10.神様、ちょっと色々お待ちになって
「カズキ」
重ねるように名前を呼ばれる。
「カズキ」
あれだけ騒がしかった部屋の中が水を打ったように静まり返っていた。この部屋がこんなに静かになったのは初めてだ。
皆の視線を感じる。ちくちくなんて可愛らしいものではない。ざくざくだ。
「カズキ」
「た、待機、少々待機! 事態把握なさるまで待機ぞり!」
「ちゃんと、待った。カズキが靴相手に凄い形相になってる間、俺はちゃんと待ってたぞ」
「何時如何なる時よりご覧頂けやがったぞ!?」
「蟹股になって、「靴よ観念致すぞろ! 今日がてめぇの命運底を尽きた日付にょろ――!」と叫んでた時からだ」
あ、結構前ですね。
そして相変わらず記憶力がいい。私にこっちの言葉を教えている間に、さっさと日本語を覚えてしまった頭脳は健在ですか。大変羨ましい。
って、そうじゃない。大事なのはそこじゃない。
皆は驚いて言葉もない。そりゃそうだ。こんだけ怖い顔のルーナが突如控室に現れたら、そりゃ怖い。私だって怖い。でも、これは縁の下の力持ちとして、そしてルーナの恋人(未確認)として、私の役目だ。
「ルーナ!」
「何だ?」
「何だであるぞりょ! ここなるはリリィと皆の家屋! お楽しみ中邪魔するぜなる行為は慎まれるべきだりょ!」
皆の驚きようを見るに、ルーナの訪問は知らされてないし、そもそもここは来客が入っていい場所じゃない。自警団の誰もついてきてないどころか、正に今、向こうから大わらわで走ってきてる最中だ。まさかとは思うけど、勝手に入ってきたわけじゃあるまいな!?
ルーナは記憶よりかなり伸びた身長で、じとりと私を見下ろす。
目つきわるっ!
「カズキ、大丈夫。中に入る許可はあるの。ただ、私達を置いて突っ切っていっちゃっただけで」
大柄な自警団の隙間からひょこりとおさげが現れ、てこてこ歩いてくる。ルーナの横を通り過ぎたリリィは、私の前でこてんと首を傾けた。
「カズキ?」
「うにょ?」
「ここ、私と皆と、貴女の家よ?」
小さな手が「言い間違えちゃ駄目だよ?」と肩をポンポンする。惚れてる身からすると、思わず両手で顔を覆って悶えるくらい幸せだ。
本当になんてありがたい存在なんだろう。
リリィのすぐ後ろにいたネイさんは、一つ頷くとくるりと向きを変える。
「ここは花の裏舞台。俺達男は立ち入り禁止です。話し合いの場は向こうに用意しますから、ここは退いてください。タダじゃあ、彼女達の裸は見せれませんよって言いたいんですが…………寧ろ少しは見てあげてくださいって言いたくなりましたよ」
私からすると、寧ろそっち見てです、ネイさん。
ルーナの瞳は、さっきからじとりと私を見据えて動かない。怖い。蛇に睨まれたネズミはこんな気分なんだろうか。いやいや、私とルーナは恋人同士(未確認)。恋人同士は対等の筈。ならば蛇に睨まれたマングースの気分といったところか。……あんまり可愛い図式じゃないな。ならば、赤柴に睨まれた黒柴の気分でいこう。私、日本人だし。
柴犬同士の睨み合い…………喧嘩だな!
