2.神様、ちょっと歯を食い縛りあそばせ
往来で呆然と突っ立っているだけでも人目を引くのに、この世界では珍しく女がズボンを履くという恰好をしている私に視線が集中し始めた。
まずいと慌てて裏路地に飛び込んで物陰でしゃがみこむ。
落ち着け私。落ち着け須山一樹!何がどうしてこうなったのかは分からないが、とにもかくにも私はこの世界に戻ってきた。まずは状況把握だ。彼はずっと言っていたではないか。どんな時でも状況把握は怠るな。戦場でそれを蔑にすれば死に直結すると。
[落ち着け落ち着け落ち着け。まずここはあの異世界! アーユーオーケー!?]
目の前を横切る黒猫に確認を取ったら、物凄く迷惑気な顔をされた。こんなことで心折れたりしない…………嘘、ちょっと傷ついた。
でも立ち直る。
[そんでもってここはあのブルドゥス! 嘗てあれほどにっくきブルドゥース! を掲げたブルドゥス! そんでもって私はかつての敵国に来ちゃった大馬鹿者! こ、ここにいたらグラースの皆が迎えに来てくれるとかそんな王道展開くる!? きちゃう!? アーユーオーケー!?]
「のぉ」
猫にしてはやけにはっきり宣言してきた。ノーといえる猫ですか。素晴らしいです。
再度しっかり状況把握をして、私はしっかり頭を抱えた。
[最悪だ…………]
最悪の理由は幾つかある。最も悪いのに幾つもあるのはおかしい?おかしくない。全部合わせて最悪なのだ。
一つ目。前回は彼がずっと支えてくれた。荒くれの軍人達から私を守り、衣食住を整え、異世界に一人放り出された私を支えてくれた。なのに今回は誰もいない。当然何の補助もない。あの時は右往左往している間に質素ながら一人部屋と、この世界の服が用意され、食事の心配もなかった。その内、砦内の掃除に食事の手伝いなどが仕事となっていたが、少なくとも衣食住の心配をしたのは、ここは異世界!? と動揺したあの日だけだ。
二つ目。ここは嘗ての敵国だ。幾らあの日停戦したといっても、双方思うところどころか悔恨はあちこちにあるだろう。だってこの二国が戦争していた期間は十年や二十年どころの話じゃない。なんと優に三百年だ。そんなところに嘗て敵国で暮らしていた私が、果たしてうまくやっていけるのだろうか。
三つ目。実はこれがまずい。いや、他のどれもまずいのだが、これが一番まずい。私こと須山一樹は、実は少々顔が割れている。グラースにいた頃、色々あって、ブルドゥス側に捕えられたことがあった。最年少騎士として名を馳せていた彼の恋人として。あの時は思いが通じ合ったばかりだったから、少々恋愛脳になっていた私は、捕えられて牢に放り込まれたにも拘らず、『恋人だって恋人だってきゃー!』とかちょっと思ってた。
うん、馬鹿だ。
まあ、いろいろ怖い思いとかもしたわけだけど、今は関係ないとして。問題は、ブルドゥス軍の一部に私の顔が割れていることだ。
[そもそも、今はあれからどのくらい経ってるんだろう……えーと、こっちで過ごした一年が向こうで一か月で、あれから十か月経ったわけだから……………………]
恐ろしいことに気付き、ひやりと背筋を何かが滑り落ちていく。
最悪の理由が増えた。寧ろ、これこそが正に最悪だ。
[十、年…………?]
足元からすとんと力が抜け落ち、お尻から地面にへたり込む。震える両手で顔を覆い、体育座りの態勢でゆっくりと俯いていく。
[え――…………]
嘘でしょう?
