18.神様、ちょっと目一杯頑張りました
エレオノーラさんには駆け足という名の、私にとっては全力二歩手前マラソンで屋敷まで戻る。いつ戻るかも分からなかったはずなのに、三人のメイドさんがタオルと水を持って待っていた。
荒い息を整えながら水を飲んでいると、気が付いたらエレオノーラさんがいない。首を傾げていると、屋敷の裏と繋がる道から走り出てきた。そのまま立ち止まらずに私達の前を走り去っていく。
屋敷を周回して走り込んでいるのだと、五回姿を見た時に漸く気が付いた。
私だと全力疾走しなければ出せない速度を淡々と走り終えたら、次は腰の剣を抜いて素振りを始める。その内、全身を使って前に誰かいるかのように剣を振り始めた。昔ルーナの剣を持たせてもらったことがあるけど、あれは本当に重い。だって鉄なのだ。結局振り上げることもできなかった。そのまま支えられずに脳天落ちてきたら、凄く虚しい自殺になる。
一通り鍛錬を終えたのか、剣をしまって颯爽と歩いてくるエレオノーラさんに慌てて立ち上がる。結局私は走って戻ってきただけで終わってしまった。一応、反復横跳びでもしてようかと思ったのだけど、出来なかった理由がある。
私は昨日、朝ごはんを食べて寝た。丸一日だ。そして今朝、起きてすぐにエレオノーラさんと出かけてここにいる。
あれだけ動いて軽く汗ばむだけなのが凄い。メイドさんから渡されたタオルで軽く顔を拭ったエレオノーラさんは、少し考えた。
「剣は無理ですので、やはり瞬発力を鍛える方向で」
グゴルゥルルルルルルルルルルル――キュ――
目上の人の台詞を腹の音で遮った私は、物凄く無礼だ。慌ててお腹に力を入れて引っ込める。
ペコキュゥール
珍妙な音に変わった。
私が動けなかった理由はこれだ。私のお腹はぺこぺこだ! ぺこぺこであってぺらぺらではないのがミソだ。
まだ主張を続けている私の腹音に、すぅっと聞き覚えのある呼吸音が重なった。
「健康で大変宜しい! 朝食にします!」
ざっと踵を鳴らして機敏に向きを変えたエレオノーラさんは、颯爽と屋敷に戻っていく。しかし、ぴたりと立ち止まったまた機敏な動作で身体ごと振り向いた。
「沢山食べなさい!」
「食べなさいぞろ!」
「宜しい! ですが、食べる、です!」
「食べるぞろ! 多量に食べるぞろ!」
「結構! では、まずは着替えです! 駆け足!」
「足!」
エレオノーラさんは駆け足でも早い。背が高いのと足が長いからだと思う。
「エ、エレオノーラさん、速度凄まじいぞろ!」
「エレナで結構! わたくしも貴女をカズキと呼びます!」
「エ、エレナさん!」
「宜しい!」
一つ不思議なのは、一緒に駆け足しているはずなのに、メイドさん達はいつ振り向いても髪一つ乱れていなかった。よく見たらエレオノーラさんもだ。前髪が捲れあがって、アホ毛立ちまくりな私がおかしいのかもしれない。
朝食は、昨日と変わらず大集合だった。違ったのは、食事はバイキング方式だったことと、エレナさんと食べたことだ。エレナさんは朝食はしっかり派だった。曰く、『食事は、見苦しくない程度に美味しく頂けたらそれで宜しい!』だそうで、彼女のお皿にはもりっと料理が積まれていた。私も負けじともりもり食べた。よく見ると、他の女性達もしっかり食べていた。まるで夕食と思えるほど肉料理が多かったけれど、食事が終わる頃には綺麗になくなっていた。当然デザートもぺろりだ。大変美味しゅうございました。
食事が終わった人から退出するかと思ったら、今日は全員残っている。どうやら昨日は気を使っていてくれたのだと気づく。
最後までしっかり食べきったエレナさんは、口元を拭いて紅茶を一気飲みした。
「では、朝議を開始します」
