19.神様、ちょっと規模をお間違えです
朝は、エレナさんとランニングから始まる。そのまま剣の鍛錬に入るエレナさんの傍で、ダッシュしたり、反復横跳びしたりしているのが私だ。
これは毎日過ごしていてわりとすぐに気づいたことだけど、エレナさんは褒めて伸ばすタイプらしい。エレナさんは褒められるところを探して褒めてくれる。駄目だとか、覚えが悪いとか、否定的なことは言われたことがない。呆れた目で見られたことはあるけど。
褒められれば素直に嬉しいので、もっと頑張ろうと思う私は単純かもしれない。
あれ以来、会ったら話をしてくれるドールにそのことを話してみたら、くすくす笑われた。
「わたくしも最初はそう思いましたわ。一見厳しそうに見えて、お身内にはとっても甘いのですわ、エレナ様は」
彼女はドール、ではなくドーラだった。覚えやすくて助かります。
ドーラは、アリスの二番目のお兄さんの奥さん、の、妹さんだった。実家は叔父夫婦に乗っ取られたのだと、ころころ笑って教えてくれた。全然笑い話じゃない。
「わたくしは貴女より底意地が悪かったので、何の裏があるのだと散々疑ったものです。自分でも鬱陶しい小娘でしたわ。けれど、そんなわたくしにエレナ様は言ってくださったの。『厳しいのは、敵と自分と時代で充分です』と。わたくし、結婚するならエレナ様のような方が理想なの……」
うっとりと両手を組むドーラは、今年二十歳。
エレナさんのような男性とは未だ巡りあえていないそうだ。
私の一日は、大体書斎で仕事をするエレナさんとお喋り修行だ。エレナさんがいないときや忙しいときは、家に残っている誰かとお喋りする。
アリスの妹さんの部屋でお喋りしたこともある。少女漫画っぽい表紙の本がたくさんあって、ああ、女の子だなぁと微笑ましく思ったりもした。
その中身が『騎士ルーナと黒曜姫』とかいう内容だった時は眩暈がしたけれど。
私が元祖黒曜だと知らない少女達は、きゃっきゃっうふふと内容を説明してくれる。いま、国で一番売れている本だそうだ。大丈夫か、ブルドゥス。半ば本気でブルドゥスの未来を心配していたら、グラースでも連続トップセラーの座に君臨しているらしい。グラースも大丈夫じゃなかったみたいだ。
とりあえず、本の作者に言いたい。私は別に、異世界に飛ばされてぼろぼろになった挙句雨に降られたところをルーナに拾われたわけじゃないし、誰かに性的に襲われかけたところをルーナに救われたわけでもないし、ちんぴらに絡まれたところをルーナに助けてもらったわけじゃないし、山賊に浚われたところを颯爽と取り戻してもらったこともない。
そりゃ、砦内で迷子になったところを拾ってもらったり、洗っていた大鍋に頭から突っ込んでひっくり返ったところを救ってもらったり、ジュースと騙されて飲んだ酒で酔っぱらってティエンにちんぴらしてるところを助けてもらったり、イヴァルを助けようと肥溜めに落ちたところを颯爽と引っ張り上げてもらったりはしたけれど。
読んでもらったお話の中でのルーナは、見せ場のシーンのみならず、何かにつけて愛を叫ぶ。愛してる、愛の力を、愛をこの手に、などなど。現実のルーナは、私に愛を語る前に殴り掛かっていく。そっちの方が手っ取り早いと思うし、緊迫した場面で愛など乞われても、真剣に困る。お話の中ではロマンティックだろうけど、現実では是非とも戦いに集中して頂きたい。
そして、そんなに災難にあって堪るか。男に襲われかけ、遭難し、山賊に浚われ、本の中の私は散々だ。そりゃ、十年も連載が続けられて、今は云十冊になった本だから、登場人物達にも色々あるだろう。なけりゃお話は続かない。
元祖黒曜からしたら堪ったものじゃないが。
