16.神様、ちょっと色々考えています
黒曜候補が襲われた。
グラースとブルドゥスにとって大事件だ。
王族が住まう城内で襲撃事件が起こったこともそうだし、黒曜候補は、美も知も兼ね備えた優秀な女性達なのだ。失えば人材の重大な損失にもなる。しかも、襲われたのは優勝候補の三人だという。幸い全員かすり傷程度だというが、二国の重要人物が集まっているこの時期に、そんな襲撃を許した時点で目も当てられない。
らしい。
重大な事件なのは分かる。凄く大変な事件なのも分かる。
しかし、私にとっては新聞やテレビのニュースのような感覚だ。だって、そんな重大な事件だからこそ『元祖黒曜はこちらです!』な私でも、ある意味物凄く関わりのないことだったりする。
寧ろ私にどうしろと。犯人を見つけ出す頭脳も、探りを入れる人脈も、物理でとっ掴まえる力もない。
なので、とりあえずそういう事件があったと心に留めておくだけにする。気に病みたい気持ちはやまやまなのだが、如何せん私は身近なことで手一杯だ。
国家レベルの事件より、自分の周りの事件が大事だ。身近と言ってもこれだって国家レベルの大事件だけど。
まず、娼館襲撃事件。これを聞いた両国の代表は呻いたり泡を吹いたそうだ。ガルディグアルディアを襲撃した大馬鹿者はどいつだ、戦争を始めたいのか! と、軍のトップは怒声を響かせたらしい。酒樽さんがあそこにいた件は伏せられていた。ルーナがいたことを伏せる為だそうだ。
リリィ達が無事だと聞いたからこそ、こうやって落ち着いて話を聞ける。
今朝、ルーナの元に酒樽さん経由で手紙が届いていた。直接こっちに届かなかったのは、私の場所を隠しているからだ。ルーナがブルドゥス寄りの服装なのも同じ理由である。
手紙には、みんな無事であること、私の所為ではないこと、私に元気でいてほしいと書かれていた。簡単に箇条書きで。文字の読みがかろうじて、書きは多大に怪しい私の為に、まるで子どもに読ますお手本のようなそれが、本当にありがたかった。
あんなことに巻き込んでしまって尚、態度の変わらなかった人達が。あんな目に合せてしまって尚、あんなにも優しかった人達が、本当にありがたい。
後、筆記体だったら絶対読めなかった。
今は朝日が昇ってまだそんなに経っていないらしい。道理で日が柔らかいと思った。
「騎士ホーネルトがジャウルフガドール筆頭と付き合いがあったとは思わなんだ」
「五年前の式典でブルドゥスに来た際に、彼の奥方が盗賊に襲われている場面に出くわしたんだ。以来、良くしてくださっている。色々、凄い方だとは知っていたが、カズキの姿を見つけた後、探してほしいと頼んですぐに見つけ出した時は改めて思ったな。……だが、奴らは何故だ?」
騎士二人は、ぐっと眉間の皺を寄せた。
私達はまだ広間でご飯を食べている。あれだけいた女性達は、気が付いたら食事を終えて全員いなくなっていた。一人また一人と退出していたのは気づいていたけれど、気が付いたらメイドさんもいなくなっている。飲み物や食べ物は、すぐ傍の台車に纏められていた。お仕事早いし完璧です。
横着して、身体を捻り、手を限界まで伸ばして台車の端を掴む。そのままこっちに引き寄せていると、アリスに呆れた目で見られた。ルーナは静かに頷いた。
「足じゃないだけいいと思う」
「貴様、そこまでっ……!」
「あれなるは両の手が閉鎖されていたが故の悲劇じょろり! 更なるはてめぇらがパンツ貯蔵するなるが敗因にょろ!」
「俺は、下着は自分で洗ってた」
確かに。ルーナは、パンツを自分で洗っていた。真っ赤な顔で『下着は自分で洗う!』宣言していたのを思い出す。思春期の息子はこんな感じなのかなと微笑ましく思っていた。
…………気の所為だろうか。こっちの世界でのパンツとの縁が半端ない。自分の異世界体験を手記に残すとしたら、タイトルは「カズキの異世界パンツ巡り!」だ。いや「パンツ異世界日誌」とか「異世界パンツ記」とか!