「カズキ。カズキ? 何で戦おうとしてるの?」
思わず両手を前に構え、足を一歩引いて体勢を整えた私に、リリィが不思議そうに首を傾けた。これで、向こうでは武道に通じていたとか、家が武闘派だったとかなら分かるが、私にそんな特殊技能はない。
もっとこう、こういう話にありがちな特殊技能を持っておきたかったと十年前もひしひし感じた。頭いいとか、武闘派とか、人の心が読めるとか、美人とか。
しかし現実では、私の頭は残念な語学力だし、韋駄天走りは得意でも逆上がりは出来ない。顔も『黒曜』選抜条件に美人が入っていることに驚愕する顔だ。
今の私は、残念な語学力で自分の行いを説明しなければならない。
「………………行程ぞり?」
「……………………」
頑張って単語を選んでみたけど、やっぱり残念だったようだ。
沈黙したリリィの目がルーナに向く。
「…………成り行きか?」
「ぞり!」
「成り行きで臨戦態勢取られた俺は、全然納得できないんだが」
「ぞろり……」
またじとりと睨まれる。非常に目つき悪いですね。
でも、今のは私が悪い。思わず戦闘態勢を取るとかどんな再会の仕方だ。しかも私は武人ではない。武人だったらいいのかと問われると、そっちもアウトだろうけど。
何だか妙な沈黙が落ちて居心地が悪い。反射的に韋駄天走りで逃げだしたくなる雰囲気だけど、ルーナと会おう、ルーナに会いたいと思ったばかりだったと思い止まる。
まじまじと顔を見てみるが、やっぱりこわっ……! 目つきわるっ……!
記憶にあるまだまだ幼さ満載の中性的な顔と、目の前の目の据わった青年とが重ならない。でも、目元は変わらない。目つき悪いし、眉間に山脈の如き皺があるし、にこにこ笑ってた口元はむっつりしてるけど、ルーナだ。それは分かる。顔怖いけど。
ルーナだ。ルーナがいる。目つき悪いけど。
あれだけ会いたいと泣いたルーナが、ここにいる。目の前に、手を伸ばせば触れられる距離にルーナがいる。
「ル」
「やあやあやあ! 世界を艶やかに彩る宝玉達! 今日もご機嫌麗しゅう!」
意を決した私の声は、自警団の皆を掻き分けて押し入ってきた酒樽みたいなおじさんに遮られた。しょんぼりだ。
四、五十代くらいの人だろうか。胸もお腹も区別がつかないくらいふっくらと膨らんでいる。酒樽おじさんが現れた途端、女の子達の悲鳴が上がり、ネイさんが前に躍り出た。
「ギャプラー殿! 部屋でお待ちくださいと言いましたよ!?」
「まあまあ、そう固いこというな。目の保養だよ。減るものじゃあるまいし、な?」
「減ります。貴方に見られると色々減ります」
両手を広げておじさんの視界を邪魔するネイさんの後ろで、女の子達がきぃきぃ怒る。それも気にせず、おじさんはにこにこ笑って手を振っていた。
「おお、おお、今日も元気だ胸が揺れる」
あ、最低だ。
「この狸おやじぃいいいいいいいいいいい!」
「ちょっと! あたし狸好きなんだから狸に謝ってよ! 一緒にしないでよ!」
「狸ごめん! 確かに狸ってよく見ると可愛いよね! じゃあ、猪?」
「ちょっと! 猪って食べられるんだよ!? あんな食えない親父と一緒にしないで!」
「猪ごめん! えー、じゃあ、何?」
ちょっとだけ沈黙が落ちる。
「おっさんでしょ」
「おっさんよね」
「おっさんね」
どうやら結論が出たようだ。酒樽おじさんは、酒樽おっさんになった。
「おお、おっさんだとも。おっさんという生き物は総じて女性が好きでねぇ。どれ、ちょいと触らせてくれないか」
「きゃああああああああああ!」
「こっちこないでぇえええええええええ!」
いきなり阿鼻叫喚になった。
酒樽おっさんが両手を伸ばして女の子のほうに向かうと、女の子達は櫛だの靴だの何でもかんでも投げてそれを阻止した。
「ギャプラー殿! この娘達はうちの宝です! いくらギャプラー殿でも、ガルディグアルディアの宝に手を出したたらただじゃおきませんからね!?」
「おお、おお、イグネイシャルス。お前は相も変わらずお硬いのぉ。男が女に惹かれるのは世の摂理だろう?」
「綺麗に纏めようとしても駄目です」
ぴしゃりと言い放ったネイさんに嘆息した酒樽おっさんは、ちらりと私を見た。いたずらっ子みたいな顔してる。
この人誰だろうと思っていると、すぐに酒樽おっさんは見えなくなった。ルーナが半歩ずれたからだ。顔はこっち向いてるのに、絶妙に私の視界を遮っている。ルーナ、背中に目があるのかな。
「店に出てる娘じゃなければ構わんか?」
「カズキもうちの娘です! っていうかあんた、自分が案内してきた騎士の女にちょっかい出す気ですか! 阿呆か!」
「何だ何だ。つまらんなぁ……どれ」
ふっと酒樽おっさんがぶれたと思ったら、いつの間にかネイさんを通り越して女の子達の中に突入していた。
なんという身のこなし。あのおっさん、動ける樽か!