中には、ルーナに懸想するライバルのお嬢様が出てきたりもしていた。
女の子! あの臭くてむさくて汚かった砦に女の子! 現実にそんな子がいたら、私は断然そっちにべったりになった自信がある。ライバル? そんなことより女友達ゲットしたかった。
あの頃に比べたらお花畑だなぁと女の子達を見つめる。話してる内容はともかく幸せだ。
ふと部屋の片隅を見ると、絵本に載っていそうな、もろに『宝箱!』と言わんばかりの木製の箱が置いてあった。開けると財宝ざっくざく出てきそうだ。
興味を惹かれてまじまじ見ていると、それに気づいたベアトリスがさっと顔色を変えた。大きく手を広げてその前に立ちふさがる。
「い、いけませんわ、カズキさん! こ、この中に入っている本は、耐性のない方は見た瞬間気絶してしまう劇薬なのです!」
「本で!?」
「ええ、ええ、そうですわ! ですので、決してこの箱を開けてはなりません。この箱は、同じ志を持った淑女のみが開けるもう一つの世界なのです…………」
神妙な顔で両手を握られて、決して開けないことを約束する。
よく分からないけれど、熟女のみが開ける世界は私にはまだ早すぎると思う。ベアトリスは私より年下のはずだけど。
「熟女のみなる箱は、決して開けはなりませぬぞ!」
「淑女ですが、もうそれでいいですわ」
今日は、エレナさんとのいつものお喋りに加えて『黒曜候補』のことを教えてくれた。
「黒曜の条件は幾つかありますが、外見的な条件は全員が満たしています。髪には染粉、瞳には薄硝子を入れて、ですが。薄硝子、貴女は入れてはなりませんよ。あれは、扱いを少しでも間違えると失明しますから」
「そ、そのような恐ろしき物体、何故にして入れるのぞり!」
「条件を満たす為です。黒曜になれば名が売れ、その家族、一族郎党利益を得ることができる。その為、黒曜候補には必ず後ろ盾がつきます。現在一番大きな後ろ盾を得ているのが『スヤマ』です。本物の黒曜であると豪語しており、本物ではないかとの噂が絶えません」
「私ぞりか――」
そうかそうか。私か――。
そんなわけない。
「え!?」
驚いて飛び上がった拍子に角に肘をぶつけた。指先までびりびりと痺れが走っていく。
私の反応を黙って見守ってくれたのは、きっとエレナさんの優しさだ。こんなところで発揮してくれなくてもいいです。
「その他の黒曜候補は、最初から称号としての黒曜を目指している娘ばかりです。よって、身元ははっきりしております。一般的には貴族の娘が多いでしょう。勉学の場が整っておりますので。ですが、その娘だけ身元が判明しておらず、後見人はザイール家、西南の方に領地を持つ領主です。その娘が今年の黒曜となった場合、合同評議会議員に選ばれるのは、間違いなく現当主ドレン・ザイールです。他の娘がなったとしても、後ろ盾の人間が選ばれるでしょう。その為に後ろ盾になったのですから」
一所懸命ヒアリングして、真面目な顔して頷く。成程、分からん。
すぅっと呼吸音が聞こえる。
「理解できないことははっきりと述べる!」
「は! 私如きになりたき人の気持ちが丸かじりで分からぬにょろ!」
「如きは必要ありません!」
「私!」
「宜しい!」
この家に来て三日。言語力より、足腰より、肺活量が鍛えられた気がするのは気のせいだろうか。
気を取り直してさっきの話を考える。
「質問ぞり」
「はい」
「あちらそちらの『スヤマ』なるは、お前、ほんっとに馬鹿だなぞり?」
「あちらかそちら、どちらかで結構。黒曜候補として城に上がった以上、試験で上位です」
どうしよう、さっぱり分からない。
黒曜になりたいのは、利益になるから。それがどんな益かは人によって違うだろうけど、とにかく益になるから。
だったら『私』になる理由は?