震えながら呟いた言葉に、黒猫は「のぉ」と鳴く。
ついでのように降り始めた強めの雨は、傘を持たない私をあっという間に濡れ鼠にしていった。
神様は少々、私に手厳しすぎるんじゃなかろうか。
「ねえ、どうしたの?」
立ち上がる気力を失くした私に叩きつけられていた大粒の雨が遮られる。緩慢な動作で顔を上げると、左右に三つ編みをぶら下げたそばかすの女の子が赤い傘を差しだしていた。
「お腹痛いの?」
[違う、大丈夫……]
「ん?」
女の子はきょとんと首を傾げる。その様子を見て、はっとなった。
「[えっと……あの]問題ない、ぞよ? ありがとう」
今度は通じたようだ。駄目だ、しっかりしないと。ぼんやりした頭はこちらの言葉に日本語で返してしまっていた。聞くことは何とかなるが、完全ではないし、自分で喋るとなると発音以外もちょっと怪しい。
気を張れ、私。だってここには誰もいないのだから。
発音やその他に拙さを残す私の言葉に、女の子は思い至ったと言いたげに言葉を続けた。
「あなた大陸の人? どうしたの? 何か困ってるの?」
この辺りは言語が一緒だから、言葉が違うのは海を渡った向こうくらいのものだ。この近辺であっちもこっちも言葉が違ったら、私の頭はパンクしているだろう。だって、こっちの世界が十進法でよかったと心から安堵した私だ。二進法とかだったら計算自体を投げていた自信がある。
「[あー、えっと]心当たりのある人物を訪ねるしたが、既に消息を失った…………違うね? 消す……消し去る……殺す……違う…………いない! 既にいなかった!」
こういう時の定番のごまかしである『遠方から知人を訪ねてえんやこら説』を使うのにこんなに手間取るとは。元々生まれ育った言語じゃない上に、十か月離れていたのだ。受験シーズンならまだしも、頭は既に勉強脳から切り替わってしまっている。しかもあの頃でさえ怪しかった語彙が、更に錆びついたようにぎこちなくなっていた。
尚且つ、言葉を教えてくれたのが軍人達だ。物騒な単語か堅苦しい単語が咄嗟に出てくるのがまずい。
一年もこっちにいてこの程度の言語力かと突っ込まれれば、面目ないと恥じ入るつもりだが、実際翻訳のための補助がほとんどない場所で一から言葉を覚えるのは思ったより大変な作業なのだ。
お互い、何が正解で間違っているのかの摺り合せから始めなければならないのだから。
相手が自分と同じものを指しているのか、その事実を擦り合わせる作業さえ、言葉が通じなければ難航してしまうものなのだ。そして彼らは軍人だった。しかも戦時中の国境沿い。
忙しかったのだ。
「ごめん……理解できたか…………分かるした?」
「あ、うん。知り合いを頼ってきたけど会えなかったんだね?」
「適宜! 違うな! 適切! 適当!」
「言い直さなくても分かるよ。ねえ、じゃあうちにくる?」
「ん!?」
さらりと差しのべられた救いの言葉に、一瞬聞き間違えか翻訳間違いかと思った。女の子はこてんと首を傾ける。
「困ってるんでしょう?」
「え、うん……」
「じゃあ、行こうよ?」
当たり前みたいに手を差し出されて、私は躊躇いながらもその手を取った。私より年下の、あの頃の彼くらいの年齢だろうか。女の子は自分が濡れるのも構わず私を立たせて、落ちたまま転がっている鞄も拾ってくれた。
「あ、ありがとう」
「こっち」
「はい」
最初の角を右に曲がり、手を引かれるままに歩き始める。
通気性のいい運動靴はあっという間に水を通して中を水浸しにした。びしゃびしゃと音を上げて歩きながら、女の子をまじまじと観察する。
背中までの茶色の髪を左右に三つ編みで纏め、そばかすのある可愛らしい女の子だ。年の頃はきっと十代前半。立ち居振る舞いは上流貴族のそれとは違い、素朴で普通の動作だ。
また一つ角を曲がる。
「あの、誠に宜しいか? 私は何も貴殿に差し出す術を持たない」
「お姉さん、誰に言葉習ったの?」
「妙なのは自覚するしてる…………」
「妙って言うか、男の人に習ったんだろうなーっていうのは分かる」
「誠ぞー」
「そうねって言いたいの?」
「そうぞ」
「ね」
「ね」
「そう」
「そうね」
如何せん、男ばかりに囲まれていたせいで語尾がほとんど男物しかストックがない。発音も気をつけて女の子の言葉を辿れば、彼女のような柔らかい響きが生まれた。そうか!これが女言葉か!
「言えたず!」
「言えたよ?」
「言えたぞ」
「よ」
「ぞ」
「よ」
「言えたぞ」
「ぞのほうが言いやすい?」
「恐縮であるよ」
女の子はとんっと私の額を突いた。
「言えたよ」
あ、この子可愛い。
初めて会った時からにこりともしないけれど、私、この子好きかも。
「言えたぞよ!」
「ぞってそんなに言いやすいかな」
「耳イカ」
「耳にタコ?」
「タコ。耳慣れした響きだからで考えられる」
私の拙い言葉にイラついた様子も見せず付き合ってくれる。その代り、笑顔もない。というより、淡々とした喋り方と無表情だ。
でも、動作一つ一つが可愛い。
「あ、お姉さん。名前は?」
「一樹だ。一樹・須山と申すもの」
こっちは西洋圏と同じで苗字が後で、名前が先。それくらいは間違えない。
「貴君の名は何と申す?」
「貴君は貴族に使うんだよ。それと、何て言うの?のほうが可愛いと思う」
「了解ぞ。えーと……てめぇの名は何て言うの?」
「てめぇが全部持ってったね。リリィだよ。みんなそう呼ぶ」
「ペリー」
何だか黒船で開国を要求してきそうな名前だね。可愛い。
うんうんと頷いていると、ペリーはこてんと首を倒した。
「リリィだよ?」
「ペリィ」
「リ」
「リ」
少女は細い指で自らを指し、繰り返す。
「リリィ」
ペリーじゃなかった。ごめんね!