「やあ、カルーラ。今日も赤い下着がよく映える」
「ちょ、捲るんじゃないよこの糞爺!」
「やあ、イリーナ。今日も君はいい香りだねぇ」
「嗅ぐな触るな近寄るな――!」
「おや、ヨスナ。その下着は初めてじゃないかい?」
「何で分かるのこの酒樽親父!」
次から次へと女の子にちょっかい出しては殴られている酒樽おっさんは、ネイさんと自警団の手は華麗に避けている。華麗といっても、酒樽体型だからぼよんぼよんと跳ねているみたいに見える。早いけど。
「うちの娘達にちょっかい出すなって言ってるでしょうが! 自分の奥方に絡め! この酒樽!」
「ほっほっほっ! 酒好きにはこれ以上ない褒め言葉だの!」
「くそっ! お前ら周り込め! 絶対確保しろ! そして吊るし上げろ!」
すっかり丁寧さを失ったネイさんの言葉に、野太い声で「応!」と答えた自警団の皆は、部屋の中に雪崩れ込む。
化粧道具にドレスが宙を舞い、風に吹かれた誰かの紐パンツがひらひらと私の前まで落ちてきた。
ちょいちょいと裾を引かれて、リリィに視線を戻す。正直、蛇に睨まれた蛙ではないが、ルーナに睨まれたカズキは、こてりと首を傾けるリリィを見て癒されました。
「ごめんね? ガルディグアルディアと同じく、帝都裏三家のジャウルフガドールが連れてきたから大丈夫と思ってたんだけど、カズキは会いたくなかった? 一旦帰ってもらおうか?」
女の子達と、まだ手を振っているおじさんとの間に起こったことは、どうやらいつものことらしくリリィは気にしない方向でいくようだ。でも、私は凄く気になるんですが。
私が向こうを気にしていることに気付いたリリィは、ちょっとだけ首を傾ける。
「悪い人じゃないんだよ? ちょっと最低だから、いい人には見えないけど」
ちょっとでも最低だったらまずいんじゃなかろうか。
「カズキ」
あまり耳慣れない低い声に呼ばれる。
はい、分かってます。あっちを見てるのも、あっちを気にしてるのも現実逃避です。あ、リリィを見てリリィを気にしてるのは、愛です。
「カズキ? どうする? 帰ってもらう?」
「……大事ない、大事ないぞり。私なるは成人の女! 現在逃亡するは成人女の恥辱!」
自分を奮い立たせるためにガッツポーズをした私に、「え?」「へ?」「は?」と声が連なる。こっちが「え?」で「へ?」で「は?」なんですが。
「そういえば聞いてなかったね。カズキって何歳なの?」
「私なるぞろ? 私なる成人女は、現在進行状況十九ぞりょ」
妙な沈黙が落ちる。この世界、といっても私はこの二国しか知らないけれど、十六で成人とされていたはずだ。だから私は大人の女! のはずだ。何か間違っただろうか。
この部屋が静かになったことなんて今日までなかったのに、今日だけで何回も経験してしまった。何でそんなにまじまじ見るんですかね。
「カズキ、カズキ」
そんな中でも、いつも通り淡々としたリリィの声が可愛い。反射的に視線を戻す。
「私、十三歳。カズキがずっとお姉さんだね」
「私なるぞり、見る目如何ほどとお考えであるぞろり?」
「私より二、三歳お姉さんかなって思ってた。ごめんね?」
こっちの世界で結構若く見られることは知っていた。向こうでだって外国に行けば日本人は若く見られるから別にショックはないし、十年前に小学生くらいに見られたことを思えば満足だってしている。
だから、リリィがそんなに申し訳なさそうな顔する必要ないのに。
「リリィ、私如きなるはこのくらい屁でもないぜであるじょろ。それ故に、リリィぞ心身痛めるぞろりが、私なるはかーっ、泣けてくるぜだぞろ」