いつの間にかメイドさんからバインダーのような物を受け取って、エレナさんは立ち上がった。よく通る声に、女性達もお喋りをやめてざっと音を揃えて姿勢を正す。私も慌ててそれに習う。
「午前」
「わたくしは、マクレン家奥方様よりご招待頂きました庭園観賞に参ります」
「わたくしとサリーナは、ドメニク家長女様よりご招待頂きました観劇に参ります」
「わたくしは…………」
はきはきと女性達は手を挙げて連絡していく。
次に昼食、お茶会、夜会にまで予定の報告は続き、気がつけばほぼ全員が手を挙げていた。
「殿方のいない屋敷を守っていく為に、外交は欠かせませんのよ」
ぽかーんと成り行きを見守っていると、隣のテーブルに座っていた女性が身を乗り出して耳打ちしてくれる。うふんとウインクしてくれたその女性は、確かドールだ。名前ではなく、家系図の名前の横にエレナさんが書きこんでくれた特徴だ。確かに、金髪巻き髪の緑の目。西洋人形が人間になったらきっとこういう感じだろうと思う。名前はまだ覚えていない。
「カズキ!」
「うはい!」
「貴女は書斎でわたくしとお喋りです!」
「む、むちゃぶり!」
「お・しゃ・べ・り、です!」
「おしゃべり!」
「宜しい! 以上、解散!」
お喋りともごもご繰り返している間に、皆立ち上がって「畏まりました!」と声を揃えていた。慌てて立ち上がる。
「おしゃべり!」
盛大に間違えたけど、「良い復唱です!」と褒められたので嬉しかった。
そして、私はとことん可愛い言い回しの言葉を覚えてなかったんだなと、改めて実感した。『お喋り』と自分で言おうとすると『会話』となる。可愛くない。
予定通り書斎では、手紙を書いたり署名したりするエレナさんの横に構えられた椅子に座って、お喋りだ。書斎の机と椅子はエレナさんには少し小さいようで、この時ばかりはいつもぴんと伸ばされた背筋が曲がっている。たぶん、この書斎はアリスのお父さんの背丈に合わせて作られている。
壁に掛けられている絵には、沢山の子ども達の中心でエレナさんと小柄な男性が立っていた。とても、優しそうな人だった。
「姉達ぞ」
「と」
「姉達と喧嘩上等かかってこいやしたも停止し、いーっと気持ちなったぞり!」
「そうですか」
「はいぞり!」
「ぞりはいりません、が、個人的には可愛いと思いますので、身内の前では直さないで結構」
「ぞり!」
「それだけでいいとは言っていません」
意外と会話はスムーズだ。訂正は入るけれど、エレナさんはちゃんと聞いてくれるし、適度に促してくれる。
「姉妹仲が宜しくて何より」
「いーっとなったぞり」
「わたくし達は鉄拳制裁、打撃粉砕が常でした」
「いっ、いー……」
インク瓶に羽ペンの先をつけ、かりかりと署名していく様子を憧れをこめて見つめる。昔、字の練習をするときに使わせてもらったことがあるけれど、紙を破くはインクつけすぎるはインク足りないわで、結局黒炭を渡された悲しい思い出がある。黒炭は手も汚れるから嫌です。
一段落ついたのか、羽ペンを置いたエレナさんは掌を顎に当てた。
「…………単語は大体の意味が通じますが、やはり助詞を徹底したほうが良さそうですね。それで幾分聞き取りやすくなります」
「ご面倒ぶっかけるぞり」
「ご面倒おかけします、です」
「おかけしますです」
「宜しい」
一つ頷いてくれる。可愛いと思ったら駄目だろうか。
エレナさんは、今まで出会ったことがないタイプだったけれど、不思議と安らぐ。最近全体的にお肉がついてきたお母さんとは全く似ても似つかないけど、アリスのお母さんなんだなと思うと、何だかこう、あれな気分になる。断じて如何わしいほうじゃない。
落ち着くというか、お母さんと話しているとはちょっと違うけどそれと似ている感じだ。自分でも何と言えばいいか分からないけれど、要はエレナさんが好きだ!