黒曜になりたいのなら試験に通ればいいのだ。試験に通る実力があるのに『スヤマ』になるのは、寧ろ不利ではないのだろうか。黒曜選びには、最終的には本人かどうかの確認でルーナと会うことになる。私を知っているルーナを前に『私はカズキぞり!』と名乗るのだろうか。そんなことしていったい誰が得するんだろう。
無意識にエレナさんがしていたように、下唇に曲げた指を当てて考え込む。紐を腕に通した小袋ががちゃがちゃと揺れた。
「それは?」
「あ! エレナさんに使用法のご教授願おうと思考して運搬したぞろ! リリィ達に頂戴したにょ!」
書類を寄せてくれたので、空いたスペースに小袋の中身を並べていく。装飾品が多いのは、たぶんあの時身に着けていたのをくれたからだろう。
「使用方法はご教授願うようにとぞり。よって、ご教授願いたいぞろ」
取り出してみると、こんな小さな袋によく入っていたなと思える量と種類が詰まっていた。きらきら綺麗な装飾品を指先で摘まんで引っくり返す。ブローチの裏に文字が書かれていた。
この世界の文字は、ふんわり分類するとアルファベットを捩ったような形をしている。ふんわり分類するならだから、実際はそんなに似ていないけど、他に説明できないのだ。量はいろはよりは少ないので何とか覚えられた。かろうじて。
短 い文章なので、記憶を総動員して何とか解読する。『愛するサリーへ 君の永遠の恋人ダニエルより』と書かれてあった。
「………………」
サリーさん、これはあれですか。貴女確か、客の一人がしつこくって鬱陶しいとぼやいていらっしゃいましたね。恋人気取りで嫌になっちゃうとも。確か、そのお客様の名前はダニエルじゃなかったですかね。気のせいですか。そうであれ。
頑張って解読したら結果がこれだった。ちょっと泣けてくる。
でも、あの時よりはましだ。私は昔、こっちの単語や文字をメモして纏め、私なりの辞書を作っていた。何度も訂正の線を入れ、何度も書き直した渾身の一冊だ。必要な時にいつでも見られるよう、肌身離さず大事に持ち歩いていた。
クマゴロウに砦から引きずり落とされるまでは。
水性なのが敗因だった。
思い出したら今でも泣けてくる。私の汗と涙と涎が染みついた辞書が、水ででろでろになって、ただのゴミとなったのに気付いた時の絶望を。
種類豊富な小物をじっと見ていたエレナさんは、剣だこがある長い指で小瓶を持ち上げた。
「これは染粉ですね。この種類は良い品です。一時期貴女の髪色が流行った時は、質の悪い染粉が安価で出回り、髪を痛めるだけでなく、抜け落ちたり禿げあがったりという質の悪い事件が頻発したものです。ですがこれは、貴族が白髪となった折に使用する種類ですので、逆に使用したほうが艶が出て美しくなるそうです…………色は……濃緑でしょうか………………そうですね、今日染めましょうか」
「え?」
「貴女の外見は目立ちすぎます。染めるよう話をするつもりでしたが、この染粉は貴重で、すぐに手に入らなかったのですが、ここにあるのなら話は早い。今から染めましょう」
気が付いたら、メイドさんに腕を掴まれてお風呂場まで連行されていた。
「た、待機! 少々待機!」
全部脱ぐ必要はなく、上着だけ脱がされて首回りに大きめのタオルが巻かれていくのを必死に止める。エレナさんは自分の袖を捲っていた。まさか、エレナさん自ら染めてくれるのか。
「嫌なのは分かります。ご両親から頂いた身体を弄るのは抵抗があるでしょう。ですが、この屋敷を出た場所で、貴女を守るために必要となるのです。今のこの時期、一目見ただけで黒曜と分かる娘が見つかればどうなると思います。殺されますよ」
「わ、私は、染めましょうか異論ないぞろ!」
「は?」
染めなきゃいけないのなら染める。私は染めたことはないけど、日本だと染めてる人の方が多いんじゃないかというくらい皆染めてるから、別に抵抗はない。禿げるような染粉をリリィがくれるとも思わないし、エレナさんの腕を信じてない訳でもない。
私は、ぐっと両拳を作って詰め寄った。
「そちらの色は、私、きゃあ似合うするぞり!?」
問題は似合うかどうかだ!
濃緑って染めた後どんな感じなんだろう。似合わなかったらどうしよう。そりゃ染めたほうがいいんだろう。変装するには色を変えるのが手っ取り早いし効果的だ。でも、似合わなかったらちょっと悲しい。人生初染めが白髪染めなのもちょっと悲しい。用途は白髪染めじゃないけど。
貧困な想像力で濃緑色の自分を想像してみる。…………頭に苔が生えた。
「錆び――!」
「錆びません。大丈夫、似合いますよ」
「ぞり……」
女は度胸だ。なるようになる、はず。ならなかったらどうしよう。そうだ、お菓子を食べよう!
