもみたいだ。
「奇跡だ。甘くて硬くない」
「お菓子だもね」
「奇跡だ」
二回の奇跡を頂いたので、三度目もありそうだ。
お皿とフォークをテーブルに戻し、アリスはようやくこっちを見た。目の下の隈が凄い。たぶん、疲れているのだろう。アリスはあまり家に帰ってこない。忙しいのだ。たぶん、私の所為で。
「逃げるなら手を貸してやる。平和祈念の儀まで後半月程だから、少なくとも十日以内には決めろ。酷だろうが、出来るだけ早く決めろ」
「承知してるぞり……」
「騎士ルーナが、城で煩いんだ!」
「あれぇ!?」
そんな話だったっけ!?
アリスは苦渋に満ちた顔で、ばんっとテーブルに両手をついた。
「表だって接触は出来ないが、ほんの僅かな時間でも接触したら、お前は元気か、お前は泣いていないか、お前は消えてないかだぞ!? 会ったとき直接聞けと言ったら、聞いても大丈夫と答えるに決まってるだと! そうかもしれんが、私を巻き込むな! 寧ろ私より貴様が会っているだろう、騎士ルーナ!」
「と、とりもあえず、消えては私の判断では不可能ぞり」
「知っているわ! だが、その不安をお前の前で言うのは格好悪いだのなんだのっ、だから私を巻き込むな!」
「ご、ごめんぞり」
「貴様の所為ではないわ!」
「どうすろと!?」
さっきはあれほど分かりあった親友が遠く感じる。一気に親友(仮)に逆戻りだ。親友(仮)が何考えているのか分からない。
でも、お疲れなのは分かる。主に、私とルーナの所為で。
両手をテーブルに叩きつけたまま、がっくりと項垂れたアリスの背中を、ごめんねの気持ちを込めて擦る。何だったら後でマッサージしてあげよう。私は、お母さんの背中を一分一円でマッサージしていた凄腕なのだ。ちなみに、お父さんは一分百円くれた。お母さん会社、厳しすぎる。
擦っていた背中は鍛え上げられていて硬い。私の指で通用するか分からない。これは手首と肘の出番かと考えていたけれど、次第に違うと気づく。硬いのは硬い。
けれどこれは、強張っている。
テーブルに叩きつけられた掌は、いつの間にか握りしめられていた。
「…………ぜだ」
「……アリス?」
弾かれたように顔を上げたアリスは、その勢いのまま剣を抜いた。
「どこから漏れている!」
手を引かれ、突き飛ばされるように窓際から離される。
蹴躓きながら何とか振り返った後ろで、アリスが窓から飛び出していく。
「総員戦闘態勢に移れ!」
エレナさんの鋭い声に、皆は一斉にケーキを口に放り込んでもぐもぐしながら駆け出して行った。食べるのは忘れない、その姿勢は称賛に値すると思う。是非とも見習おう。
「貴女はこちらです」
手を引かれてつんのめりながら歩く。廊下では、惜しげもなくドレスの裾を捲りあげ、足を丸出しにした皆や、メイドさん達が剣を構えていた。
「ガルディグアルディアから渡された袋は持っていますね?」
「は、はい」
「では、それと、貴女の荷物だけ用意しなさい。地下室に行きます」
「た、待機、待機。何が」
「駆け足!」
「足――!」
急かされるままに走るけれど、状況が全く分からない。
先頭を切って廊下を疾走していたエレナさんがぴたりと止まった。あまりに急すぎて顔面から背中に突っ込んだけれど、伸びた背中はぴくりとも動かない。寧ろぶつかった私が弾かれて尻もちをつく。
お尻を擦りながら前を見て、愕然とした。
そこには男がいた。額も口元も覆われて目元しか見えないけれど、男と分かった。
前も、見たから。
この男ではないだろう。だってあの男は、もういない。もういないのに、どうして同じ恰好した奴らがここにいるのだろう。
「その娘か……? しかし、髪色が」
「髪色など幾らでも変えられる」
部屋の中からもう一人男が出てきた。どうやらその部屋の窓から侵入してきたようだ。
エレナさんは無言で剣を構えた。
「その娘を寄越せ」
「断る」
男二人に剣を向けられても、エレナさんの背はいつもと同じ、ぴしりと伸びている。
「恩人であるこの子を、娘と同じ年であるこの子を、息子と結婚してくれたら楽しいと思っているこの子を、夫に似たこの子を、わたくしが渡すと? この家から誰かを再び奪おうとしている輩に、わたくしが? 寝言は寝て言え、死んで言え!」
斬りかかったのはエレナさんが先だった。
ドレスを着た女性が放ったとは思えない速度の剣撃に、受け止めた男はたたらを踏んだ。よろめいた男の腹を蹴り飛ばし、返す刃を隣の男に叩きこむ。衝撃が目に見えるようだった。がくんと身体を揺らして壁に叩きつけられた男の姿に、剣撃の強さが分かる。
重いのだ。戦場でも、鎚や斧といった重量のある武器を受けた相手がこんな動きをしていた。長身を生かして相手の頭上から振りかぶる重さのある剣を、両刃の男は受けきれず、いなそうとした動きも間に合わなかった。
がきんと、組み合った音に比べて重すぎる音がして、男の剣が折れる。その男の首筋に剣を突きつけ、エレナさんは一歩踏み込んだ。
「誰に雇われた?」
低い声に男は答えない。
「初めにこの子を狙った輩は、問答無用で命を狙ってきたそうですね。今度は矢も火も使われていない。何故、連れ去ろうとする」
「使ってやろうか?」
「何?」
男の目は私を見ていた。目だけが見える。目だけが、私を捉えようと動く。エレナさんの背が視界を遮って尚、視線が追っているのが分かる。彼は今、私に話している。
「我がブルドゥス国の為に多大な犠牲を払ったアードルゲへの礼儀として、思い出を焼かずにおいてやろうとしただけのこと。ここにしかないのだろう? アードルゲの男達を描いた絵は」
エレナさんと旦那さんが並んで立つ絵。アリスがたくさんの兄弟と手を繋いでいる絵。写真がないこの場所で唯一、今は亡き人達を留めたものが、焼かれる? 壊される?