書き上げたインクが乾いたことを確認して、とんとんと書類を纏めたエレナさんに視線で促されて立ち上がる。
「貴女にお客様です」
首を傾げたのと同時に部屋にノック音が響く。
「入りなさい」
「失礼致します」
「よ、元気か?」
深々と一礼したメイドさんの後ろで、赤髪つんつん頭が軽い調子で片手を上げていた。
小さめの応接室を用意してもらって、ティエンと座る。
「エレオノーラ・アードルゲ、戦乱に置いても戦後に置いても、女手一つで家を守り抜いた豪傑って噂だけどよ、いーい女だよなぁ」
「エレナさんの胸囲が凄まじいぞろりが、視認侵攻阻むぞり!」
「え!? 胸!? あ、ほんとだ! でけぇ!」
「ぞり――!」
余計なことを言ってしまったらしい。窓の下を横切っていくエレナさんを見つけたティエンの目が輝く。慌てて窓の前で通せん坊するように両手を広げる。擽られそうだけど、ティエンはルーナのいないところでは擽ってこないので大丈夫だ。しかし、ルーナをからかう為に擽られるこっちは堪ったものじゃない。
ティエンは昔から十歳以上年下のルーナを可愛がっていた。彼流の可愛がり方、というのが問題だけど。ルーナから散々『寄るな触るな構うな――!』と嫌がられていたのに、それすらも面白がるという、典型的な好きな相手はからかうタイプだ。
「ルーナはまだ抜け出せねーんだよ。で、だ。それを横目に俺は抜け出してきたわけだ。今頃歯ぎしりしてるだろーぜ」
けらけら笑っているティエンの前の席に座り直す。レースのテーブルかけに、お茶と可愛らしいお茶菓子が並べられているテーブルに座ったティエンは凄く浮いている。小振りで一口サイズに飾られたお菓子を四つ一掴みで口に放り込んでいた。
「今日はな、あいつがいねぇ間に、あいつが話したがらないだろう話をしにきたんだよ。あいつの、十年だ」
すっと雰囲気が変わる。私も背筋を伸ばす。
この目はあの時と同じだ。私とルーナが付き合い出す前に『ルーナをよろしく頼む』と、異世界の小娘に頭を下げたあの時と同じ目だ。
「お前が消えて、ルーナはずっと探してた。でもな、すぐに砦は撤収して帝都に戻らなきゃならなくなった。あいつは騎士をやめようとしてたんだが、それも出来なくてな。結局引きずられるように帝都に戻った。そっからは地獄だったろうぜ。終戦にはしゃぐ連中に囲まれて英雄として掲げられたあいつは、何も幸せじゃなかった。いつもお前を探してて、黒髪や似た背格好が通るたびに追いかけて。あの頃はなぁ、お前に憧れた女達が挙って髪を染め上げた。お前の色が群衆を満たすのを見て、あいつは用以外ほとんど喋らなくなった。無茶苦茶に働きまくって、働いて働いて、隙を見つけてはお前を探しに行って。目だけがぎらぎらしていって、どんどん痩せてやつれて、気絶するみたいに寝たと思ったら、お前を呼んで飛び起きて。見ていられなかったぜ」
「うん……」
「飯も食わねぇ、眠りもしねぇ。当然笑いもしなけりゃ、休みもしねぇ。皆があいつを英雄と讃えた。皆があいつを誇った。あいつはそんな自分を蔑んだ。お前一人守れなかったのにって、もう無茶苦茶だったんだぜ。あまりに休まねぇから、俺らが無理やり落として眠らせて、無理やり飯詰め込んでもしょっちゅうだった。そんなことしてりゃ、当然身体もぶっ壊す。熱出してぶっ倒れても、俺らを引っ掴んで『カズキを探してくれ』ばっかりだ」
「うん……」
「それでも、きっと見つかると信じられた二、三年はまだよかった。もうこの世界にはいないんじゃねぇか、それどころか二度と戻ってこねぇんじゃねぇか。もしも、もしも、お前が自分の意思で戻ったのだとしたら? 自分の意思で戻ってこないとしたら? 時間の流れは一緒か? お前はもう誰かと一緒になってるんじゃねぇか? 疑い出したら切りがねぇ。そうこうしてる間にあいつも成人した。成人してすぐは、お前のこともあるからと大人しかった周囲も、一年、二年と経っていくと自重なんざ忘れる。もった方だと思うぜ。一人が堰を切った途端、怒涛の見合い話だ。元々顔がいい上に戦争の英雄だ。そりゃあ、女共はほっとかないさ。親もな。あいつはお前がいるからって全部断ってた。いねぇじゃねぇかって返してきた男爵のデブ親父を殴り飛ばして前歯全部圧し折ったりもしてたな、そういや」
「う、ん」
自分の両手を組んで力を籠める。震えるな、絶対泣くな。逃げるな、最後まで聞け。
私の意思じゃない。でも、私の所為で起こったことだ。私の所為で、傷ついたルーナの話だ。
日本だったらまだ中学生の子どもの人生を狂わせたのは、私だ。
「大して強くもねぇくせに酒も飲みまくった。そこいらのチンピラに絡まれれば全部買って、まあ、荒れまくってたな。流石に薬はやってねぇが、根が真面目なもんだからそんな自分を嫌悪してもっと荒れて、もう収拾つかねぇったらねぇぜ」
「うん」
「それがどうだ。お前が帰ってきた途端、ただのバカだぞ!?」
「うん!?」
いきなり目を見開いたティエンに、泣きそうだった気持ちが吹っ飛んだ。ばんばんテーブルを叩いて大笑いするから、紅茶が零れないよう自分の分を確保する。
「昨日もロドリゲスに改名するとかぬかしやがる! だっはっはっ! お、お前が、ロドリゲスとやらと愛し合ってるとか聞いたとき『カズキは二心持てるような器用な性格じゃない。だから、娼館ではまだ俺を思っていてくれたはずなのに、そこから数時間で愛し合う男が現れるとか、それは運命か!? ロドリゲスはカズキの運命の男か!? 俺の運命だってカズキだ! 決闘だ!』って思ったんだと! バカだろ!? で、自分がそのロドリゲスだって分かったら、カズキが望むなら改名するだと! ぶわっはっはっはっ! バカだ! すげぇバカだ!」
どいつもこいつもロドリゲスプッシュはやめてほしい。しかし、最初にプッシュしたのは私だ!