結論が出たので、宜しくお願いしますと頭を下げて、上げる。口元を何か布で覆われた。
「では、始めます」
エレナさんもメイドさんも、皆マスクのようなものをつけている。私もきっと同じものをつけているのだろう。口に入らないようにだろうか。でも、それだったら目も覆ってほしい。
興味はあるので、作業をじーっと見つめる。エレナさんは、何か危険物を触るように真剣な顔つきで小瓶の蓋を開け、小鉢のような器に粉と水を入れて混ぜ合わせ始めた。昔散々テレビのCMで見た、練るお菓子みたいな感じになってくる。ちょっとやってみたいと思った瞬間、それはやってきた。
[くさ――――!]
鼻が捥げるとか考える余裕もない。人間が息しちゃ駄目なレベルで臭い!
良薬口に苦し、鼻に辛し!
臭さのナンバー1をあげたい染粉が、髪の毛に刷毛で丁寧に塗られていく。エレナさんが油紙で覆われた水を弾く手袋をしているのは、手が染まったら困るからであって、この臭い物体に触りたくないからではない。そう信じている。
根元から先まで何度も繰り返して刷り込まれて、臭い。
「……眉もしますか?」
「気配消してるぞりして結構ぞろ――!」
「そうですね、隠れていますから大丈夫ですね。では、このまま三時間待機です」
「にょろ――!?」
「女は我慢!」
「はい!」
「男も我慢!」
「はい!?」
このまま待機か、そうか待機か。
臭いが充満した浴室でぽつーんと一人待機する姿を想像する。居眠りしたら大惨事になりそうだ。
窓は全開なのに、臭いが濃密過ぎて全く流れていかないのが辛い。
「では、わたくし達は戻ります。貴女はお喋りしていなさい」
「一人お喋り!? ど、努力しますよわ」
「わよ、なのか、わで切りたかったのか、悩むところですね。どちらと判断します」
エレナさんからの質問だ。張り切って答えようとしたら、顔はこっちを向いていなかった。しょんぼりだ。
「どっちにしても努力は分かるので、どちらでも」
答えたのはルーナだった。脱衣所かどこかでブーツは脱いできたのか、ズボンの裾を捲りながら入ってくる。実は、三日ぶりだ。グラースの騎士代表ともいえる(らしい)ルーナは、あちこちに引っ張りだこなので頻繁に訪れるのは難しい。
そう考えると来すぎな気もするけれど、大丈夫というのならそうなのだろう。あまりそういう事情は教えてくれない。聞いても分からないとも思う。
「ルーナ! 元気してましょうぞ?」
「元気だ。カズキは?」
「強行突破な臭いその他は元気ぞり!」
「ああ……確かに強烈だな」
軽く眉間に皺を寄せただけで、湯の張っていないバスタブに腰掛けたルーナは凄い。私だったら『達者でな!』と挨拶して回れ右する。
エレナさんとメイドさんはお仕事に戻ってしまったので、ルーナと二人でのんびりする。臭いけど。
今日の朝食と昼食について熱弁して、昨日の夕食とおやつについて熱弁して、今晩の夕食について思いを募らせているのを、ルーナは頷きながら聞いていた。気がつけば食べ物の話題ばかりだ。他に何か話せと言われたら、ちょっと悩む。
昔は、鍛錬と剣や鎧の手入れをしているルーナの横で、作業を見ていた。ルーナが話すことは戦場のことばかりだったし、私は日本のことばかりだった。そもそもルーナの趣味も分からない。ある意味非日常が日常だったところに、別世界の日常から飛び込んでしまったのだ。
今だって恐らく非日常に分類される。でもそれが日常なので、あまり非日常に思えない。戦場ではない場所で、普通に自宅とかで寛ぐルーナを見てみたいなーと思って眺めている間も、ルーナは静かに笑っていた。
三時間は思ったよりあっという間だった。一人じゃなかったのもあるし、ルーナと他愛もないお喋りをするのは楽しい。ルーナとじゃなくても楽しいけど。