あ、最低だ!
トマトとレタスとチーズのサンドイッチを齧りながら二人を見ると、また眉間に渓谷を作っていた。この二人、結構似てると思う。若いのに眉間の皺が凄い所とか。
「俺はあの時、確かに目立つ場所でカズキと騎士アードルゲの後を追ったが、すぐに見失った上に名前は呼んでない」
「確かに…………娼館にいたことを知っている人間は?」
「ギャプラー殿に連絡してすぐだったからな、情報が漏れていたとも考えにくい…………カズキの外見を知っている人間か、ガルディグアルディアの奥まで密偵を放てるような人間か、だ」
眉間に山脈が現れた。自分のことが話し合われているけれど、口を挟めることが一切ない。ブルドゥスの上の人なんて全く見当もつかない。グラースでさえ分からないのに。
心当たりはと聞かれないのは、それが私以上に分かっているからだろう。私のことだけど、私から物凄く遠い話だ。
「何故にして、私ぞ的ぞ、よく狙えよしたぞろり?」
「……騎士ホーネルト」
「何で自分が標的になったのか、だ。黒曜だからとしか俺にも分からない」
そりゃそうだ。私個人が恨みを買うほど、この世界に関われていないと胸を張って言える。
黒曜だから。理由がそれだけなら実際会ってくれれば分かるのにと思いながら、野菜スープを飲み干す。コンソメ風味だ。
黒曜像とは似ても似つかない私を見てくれれば、殺す価値もないと鼻で笑うはずだ。
「こくよーぞ存在ぞ良いのならば、何時如何なる時分でも、おーい交代の時間だぜーするぞりょり……」
「……騎士ホーネルト」
「黒曜になりたいなら、いつでも交代するのに、だ。だがカズキ、そうなると俺の立場が微妙だな。俺は『黒曜の恋人』で有名なんだが?」
憂いた顔で俯かれて、そのことに思い至った。ばんっとテーブルを叩いて立ち上がる。
「それなるは多大に途方に暮れるぞ! 私、ルーナと別離するぞ、いやぞ、嫌いぞ、嫌悪するにょ! ルーナ嫌いにょろり、大柄に嫌いぞろり!」
「…………お前の反応を試した俺が悪かった。悪かったから、心に突き刺さる言葉選びは勘弁してくれ」
盛大にルーナへの愛を叫んだら、顔を覆って呻いてしまった。愛を伝えるって難しい。そんなに照れなくていいんだよ?
俯いたルーナの背中に、ぽんっとアリスの手が乗せられる。どっちかというとあっちが親友(決定)に見える。私とアリスの親友(仮)よりよっぽどだ。
ここんっ、ここんっと素早いノック音がした。
「は」
い、と続くはずだったアリスの返事は、既に開いた扉で遮られた。小さく呟かれた「い」が悲しい。
「アリスロークさん、お客様です」
エレオノーラさんはそれだけ言って、かつんとヒールを鳴らして出て行ってしまった。
メイドさんが外側から押さえているのか、開かれたままの扉から長身の男性が入ってくる。つんつんとした赤毛を見た途端、思わず腰を浮かせて駆け出していた。
「ティエン!」
「おー! カズキお前、全然変わんねぇな!」
ティエンチェン・ハイは、ミガンダ砦にいた軍人だ。大柄な身体と性格で、見た目通りの男だなとよく言われている。あの頃は二十代だったけど、十年経ったので三十代後半に突入しているはずだ。若干変化はあるけれど、あんまり変わらないようにも見える。
ちなみに私は、彼の名前を覚えるとき心の中でこっそり仇名をつけた。
ハイ・テンション、と。
お互い両手を広げて駆け寄っていたが、はっとなって踵で急ブレーキをかける。きゅっと音を立てて回転し、バレエのようにくるくる距離を取って離れた。
「危険だったでぞろり!」
ティエンは、私が脇腹弱いと知ってからは、しょっちゅうくすぐってくるのだ。うっかり諸手を上げて再会を喜んでしまった。危ない所だった。
脇腹を押さえてじりじり後ずさる。
「おい、カズキ?」
「ティエン、即座に腹部接触するぞろ! 私なるは、危機的状況を索敵する能力ぞ精進したじょりん!」
脇腹を押さえて後ずさっていくと、ティエンは傷ついた顔をした。
「お前……二度と会えなくなったと思ってた奴と十年ぶりに再会した俺が、そんなことすると思ってんのか!? お前は俺をそういう奴だと!? かー、傷つくぜ!」
「え? あ、ご、ごめんじょりん!」
片手で顔を覆って嘆くティエンに、過剰反応しすぎたと走り寄る。私に取ったら一年も経っていないけど、彼らからしたら十年経っているのだ。再会の挨拶もなしに脇腹擽ってくると疑って申し訳なかった。
俯いてしまった長身の肩には届かないので、腕の辺りにぽんっと手を置いて謝る。
「あ、馬鹿!」
いきなり人を馬鹿呼ばわりしたルーナにくるりと振り向いた私は、全身を強張らせた。
「うにゃぁああああ!」
私の二倍はありそうな掌が、両手で私の脇腹をすっぽり覆っている。それだけでもじわじわとくすぐったさが湧き上がってくるのに、あろうことか、この男は指を動かしているではないか!