泣けばいいのか笑えばいいのか分からなくなってしまった。この宙ぶらりんの気持ちをどうしてくれよう。そうだ、お菓子を食べよう。
マドレーヌみたいなお菓子を食べる。美味しい。フィナンシェみたいなお菓子も食べる。美味しい。絞り出しクッキーみたいなお菓子も食べる。美味しい。
お菓子最高。
次のお菓子に手を伸ばしたら、皿が消えた。
「ああ!」
ざーっと流れるようにお菓子が消えていく。飲んだ! お菓子を流し飲んだ!
「ティエンぞバカ――!」
「だっはっはっ! この世は所詮弱肉強食だ! 油断したてめぇが悪い!」
「捥げろ!」
「おまっ……! ひゅんってなるから、それだけはやめろ!」
きゅっと前屈みになったティエンを、精一杯の冷たい目で見下ろす。食べ物の恨みを恐ろしいのだ。
この呪いの言葉をもう一回唱えてやろうと思ったのに、先に話されてタイミングを逸した。無念だ。
「まあ、覚えておいてやれや。十五から今まで、あいつの十年はお前のものだ。色々惑いもしたけど、あいつはいつだってお前を案じてたぜ。本当に自分の世界に帰れたのか、もしかしたら全く違う世界に落とされてねぇかって。『カズキはちゃんと食事を取れてるだろうか』『カズキは腹を空かせてないだろうか』『カズキは寒がってないだろうか』『カズキはちゃんと眠れてるだろうか』ってな。ずっと後悔してたぜ? 自分がそっちの言葉を覚えてお前と普通に喋れるようになってから、お前の言語修正しなくなったこと。お前とまともに会話できるのが自分だけだったのが嬉しかったって。でも、それでお前が困ってないかって、ずっと悔やんでやがった」
「うん……ありがとう、ティエン」
廊下が騒がしい。音はだんだん近づいてくる。誰かが走っているのだ。それが誰か、なんとなく分かっていた。ティエンはもっと早く気付いていたのだろう。しかし、エレナさんといい、ティエンといい、常人には到底不可能な芸当をさらりとやってのけるので、常人代表としては自分が無能すぎるのかとへこむ。
耳を鍛えるにはどうすればいいだろうと考えていると、ぽんっと肩を叩かれる。
「ああ、それと一つ付け足しだけどな」
「はいぞり?」
「来るもの拒まず去るもの追わず。だけどな、あいつはちゃんと選んでたぜ!」
言うや否や、ティエンは窓を開け放って飛び降りた。
「こちらぞ三の高低差ぞ――!?」
三階の窓から飛び降りたティエンに、思わず覗きこもうとした私を追い越して、部屋に飛び込んできたルーナが身を乗り出して怒鳴る。
「ティエン! よくも俺に隊長を擦り付けたな!」
「だーっはっはっはっ!」
心底楽しそうに笑いながら、ティエンは悠々と歩いていった。その姿が見えなくなるまで睨み付けていたルーナは、はっとなってぐるりと振り向くと私の肩を掴んだ。
「カズキ!」
「うぉわぁああああああ!?」
「弁明させてくれ!」
「何事ぞり!?」
ルーナの勢いにつられてこっちも勢いづけて返す。一体何があったんだ。ルーナの顔は若干青褪めているような、高揚しているような、複雑な顔色だ。
「俺は、寝ただけだ!」
「睡眠ぞ大事ぞりね!」
「違う!」
「大事ぞりよ!?」
「確かに大事だな!」
「ぞりね!」
「だな!」
結論が出たところでお互いきょとんとする。何か違うぞ、これ。
ルーナも同じことを思ったのか、首を傾げた後、疲れたように長い息を吐いた。ずりずりと壁に背中を押し付けて座り込んでしまう。大丈夫かと私も膝を折って前にしゃがむ。
「落ち着いて話そうと思ったのに……なんでこうなるんだ?」
何がだろう。とりあえずルーナが落ち着くまで待ってみる。
そんな私をちらりと見て、もう一回深く息を入ったルーナは、唇をきゅっと引き結んで顔を上げた。
「ティエンが言ったことは、半分正しい。俺は確かに、その…………女の人と、同じ寝室で寝た、けど、寝ただけだ。睡眠をとった、だけだ。もしくは、一緒に泊まったと口裏合わせてもらって、カズキを探しに出てただけなんだ」
[え?]