「うん、ありがとう。でも、後でいろいろ訂正しようね?」
こくりと頷いたリリィが可愛くてほっこりしていたら、身体がかくんと引かれた。ルーナが私の手首を掴んで歩き出したのだ。私よりちょっと大きいだけだった手が、いつの間にか片手で私の顔面掴めそうな手になっている。
十年って、凄いなぁ。人の成長って何だか感慨深い。
こんな呑気な思考ができるのは、顔が見えないからだろう。こっそりと背中に視線を向ける。広い背中だ。前が見えない。昔は細くてすらりとして、その腰の細さに自分の腹を摘まんでみたものだが…………今でもくびれはありますね。羨ましいです。
「ガルディグアルディア、先程の部屋を借りる」
「いいけど、カズキ? 誰かつける? 私いようか?」
てこてこ歩いてくるリリィのありがたい申し出に、私は腹をくくった。どうせどこかで話さなければならないだろうし、それがちょっと早まっただけだ。心の準備ができてなかっただけで、これは避けては通れない道で、避けるつもりもない道だ。
「大事ないぞろ、リリィ! 逃亡したらば匿って頂ければ嬉しいぜ!」
「逃げるつもりはあるんだね。分かった」
こくりと頷いてくれたリリィに和みながら、私は引きずられるように奥の部屋に入った。
ぱたんと木の扉が閉まった途端、外の喧騒が一切聞こえなくなる。なんという防音性。
初めて入る部屋だけど、中にあるのが応接セットのみの所を見ると、何か話し合いに使っているのかもしれない。
テーブルの上には茶器が揃えられている。さっきまでこの部屋でリリィ達は話していたのだろう。
しんっと静まり返った状態で、ルーナはゆっくり振り返った。
「俺に、何か言うことは?」
「[え、えーと]…………ま、まあ立派になっちゃって! おばさんびっくりしちゃった! 前見た時はこーんなに小さかったのに! 学校で前から何番目!?」
「何で久しぶりに会った親戚のおばさんの台詞を選択した!?」
なんと、これは久しぶりに会った親戚のおばさんの台詞だったのか。
昔、街でおばさんと青年が話してたのを聞いて覚えたのに、間違っていたようだ。てっきり久しぶりに会った人への挨拶だと思ってたけど、そんなに限定的な挨拶だったとは。
ふと気づけば、いつの間にかルーナは扉側に移動していた。私が逃げないようにですね、分かります。
思い返せば、確かに結構逃げた記憶がある。ルーナが怒る気配を感じるや否や、猛ダッシュした。韋駄天走りはそうやって鍛えられたものだ。
ふーと静かで長い息を吐いたルーナは、まっすぐに私を見た。
「カズキ、いつこっちに?」
[十日前、です……]
「とおか……[ようか]が八……[ここのか]が九だから、十日前か」
[よく覚えてるね]
彼にとったら十年も前の話だ。
素直に驚けば、ただでさえ悪い目つきがすぅっと細まる。
「何で、忘れると思ったんだ」
怒ってると思った。けれど、すぐに違うと思い直す。
「それともお前は、俺のことを忘れて過ごしたのか」
傷ついてるんだ。
「いきなりお前が消えて、俺はずっとお前を探した。けど、お前はいなかった。どれだけ探しても、何年探しても、どこにもいなかった」
ぎゅっとこめられた眉間の皺は、怖いけど怒りじゃない。目つきは相変わらずぎろりと怖いけど、そこに傷ついたルーナがいるなら話は別だ。私はルーナを悲しませたくなんてない。
「今日、どうして逃げた」
よく見れば、あちこちに面影がある。よく見ないとないけど。
不安そうに揺れる水色、きゅっと食い縛られる唇。
「あっちで好きな男ができたのか? ……それとも、こっちで? あの男は誰だ。お前と逃げたあの男が好きなのか? 俺より? 俺はもう、お前の過去なのか?」