あははははと、大声で笑い出せるようなくすぐったさではない。もっとこう、張り付くような、引き攣るような、痙攣にも似た感覚がぞぞぞっと湧き上がってくる。
「ひ、ぁ、やぁあ! ふぁ、ひやぁ! あ、あぅ、ひ、やぅ、やめ、やらぁ!」
息が、息ができない!
涙目でルーナに助けを求めようとしたらいなかった。薄情者!
こうなったら親友(仮)に救いを求めようとしたら、背後で凄い音がした。同時に脇腹が解放されたので、転がるように親友(仮)に走り寄る。
「親友(仮)パンツ――!」
「こっち来るな――!」
飛びすさって逃げられた。親友(仮)パンツ冷たい。
無情さに項垂れつつ、追撃を警戒してティエンに視線を戻すと、ルーナにアイアンクローされていた。ルーナの手には筋が浮かんでいる。全力だ。あれは痛い。いいぞ、もっとやれ!
「待て待て待て待て!」
「誰が待つか!」
「これはあれだ! あれだぞ! あれだろ!?」
「どれのあれでも絶対許さない」
「気張ると全部残念になる恋人を持つお前に、カズキの唯一エロいところを見せてやろうとだな! 先輩からの優しさだぜ!」
みしりと凄い音がした。あれ、ティエンの額へこんでない!?
「俺が見られないより、あんたに見られるほうが嫌に決まってるだろうが! 後、残念も可愛いと思わなきゃカズキと付き合えるか! 阿呆が!」
ありがとう、恋人よ。
けど、残念は否定してほしかった。是非とも否定してほしかった。
「いってー……これへこんでねぇか? なあ、カズキ?」
「近寄るな。そして禿げろ」
「おまっ……! 恐ろしいこと言うなよ! 俺くらいの年齢になりゃあ、洒落になんねぇんだよ!」
「知るか。カズキも言ってやれ。禿げろって」
ルーナの背中に庇われつつ、顔だけ出してティエンと対峙する。禿げろが攻撃になるのはどこの世界も同じだ。
「ティエン!」
「あ?」
「捥げろ!」
「おまっ……!」
凄い速さでティエンの両手が前に回って前屈みになった。ついでに、ルーナの背中もびくんと震える。アリスは庭を見ながら「綺麗だな」と呟いていた。禿げろってそんなに恐ろしい呪いの言葉だったのか。そうか、気をつけよう。向こうの世界みたいに、ハゲチャビンのノリで「ハゲー」とからかってはならないらしい。
男三人は若干青褪めて見える。そんなに恐ろしい言葉とは思わなかった。ここぞというときに使うとしよう。刺客に襲われたときとか!
上品で高そうなカップに紅茶をなみなみと注いだティエンは、喉を鳴らして一気飲みした。懐かしい。砦でも、誰が山羊乳一気飲みできるかと勝負していたのを思い出す。変わってないなぁ。
ちなみに、一気飲みできなかったイヴァルは散々からかわれて、大泣きしながら抱きついてきた。代わりに一気飲みしたら男気があると散々褒められた。誇らしかった。
山羊乳は牛乳に比べて癖があり、最初はつらかったけれど、慣れればこういうものだと思えるようになった。飲めるだけでもありがたいのだ。でも、娼館で出してくれた牛乳のほうが断然好きです。
「あー、ひどい目に遭ったぜ」
私がな!