「自分でも信じてもらうのは難しいと分かってるけど……いや、一つ一ついこう。全部、聞いてくれるか?」
[も、勿論]
「ありがとう」
ほっとしたように綻ばせたルーナの顔が凄く可愛く見えた。惚れた弱みって凄い。
ルーナの話を聞かないはずがない。いや、聞いてなかったことはあるけど。いっぱいあるけど!
ごめん、ルーナ。
「…………何で、カズキのほうが申し訳なさそうな顔してるか分からない」
重ね重ねごめん。
ルーナは不思議そうな顔をしていたけれど、すぐに気を取り直した。
「まず、発端は、その、恐れ多くも王女殿下が俺を慕ってくださっているという話から始まる」
[あ、それはまあ、前から知ってた]
何せ一度だけ砦に来たときも、私を見て二度見して、他の人に確認して三度見していた。その眼は言っていた。『女の趣味悪っ!』と。幼い少女から突き刺さる視線に、どや顔したのもいい思い出だ。自分でも、異世界人で年上で美人でもない私を選んでくれたルーナの趣味を疑っていたときだった上に、付き合い始めで惚れた弱み満々だった。なので『そうです! 私の恋人趣味悪いんです! 可愛いでしょう!』とのどや顔だったのだが、今考えると何でどや顔したのか自分でも分からない。
「王女殿下が見合いを全て断る状況が続き、成人の儀を受ける前に何としても諦めさせるようにとの厳命が下ったものの、俺はそういうことに疎い。それでティエン達に相談したら…………男色との噂が流された」
[…………そっちが先だったんだ]
こくりと頷いたルーナの顔が青ざめている。綺麗な顔をしたルーナがそんな噂を流されたら、まあ、その、怖い思いをしたことだろう。ただでさえ男所帯の騎士や軍人はその手の話が多いらしいのに。一回、中央から来たお役人がルーナに襲いかかったことがあって、偶然目撃した私が箒とバケツと雑巾を両手に飛び掛かったことがあった。自分であっさり撃退して、相手を押さえつけていたルーナに全部当たったのは本当に申し訳なかった。
ミガンダ砦では、ルーナが自分の身は自分で守れたことと、ルーナを弟みたいに可愛がっていたティエン達が守ってくれていたわけだけど、逆に追い詰められるとは。
「で、だ! それはそれで厄介な事態に……何もなかったからそんな憐れんだ目はやめてくれ!」
[わ、分かった! 相談したかったらいつでもどんとこいだからね!]
「な・に・も・な・い!」
[わひゃりまひひゃ]
頬っぺた潰されて鬼気迫る顔で詰め寄られる。半端なくイケメンで、半端なく怖い。
こくこく頷いていると、じとっとした目で見ながら解放された。
まだ疑った目をしていたけれど、話し始めた途端ルーナの顔はどんどん俯いていく。
「男色の噂を払拭しようと……その、そういう店に行ったのは、事実だ。だけどな…………」
[うん?]