濃紺の髪が窓から入る月明かりに照らされて、綺麗だ。完全に闇に溶ける私の色と違い、闇の中でも消えないこの色が、大好きだった。
ブルドゥスに捕えられた時も、救い出されたのは夜だった。宵闇の中を疾走する馬の上で、この髪をじっと見ていたのを覚えている。
「…………カズキ?」
ああ、やっぱり好きだな。好きだよ、ルーナ。
なんか獲物を狙ってる猛禽類みたいな目つきも、まあ、慣れればきっと愛嬌になる。それだけで人を倒せそうな気迫も、慣れれば私も放てるようになるかもしれない。この世の不機嫌を背負ってるようなむっつりとした口元も、笑ってくれたら変わるから。
「おい、カズキ…………お前、また人の話聞いてないな!?」
私、ルーナに何も話してない。ちゃんと話をしなきゃと思っていたのに、何も話してないし、何も確かめてない。ルーナは、まだ、私と恋人でいてくれるのだろうか。どっちかの王女様と婚約って本当だろうか。男色っていわれたらちょっと立ち直れないからこれは後に置いておいて…………。
違うな。ルーナにいろいろ問い詰めるより、私が言わなきゃいけないんだ。
「おい、カズキ!?」
私が今どう思ってるか。逃げた理由も話さなきゃだろうけど、まずは、今の私の気持ちをルーナに知っていてもらわないと。人の心を問い詰めたいなら、私の心を曝け出してからだ。
「ルーナ!」
「何だ!?」
幾つになっても、それが何度目でも、告白って勇気がいる。
私はぎゅっと拳を握りしめて、ルーナをまっすぐに見た。
「私、ルーナ好き! 大好物!」
ここ最近で一番の勇気を振り絞った告白で、私の顔は真っ赤だろう。ルーナの目が昔と同じくらい夜目が利いたらアウトだな。……そういえば、これリリィに言ったら惜しいと言われた気がする。けど、凄く惜しいということは概ね合っているということだから大丈夫だろう。
それに、相手に好意を伝えるなら、やっぱり現地の言葉がいいと私は思う。
心臓がバクバクいうし、膝まで震えてきた。
ルーナ、ルーナ。私はルーナ好きだよ。まだ好きだよっていうか、好きじゃなくなるとかありえないよ、大好きだよ。そりゃ、顔こわっ、目つきわるっ、って思うけど。人は顔じゃないよ、ルーナ。だから私も顔じゃないと思ってもらえれば嬉しいです。
どきどきしてルーナの答えを待ったけど、部屋はしんっと静まり返っている。
渾身の告白をスルーされたら流石に泣けるんですけど。
もしかして、私がまだルーナを好きなのは迷惑なんだろうか。でも優しい人だからそれを言えずに悩んでいる…………にしては、何だかぽかんと呆けた顔をしている。
こうしてみると昔と変わらなく見えるから不思議だ。
[ルーナ? そ、その……どう?]
待ちきれずに返事を促してみると、ルーナの顔が夜目でも分かるくらい真っ赤になっていく。
自分でも自覚があるのか、ルーナの大きな手は自分の口元を覆った。
「よ、喜んで」
[え? 何が?]
びっくりしている私に、ルーナは途端にむっとした顔になる。
「何がって……まさか、またお預け食らわす気じゃないだろうな。お前、あれ本気で酷いからな!?」
[私、ルーナのおやつ取ったりしてないよ!?]
「なんでおやつ!」
[何が!?]
「お前が何なんだ!?」
言葉が擦れ違っている気がする。会話が噛み合わない。
未だに言葉が怪しい私と違って、ルーナは物凄く早く日本語を覚えたけど、やっぱり齟齬がある。今回もきっとその齟齬が会話を混乱させているんだ。
今すぐ言語力を急成長させることは出来ない。なら、私にできる事は一つ。恥をかき捨て、行動で示すのみ!