半眼で睨んでやると、にっと白い歯を出して笑われた。いい笑顔しときゃ許されると思うなよ。快活な笑顔は大好きです。
ちょっと許してしまった私は、安い女かもしれない。
「で、ティエンは何しに来たんだ」
「何って、お前を連れ戻しにきたんだよ。黒曜候補と、姫さん達がお前を取り合って大喧嘩だ。もうごまかしきれねぇぞ。後、カズキにも会いたかったしな」
快活にウインクされた。それは別にいらなかった。
「何故にして、大乱闘ぞろ?」
「乱闘までいってねぇよ! あー……つまりな、こいつは『黒曜』の恋人だろ?」
「じょりんぱ!」
「『黒曜』決定にはこいつの意見がでかいんだよ。だから試験前にお近づきになっとこうって腹積もりが半分」
にやっと笑ったティエンは、ルーナの頬っぺたと指で突っついた。
「後は、こいつがモテるから。姫さん達は行き遅れてもこいつ一筋だしなー。色々噂流して諦めさせようとしたけど一向にっていってぇ!」
頬っぺたを突いていた指を握ってあらぬ方向に曲げたルーナは、眉間の皺を渓谷にしている。
「あんたの所為で凄まじい噂が飛び交っただろうが!」
「男色ぞり?」
「そうだ! いや違う、噂を肯定したわけじゃないからな!?」
慌ててぶんぶん手を振っているルーナに聞きたい。握ったままのティエンの指は無事ですか?
かろうじて無事だったらしい指を大事そうに確保したティエンは、ふーふーと指に息を吹きかける。
「てめぇ……先輩に向かって何てことしやがる!」
「こっちの台詞だ。後、俺は騎学院卒、ティエンは軍学院卒。先輩じゃない」
ふんっと鼻を鳴らされたティエンは、にんまりと嫌な笑顔を浮かべて私を手招きした。テーブルを挟んでいるので擽られることはないだろうと顔を寄せる。
「お前がいなくなって三年は探し回る。次の二年は荒れる。ここまで、女の影なし。流れた噂が女嫌い」
「ティエン!」
押しのけようとして来るルーナの顔に、さっきとは逆にアイアンクローを決められる。
「そっから別方向に荒れてなー? 来るもの拒まず去るもの追わず。元々モテたからなー? 流れた噂が女好き。で、そっから荒れに荒れて、落ち着いたのがここ二、三年だな」
言われた言葉を処理するまで少し時間が必要だった。
その間にアイアンクローから逃げだしたルーナは、ちょっと焦点が合わない目で必死に肩を掴んできた。額が赤い、痛そうだ。
ぼんやりとそれを見ていると、ルーナが焦っていく。
「カズキ!? その、ちが、違う! 浮気とかそんなんじゃなくて!」
[ルーナが……ルーナが…………そんな………………]
「カズキ!?」
わなわなと手が震える。その震えが全身に渡った途端、私は椅子を蹴り倒して立ち上がっていた。
[一人で大人の階段昇ってた――! いやー! 裏切り者――! お互いファーストキスもまだだったから、初めてのちゅーのとき一緒だねって、一緒に初めてしようねって約束したのに――! ルーナの馬鹿――! あれだよ、あれと一緒だよ! マラソンで一緒に走ろうねって約束したのに、先にゴールしちゃったパターンだよ!? 分かる!? テスト勉強してないー、寝ちゃったー、とか言ってたのに、実際はしっかりばっちり勉強してたあれだよ! 本気で寝ちゃってテスト勉強してなかった私に謝れ! 寧ろ私が先生に謝れ! 先生ごめんなさい! 補習で休日出勤させて本当にごめんなさい! あれって無給なんですよね、本当にごめんなさい! そしてありがとう!]
先生のおかげで無事に高校卒業できました!
本当にありがとうございました!