リリィに連れられて路地を曲がり始めて既に15分程。それでもてくてく歩いていると、いつの間にかそこはがらりと雰囲気が変わっていた。
城のお膝元だけあって、大街道は貴族が好む洗練された雰囲気を漂わせ、田舎もの(私を含む!)が躊躇う感を醸し出していたが、ここはもっと混沌としている。きらびやかな宝石や装飾品を広げる強固な砦を思わせる店が軒を連ねたかと思えば、今にも崩れ落ちそうなあばら家やがらんと空洞を設けた空き店舗が続く。人々の格好も、擦り切れた服を着ている者もいれば、明らかに一般人ではない者もいた。
化粧の濃い女が眠そうに雨宿りしている向こうでは、目深に帽子をかぶった男が顔を寄せ合って何かを渡し合っている。うん、怪しい。
普通なら遠慮願いたい道ではあったが、リリィは躊躇いなく歩を進めていくので私もついていくしかない。
「しかし、リリィ、誠に平気か?」
「何が?」
「私が参るすると、ご家族怒髪天するしない?」
「どっちもするはいらないと思う」
「……私が参ると、ご家族怒髪天す……しない?」
どうにも語尾がいろいろ混ざる。これは前からそうだった。気をつけないと。
聞きづらいだろう私の言葉に、リリィは嫌な顔一つせず、一つ一つ訂正してくれるから有難い。前はみんな忙しくて、通じればいいという感じになっていたから余計にだ。それは私も同じで、その結果がこのお粗末な語彙力だ。今考えると、よく彼と思いを通じ合わせられたなぁ、私。
『貴君好み私――!』
あれでよく告白と分かってくれたなぁ。うん、彼は凄い。大好き。
「家族は怒ったりしない。大丈夫だよ。うちには、カズキみたいな人結構いるから」
「え? そうであるか?」
「そうなの、のほうが可愛いよ?」
「そ……ぅうん!そうなの?」
擦れ違った男が吸っていた葉巻のいがらっぽい煙をもろに吸い込んでしまった。歩きたばこはやめてほしい。
リリィはこくりと頷く。
「そうなの。ついた」
何の予備動作もなくぴたりと止まったリリィに比べて、私は急には止まれずたたらを踏んで傘から出てしまった。
辿りついたのはとても狭い建物だ。入口は一つで、その幅も一人が通れたらやっとの隙間しかない。華やかな要素は欠片もなく、控えめな明かりだけを灯したひっそりとした暗い入口がぽかりと口を開けている。
「ここ。入って」
「う、うん。邪魔立てして申し訳ないぞろ」
「お邪魔しますが一般的だと思うよ?」
「お邪魔しますぞ」
「ぞって言いやすいんだね」
リリィを先頭にそこに足を踏み入れると、入ってすぐの暗がりに男が一人立っていた。
「ぎゃあ!」
思わず悲鳴を上げてのけぞった私に対し、リリィは平然としている。なら、これは異常事態でも何でもなくて普通の光景なのだろう。すっかり暗がりに溶け込んでいて、男がいる、という認識しか持てない存在でも、普通なのだ。
順応、なあなあ、見なかったことにする。これ、異世界で生きていくコツだ。
「お帰りなさいませ、リリィ様」
「うん、ただいま」
男はちらりと私を見た。
「そちらの方は?」
「カズキ。今日からうちにいてもらうの」
「畏まりました」
男はうやうやしく頭を下げ、リリィの為に道を開けた。これまた最小限の灯りしかない細い通路で、人が一人通るだけで精一杯な作りである。子どもであるリリィとであっても擦れ違うのは結構大変だ。
「リリィって、お偉いさんだよこのやろうであるよ?」
「カズキに言葉教えてくれた人って複数?」
「肯定であるぞよ。なにゆえ?」
「いろいろ混ざってるから」
「そうだぜ!」
「そして女の人はいなかったんだなーって、思う」
「誠に……」
自分でもそんな言葉遣いをしている気はする。
あの頃の私は、基本的に駐屯地から出たことがなかった。近くの街に彼が連れて行ってくれたことはあるが、そこも基本的には集まった軍人を客とした盛り場。軒を連ねるのは酒屋と武器屋と娼館だ。女性のいるような場所は全てちょっと怪しいので、彼は私を連れていってはくれなかったし、私も行きたい!と熱意を持って叫びだしたいほど興味があったわけではない。
結果、この世界で女の子とまともに話したのは、初めてだ。
てくてくと歩を進めていくリリィの後ろを黙ってついていったが、それにしても長い。狭いし暗いし長い通路だ。狭い家、にしてはちゃんと見張りみたいな人がいた。そして長い。やっぱり長い。この長さを考えれば結構な敷地なのだろうか。それともただの通路?