ぼそぼそと口籠られると聞こえない。もう一回言ってくれたけどやっぱり聞こえない。口元に耳を寄せてもう一回促す。
「たたなかった!」
いきなり叫ばれて反対側の耳まで声が抜けていった。頭がぐわんぐわんする。目を回しているのに、ルーナは肩を掴んでがんがん大声を出す。二日酔いってこんな感じだろうか。
「出来るわけないだろ! 初めてがあんな強制終了でどうしろって言うんだ! ああいう雰囲気になればカズキが消えたことしか思い出せなかった! あの虚しさと遣る瀬無さと絶望感! ああ、ああ、この年で経験無いさ、悪いか!」
[ちょ、おちつ]
「相手の人には、今日は疲れてるとかどうしても眠りたいとか、やらなきゃいけないことがあるから協力してくれとか頼んで誤魔化した! ああ、ああ、自分でも分かってる! 気持ち悪いさ! 重いさ! 悪いか!」
[悪くないから落ち着いてってば!]
なんとか引き剥がしたルーナは項垂れたまま動かない。
耳がきんきんする。けど、絶対ルーナのほうが重傷だ。アリスといい、ルーナといい、どうやら私は十五歳の男の子にトラウマを植え付けてしまうらしい。
ごめん、は、違う気がする。ありがとうも違う。
「…………もう一度会えるって信じてた」
[…………私も]
「…………もう、会えないかと思った」
[…………私も]
両手で顔を覆って動かないルーナは、少し震えていた。
大きな背中だ。大人の、男の人の背中が、震えている。
十年、十年だ。もう二度と会えないかもしれない私を、待つことが無意味になる可能性の方が高かった私を、置き去りにしないでくれたこの人に、私はどうやったら報えるのだろう。そんな価値がある人間とは自分でも思えない。思えないけど、彼の十年を、子どもが大人になる大切な十年を私にくれたこの人の時間を無駄にすることだけは、できないし、絶対しない。
私はそっとルーナの背中に手を乗せた。
[でも、そういうことしようって娼館に行ったのは事実だよね?]
考えた結果、昨日からずっと考えていた罰を実行することにした。
びくりと震えたルーナは、ぐっと唇を噛み締めて顔を上げた。
「……ああ。カズキには、申し訳ないと思ってる」
[じゃあ、正座して歯を食い縛る!]
正座は昔教えたことがある。記憶力のいいルーナは覚えているはずだ。素直に正座したルーナの前に仁王立ちになる。
「殴ったくらいで許してくれるのか?」
[お腹に力も入れる!]
「蹴りもか。何発でも来い」
大人しくじっと待っているルーナの前で、仁王立ちで見下ろす。しばらくにらめっこ状態で見つめ合っていたけれど、一つ言いたい。上目遣いのルーナ、凄く可愛い。思わず顔を逸らして悶えた間も、ルーナは沙汰が下されるのをずっと待っている。
五分くらい経って漸く私の悶えは落ち着いた。
でも、じっと見つめる水色と目が合うと悶えが再発するから目を閉じてもらう。ぴょんぴょんと飛び跳ね、両手首を回して準備運動終了だ。
[よし、行くね!]
「ここで頭突きか!?」
がしっとルーナの顔を掴むと、流石に驚いたのか目が開かれてしまった。でも止まってしまうと再開できる気がしないので、勢いのまま顔を振り下ろす。
ふにっとした感触がしたと同時に、ぶわっと体中に何かが走っていく。ちゅっとか絶対できない。何だその高等テクニック!
押し付けるだけで精一杯だった私は、零れ落ちそうなほど見開かれた水色から慌てて距離を取った。十九にもなって、渾身のキスがこれとか自分を罵りたい。
今の私はたぶん、情けないくらい首の後ろまで真っ赤だろう。だって燃えそうなくらい熱い。
妙な沈黙が落ちた部屋の温度がどんどん上がっていく気がする。
[み]
「みっ!?」
[みゃぁああああああああああ!]
「待てカズキ、もういっかうわぁ!?」
羞恥ゲージが振り切れて、耐え切れず部屋を飛び出した私の後ろで大きな音がした。
正座に慣れていない身では、足が痺れて立つこともできないだろう。これで追いかけられないと踏んでいた私の勝利だ。孔明と呼んでくれていいのだよ。ちゅーで恥ずかしがる孔明で宜しければ!
[無理! ほんと無理! 恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい! 何だこれ! いつもより多く恥ずかしい!]
顔を覆ったり、身悶えながら廊下を走り抜けていると、エレナさんと鉢合わせした。エレナさんは顔を真っ赤にして廊下を走り去る私に、すぅっと息を吸う。
「元気で大変宜しい! 太く長く図太く、恋せよ乙女です!」
こっちの世界の乙女は、随分と逞しいものらしい。