そっちで何とかしろと渋っていたルーナも、『騎士ルーナ』が必要だと説得されて渋々戻っていった。最後に、馬に乗ったティエンがからから笑いながらからかってきた。
『こいつはともかく、カズキは男遊びとかしなかったか? ん?』
セクハラだ。当然そんなことはしていないから、胸を張って堂々と答えた。
『それなることは当然存在皆無して……………はっ!(当然してないけど、元気のない私を気遣った大学の友達がばんばん合コンに誘ってくれたり、サークルの飲み会に参加させてくれたり、何かその場の雰囲気でアドレス交換しちゃったことは入らない、はずだ!)ないぞろ!』
『その間は何だ!? 何に思い当たった!? カズキ!?』
飛び降りようとしたルーナが乗ったばかりの馬のお尻を、大爆笑したティエンが叩いてお城に戻っていった。何だかぐったり疲れたアリスも一緒だ。
私は、エレオノーラさんの好意に甘えて寝させてもらうことにした。よく考えたら、昨日娼館が炎上してから二時間しか寝ていない。段々落ち着いてくると、身体がずっしりと重く、瞼が下りてくる。まだ朝だけど、明日から頑張るから今日は寝させてもらおう。
メイドさんに案内してもらいながら、宛がわれた部屋の前に到着した。お礼の為に下げた頭を上げるのにも気力がいる。もう半分眠っていた。
足元を眺めていると、かつんと踵を鳴らして誰かが立ち止る。ぐらぐら揺れながら顔を上げると、ぼいんなお胸があった。そして、淡々とした声が降る。
「何か入用な物はありますか。仰って頂ければ、睡眠をとっている間に用意しましょう」
「あ、ありがとうじょろり……えーと…………必要補給………………」
とろんとしてきた目を擦る。駄目だ、二度も話しながら眠って堪るか!
根性でくわっと目を見開いて、姿勢を正す。
「可能存在するすれば、皆々様方ぞ記載されし図鑑ぞ借用頂けるじょ願うじょろり!」
「…………我々の一覧が分かれば宜しいですね?」
「はっ!」
「では、家系図を用意します。書き写すまで時間がかかりますので、それまで眠っていなさい」
「はっ! あ、ありがとう!」
「ございます!」
「ごじゃりまにゅ!」
「ます!」
「ましゅ!」
「続けて!」
「ありがとうごじゃりましゅ!」
「宜しい!」
若干噛んだけれどOK出してもらえた。
もごもご復唱している私を、エレオノーラさんはじっと見下ろしている。何かしただろうか。こういう状況で真っ先に頭に浮かぶのが『怒られる!』なのは何故だろう。今迄の人生経験だろうな。
「若干若くは見えますが、今の貴女は立派に成人して見えます。ですがあの時は、貴女がとても幼い子どもに見えました。眠っていたからでしょうか」
それとも、と続く。
「迷子だったからでしょうか」
その言葉に、私は返事ができなかった。
分からない。こちらの世界を生きる場所と定めるなら、私は迷子じゃない。でも行きたい場所を決められない。決めた結果、また奪われると思うと怖くて堪らない。選べないでいる以上、私は何処にいても迷子だ。帰りたい場所が分からない。
捨てたいものなんてないんだ。どれもこれもが大切で、あれもこれもを手放したくない。
ミガンダ砦にいた頃は、ただ日本に帰りたくて泣いた。夜に一人になって、ごわごわした毛布をかぶって泣いた。でも今は違う。帰りたいけど捨てたくない。もう離れたくないのに帰りたい。
どっちも選べない。どっちも捨てられない。捨てたくない。
黙り込んだ私を、エレオノーラさんは怒らなかった。
「今日はもう眠りなさい。では」
そのままかつんと踵を鳴らしていなくなる。ぴしりと伸ばされた背中をぼんやり見送り、のろのろと部屋の中に入ると、まっすぐベッドに向かって倒れ込んだ。突っ伏したまま足だけで靴を脱ぎ、もぞもぞと脱皮するみたいにドレスから抜け出して布団に潜り込む。
寂しいと口から出そうになって、無理やり両手で抑え込む。いい人達にいっぱい出会えた。いっぱい助けてもらって、今も迷惑をかけながら支えてもらっている。
感謝してもしきれない。本心から彼らが大好きで、ありがとうと思っているのに、悲しい。
悲しむのも、泣くのも、彼らへの裏切りに思えてしまう。唇を噛み締めて身体を丸める。泣くな。泣く理由なんてどこにもない。大好きな人達に囲まれて、助けてもらって、支えてもらって、これで悲しいと思うなんて罰当たりだ。
日本でも同じことを思った私はとても我儘だ。元に戻っただけだったのに、寂しくて堪らなかった。 元々得るはずのなかったものを世界に返しただけなのに、悲しくて苦しくて堪らなかった。
贅沢なだけだ。我儘なだけだ。
私は、とても得難いものを貰った。みんな、とても優しい想いを向けてくれたのに、それでも足りないと叫ぶ私がいけないのだ。
ふと意識が覚醒した。
何かこれといったきっかけがあったわけじゃないのに、脳までしっかり起きている。
ぎゅうっと丸めていた身体を伸ばすと、ばきばきと関節が鳴っているような気がした。実際は鳴ってないけど、感覚的にだ。
のそのそ起き出してベッドの上を這いながら、いつの間にか傍に用意されていた水差しから水を貰う。ベッド脇にいつの間にか揃えられていたスリッパみたいな室内履きを履いて、長いキャミソールのまま部屋の中をうろつく。いま何時なんだろう。時計を探しながら重たい生地のカーテンを開ける。
赤みのある薄紫の空が広がっていた。夜明けか夕方か。さあ、どっちだ!