なんで、どうして。
決まっている。
私が、いるから。
足が勝手に下がる。
私がいるから、襲われる。リリィ達もそうだった。あの優しい人達が、この優しい人達が、傷つけられる。人生の内、出会えない確率の方が高いであろう、とても優しい出会いをしてくれた人達に私が返すものは、こんな害悪でしかないのか。
目の前がくらくらする。首筋から背中にかけて、何か冷たいものが濡れるように広がっていく。動悸は激しくなるのに、呼吸はどんどん浅くなる。息が吸えない。吐けない。
「申し訳、ございません」
男が笑った気がする。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「待ちなさいっ、カ」
飲み込まれた言葉は私の名前だろう。こんな時まで私のことを気遣ってくれる優しい人に、私はなんてものを持ち込んでしまったのだ。
思い出を、今は亡き人達を記したものを、質に取らせるような真似をさせたのが私の所為だなんて、許せない。
気づいたら走り出していた。一刻も早くここから離れなければ。
エレナさんが、アリスが、皆が、家族と過ごしたこの家を焼かせるわけにはいかない。家族との思い出の品まで、失わせたくない。
そんな大切なものと天秤に懸けられる程、私は私の命に価値を見い出せない。
途中で窓から飛び出て、転びながら振り向く。
どこかでガラスの割れる音がする。いつもは鈴を転がすような声で笑う女性達が、鋭い声で剣を振るう姿が見えた。美しく装っていたドレスも髪も化粧も、崩れて汚れて破れて、血が。
それを見た瞬間、大声で叫ぶ。
[私は、ここだ――――――!]
日本語は異質でしょう。聞き慣れないでしょう。
だから、私と分かるでしょう?
暗い外からは明るい屋敷の中がよく見える。全身を黒っぽい服で覆った男達が一斉にこっちを見たと同時に、身を翻して走り出す。
暗い道では、どっちが街かも分からないけれど、問題はない。だって、何処に行けばいいのか分からない。何処に逃げたって誰かを巻き込む。
自分の限界なんて考えずにただ走った。転ばないようにとか、膝を痛めないようになんて考えない。いつもならあり得ない歩幅でただ走る。後ろも振り向かない。
日本と違って月明かりがないと本当に暗い。こっちの灯りは全部が火だから、人がいない場所では灯りなんてない。自分がどこにいるかも何処を目指しているのかも分からないまま走り続け、盛大に転ぶ。何かに蹴躓いたのだ。
痛い、暗い、怖い。
走っていたら自分の心臓の音と風の音しか聞こえない。だけど、一度立ち止まってしまうと聞こえてしまう。
沢山の人間が走り寄ってくる音が。
荒すぎる自分の息が肺を焼く。肺がこれ以上広がらないと思うほど息を吸っても酸素が足りない。真っ暗なのに瞬きする度に白い光がちかちか瞬く。神経が高揚しすぎているのだ。
一度固く目を閉じて、大きく息を吸う。吐きながら目を開けた先に、足があった。
ああ、追いつかれてしまったのだ。
暗闇の中で足だけ見えただけで、これが知っている人ではないとすぐに分かった。あの人達は、地面に突っ伏している私を見て無言で足音を殺して近寄ってきたりしない。こんなに大勢で周りを囲んで、無言で見下ろしていたり、しない。
こんなに人間がいるのに、酷く静かだ。
ルーナ。
ルーナ、ルーナ、ルーナ。
ごめん。大好き。ごめん。
ごめん。
閉じた瞼の裏に浮かんだ綺麗な笑顔を最後に、私の意識はぶつりと途切れた。