疑問を浮かべながらもどこまで込み入った質問をしていいのか、何より疑問をきちんと言葉に出来るか考えながら歩いていると、リリィがぴたりと足を止めた。
「ほばぁ!?」
今度止まれなかったら少女に体当たりを食らわしてしまうので、慌てて両隣の壁に手をついて身体を止める。我ながら女性らしくない悲鳴が飛び出る。
そんなことは気にしないのか、リリィはくるりと振り向いて、変わらぬ無表情で問うてきた。
「ごめん、聞くの忘れてた。カズキさえよければうちで働かない? 表が嫌なら裏方でもいいし。ご飯も出るし、部屋も用意できるよ? 服も欲しければ用意できる」
なんと、仕事をゲットできるというのか!
日本でも就職氷河期大氷河。南極北極の氷は解けても学生の就職難という名の氷は解ける兆しを見せないのに、異世界では仕事ゲット!?
「するします! 私は心の臓からそれらの任務をこなす努力を怠らぬわ!」
衣食住。人間が人間らしく暮らしていくために必要な三カ条。人間らしくも何も、まず生きていくために必要な食があるのが何より有難い。
何の心構えもなしに異世界に飛ばされて、好きな人ができて結ばれようとしてたら戻されて。再度何の予告もなしに飛ばされてたと思ったら、嘗ていた国じゃなくてそこはまさかの敵国で。
神様ちょっとそこ座れ。正座な。とか思っていたけれど、意外と神様もやるようだ。だって、無表情で淡々としてるけどたぶん悪い子じゃないリリィが、最初に声をかけてくれた。尚且つ、衣食住を一気に与えてくれるというのだ。こんなに有難い出会いが第一村人!なら、大歓迎も大感謝!
騙されているかも?とかちょっとだけ頭を過ったけれど、とにかくなるようにしかならないし、出会ったばかりだけど私はリリィが結構好きだ。好きな人は信じたい質だから、騙されたらそれはそれで考えよう。私の人を見る目がなかったという話だ。
誰も彼もが敵だらけ、皆私を騙そうとしてる、皆私を狙ってる!といった穿った感情で支配されると、純粋な優しさも全てが捻じ曲がってしまう。それくらいのことは、この年になると分かる。
そりゃ、世の中には人を騙して得をしようとする人がいることがいることくらい分かってる。騙されて痛い目みたこともあるし、自分だって嘘くらいつく。ましてやここは異世界。刺々しく自分を守る必要があるのかもしれない。
でも、だからといって棘ばかりでは誰も触れないじゃないか。
「やる気は凄く分かった。表と裏、どっちの仕事がいい?」
「床の下の筋肉であるが性に合うと思われるのだが」
「………………縁の下の力持ち? 分かった、じゃあ裏方ね」
リリィはこくりと頷き、左の壁をトントンと叩いた。すると、薄暗い壁がすーっと音もなく開いて光が差し込んでくる。
「入って」
言われるままに一歩進むとまた壁。
「うおぅ!?」
そしてまた男だ。今度は二人。身体に沿った服が多かったグラースとは違い、ふんわりと身体を包む服が多いブルドゥスにしては珍しく、グラースよりの服を着た二人組だ。たぶん、動きやすいようにだ。
「お帰りなさいませ、リリィ様」
「ただいま。この人、カズキ。今日からうちに入ってもらうから」
「畏まりまして」
三十代半ばほどの男が、小柄な少女に恭しく頭を下げる姿は、何度見たって見慣れない。そもそも日本人はよく頭を下げているが、本当に心から相手を尊敬して下げている人はあまりいないと思う。私だって礼はよくしたけれど、日本でこの人に頭を下げたいと思って下げたことは一度もなかった。
男達が左右から取っ手に手をかける。その力の入れ方を見るに、ただの木扉ではなさそうだ。引き戸になっている扉は、まるで鉄板を重ねたように厚い。
少しずつ開いていく隙間から、むぁっと咽かえる様な甘い匂いが溢れだした。甘いけれど、焼きたてのお菓子とは違う、もっと人工的な匂い。
これは香水だ。
「……………………リリィ?」
「なに?」
「この場は、如何様な」
神様神様神様、あんたちょっと一体全体私に何の恨みがあるって?
神様神様神様、あんたちょっとそこ直れ。
リリィはこてんと首を倒して、淡々と言った。
「娼館だよ?」
神様神様神様。
ほんと一発殴らせて!?