腹具合から推理しようと考え込んでいると、窓のすぐ傍に机があるのに気付いた。そこに、丸められた大きな紙が置かれていた。
何気なしに手に取って開くと、たくさんの名前が線で繋がっていた。家系図だ。エレオノーラさんが早速準備してくれたのだろう。それにしても凄い人数だ。これを写してくれたのか。後でしっかりお礼を言わなければ。
家系図は、横に繋がっている線が多かった。きっと、過去に遡りすぎるより分かりやすいと親戚関係を纏めてくれたのだろう。
まるで教科書に載っているお手本のような、しっかりとした字は読みやすい。少しずつ一文字一文字確認しながら読んでいく。それぞれの人の横には、肌が白い、赤毛、いつでも帽子、狐、猫、などその人の特徴らしき言葉が書きこまれていて少し笑ってしまった。
確かに狐っぽい人いたなぁと思いながら辿っていくうちに、一つ不思議な事に気が付いた。
女性名は黒いインクで書かれているのに対し、男性は赤のインクで書かれている。最初は男女で分けているのかと思ったけれど、家系図がアリスに辿りついた時、唐突に理解した。
アリスの名前は、黒だった。
赤のインクが示すこと。それは。
[故人…………?]
たくさんの女の人達。彼女達と繋がった線と名前。
屋敷に一人もいない男の人達。
アリスにはお兄さんが二人いる。その名前は真っ赤に彩られていた。
家系図を持っていた手が震える。
長い、長い戦争があった。三百年に渡った戦争は、国と民に疲弊を齎した。
知っていた。聞いていた。感じていた。
けれど、知らなかった。
震える手で家系図を机に下ろすと、くるんと丸まって止まった。息が荒くなる。
目が霞む。震える胸元で、ちりっと何かが擦れ合った。
びくりと震えて視線を落とすと、菱形の枠に嵌った赤い石と、花をモチーフにした銀と青い石が、揺れながらかちかちとぶつかりあっている。
思わず両手でその二つを握り締める。リリィから貰った赤い石の首飾り。そして。
[リリィ、ルーナっ…………!]
昔、私の勘違いで喧嘩してしまったルーナがくれた、花と青い石の首飾り。
返ってきた。大事にしていた首飾りを、ルーナが持っていてくれた。十年間を繋いでくれたのだ。
膝をついて近くなった床に、ぽたりぽたりと涙が落ちる。泣くな。泣く理由なんてない。泣いていいのは私じゃない。寧ろ私は、この家に悲しみを齎した側だ。
泣くな泣くな泣くな!
強く念じるのに、そう思えば思うほど涙は止まらない。
がちゃり。
ノックもなく、扉が開く。かつんと踵を鳴らす音がして、エレオノーラさんが入ってきた。灯りのない部屋ではその表情はよく見えない。
窓から差し込むのは薄紫の空から落ちる光で、部屋の中を照らすには弱すぎた。
「おはようございます、カズキさん。宜しければ、朝食の前に少しお付き合い頂けますか」
淡々とした口調に、感情は見つけられなかった。