でも、ルーナはあまり喋らなかった。暗闇で見たら猛禽類を思い出して叫びだしてしまいそうな目を優しく細め、少し微笑んでいる。時々笑い声をあげていたので、別に楽しくない訳じゃなさそうなのに、様子が変だ。様子がおかしいのは分かっていたけれど、果たしてそれを聞いてもいいものかと悩んでいる内に三時間経ってしまった。仕事のことは、話してくれない限り関係ない人間が首を突っ込むべきじゃない。そもそも、この世界の常識も怪しい私では、きっと正誤の判断もできない。
「流すぞ――」
「ありがと――」
大きめの桶に頭を突っ込み、髪を洗ってもらう。自分でやってもよかったけど、ルーナがやりたいというのでお任せした。自分で洗うなら俯せに頭を突っ込むところだけど、洗ってもらうなら仰向けだ。
腕を捲って楽しそうに洗うルーナの顔を下から見る。楽しそうで何よりだけど、これ、結構恥ずかしい。臭いに慣れた頃にマスクを外してしまったのが悔やまれる。仕方がないので目を瞑ることにした。これはこれで恥ずかしいが、背に腹は代えられない。
自分だったらがしがし洗って終わってしまうのに、ルーナの手は丁寧だ。一束一束時間をかけてじっくり染粉を溶かしていくように洗う。
「なあ、カズキ」
[ん――? 痒いところはないですよ――]
「それはよかった」
髪を絞って桶の水を変えてきたルーナの手は、濯ぎでもやっぱり丁寧だった。
「どうしたい?」
[豆腐が食べたいなぁと思ってるんだけど、作れると思う? 大豆、大豆探したい。あ、にがりって何からできてるの!? なんかこう、苦いやつかな!?]
「違う。これから、どうしたい?」
目を開けたら、静かな瞳が見下ろしていた。
「グラースの王も、ブルドゥスの王も、お前に会いたがってる。お前の立場的に、国できちんと保護したいと仰せだ。そして、お前に矢面に立ってもらえば、労力を使わず解決できる問題も沢山ある。でも、そうすればお前は、もうここにはいられない。この家に、という意味でもそうだし、この空間にいられなくなるという意味でもある。ここも、ガルディグアルディアも、カズキにとって味方だったけど、黒曜として立たされるとお前を利用しようとする人間とばかり出会うことになる」
髪を絞り、渡されたタオルで拭きながら起き上った。貸してくれた手を握って顔を上げる。
「一度黒曜として立たされると、ずっとそこから抜け出せなくなる。お前の名前は、お前が思っているより便利に使われてきた。何かあればすぐに、民衆を味方につける手段として利用されてきた。その本物が現れたら、当然逃がしたくない。グラースとブルドゥスが所有を巡って牽制しあっているから今の空白時間がある。…………カズキは、どうしたい?」
[ど、どうって、無理、無理だって。だって、そんな、私、馬鹿だよ!?]
国とか、そんなでっかい問題であれやこれや再配できる頭脳も能力も、ついでに強靭な精神力もない。私に出来る決断は、精々ご飯のメニューや、こっちのキャベツが重いとかで。私に出来る争いは、その半額肉は私のだ――! のレベルだ。
馬鹿すぎて泣けてくる。そりゃあ、利用しやすかろう。あれやこれや言われて分からなくなって、ほいほい言いなりになって、使い捨てでぽいされる未来しか思い浮かばない。馬鹿に権力を与えてはならない。それも、自分で考えられない馬鹿に。
三時間前まで、私の悩みは髪色が似合うかどうかだった。なのに、今は全然別レベルの規模にまで膨れ上がった問題がのしかかる。
規模が大きすぎて想像もつかない。つまり、何とか法案が可決されましたなどの夕方のニュースを興味なく見ていた私が、そっちに瞬間移動するようなものだ。
足が震えてきた。
崩れ落ちないように掴んだルーナの腕は、まるで棒みたいに硬い。もうちょっと柔らかくってもいいんじゃないだろうか。硬すぎて指が回りきらず、掴み損ねてぺたりと床に座り込む。
そんな私の前に、ルーナは片膝をついて、腕を掴んでいた私の手を取る。
「そんな場所に行きたくないなら、俺と逃げるか?」
[え?]
取られた手とルーナの恰好は、まるでお伽噺の騎士だった。
でも、これはお伽噺じゃないし、ルーナはお伽噺じゃなくても騎士だ。
事態を飲み込めない私を前に、ルーナの微笑みはどこまでも優しかった。
 