「ルーナ好き! 大好物――!」
叫びながら、ルーナに思いっきり抱きついた。ちょっと意気込みすぎて体当たりになり、胸筋で思いっきり顔面打ったけど、ルーナはちょっと揺れただけで倒れない。凄い。昔は滑って転んだ私を助けようとして、一緒に潰れていたのに。
「ルーナ好き! 私、長期的にルーナ好んでる! ルーナ大好物、真実に大好物!」
好きだよ、ルーナ。私、ずっとルーナが好きだよ。
そりゃ、ルーナが過ごした時間に比べたら十分の一にも達してないけど、でも本当にルーナが好きなままなんだよ。
言葉が不十分なら行動で示そうと、ぎゅうぎゅう抱きついていたら、そろりと上がってきたルーナの手が腰に回りそのまま抱きしめられた。
「カズキっ…………」
記憶にある腕は細くて、腕を回した背中は骨が浮き出ていた。何か衝撃があれば折れてしまうんじゃないかと本気で心配したくらいだ。何かが当たっても衝撃は骨まで直接来るんだろうなと思うと、大事に大事に、おっかなびっくり触れてしまった。そして、「女の子扱いするな」とよく怒られたものだ。実際は女の子扱いではなく子ども扱いだったのだけど、黙っておこう。
いま私を抱きしめる身体は、私を全部包んでもお釣りがくる。手を回した背も、ぱんっと張った男性特有の広さと硬さ、そして熱さ。ちょっと冷え性だったのに、筋肉が燃えているのだろうか。私を抱きしめる腕もしっかりとした、硬くてちょっと痛いし苦しいくらいの力だ。どこか不安になる華奢さも、細さもない。
この人は本当にルーナなのだろうかと、記憶が目の前の彼を否定する。けれど、懐かしい匂いがする。これはルーナの匂いだ。睡眠的な意味で一緒に眠った夜は、この匂いにどきどきして、そして安心した。
ルーナが私を抱き返してくれてる。まだ、私を恋人と思ってくれてると考えていいのだろうか。夢みたいに嬉しい。身体がふわふわする。
「ルーナ……私、真実ルーナ大好物…………」
「絶対違うと分かってるのに、ほいほい釣られる自分が憎い!」
「ルーナ、未だ私なるを好物?」
幸福な気持ちで硬い胸板に頬を寄せていたが、顔を上げると苦渋に満ちた顔があった。目つきの悪さと眉間の皺と食い縛った口が…………怖っ。
[……私、迷惑だった?]
「……分かってる、分かってるさ。お前のことだから、その気は欠片もないって……」
[ルーナ……その、大好き、です、よ?]
乾いた笑い声をあげるルーナに、とりあえず自己申告しておく。これで私の気持ちは伝えた。ただでさえ不確定要素が多いのに、伝えなかったことで擦れ違うなんてごめんだから。
ルーナに好きといえなかったが故に喧嘩して、その直後に戦闘に出たルーナを見送るなんて二度とごめんだ。
「ルーナが、大好物」
目をまっすぐに見て伝えると、一瞬水色が揺れる。そして、こっちが驚くほど爽やかににこりと笑った。
「俺もカズキが大好物」
「ん?」
「そんなに、俺のこと好物?」
「んにょ?」
あれ? なんだかヒアリングが上手くいってない気がする。でも、ルーナがこっちの言葉間違ってるわけないだろうし。
好物……あれ? 私、もしかして間違えた?
むっつりした口元は驚くほどにこやかに笑っているのに怖いのは、目が笑ってないからだろうか。でも、瞳は綺麗に澄んだ水色だ。まるで、森の中の湖みたい。
「ルーナ?」
記憶にあるより硬い皮膚を纏った指が、私の顎を掬い取る。
「だったら、どうぞ好きなだけ召し上がれ――――……」
あれよあれよという間に、怖いけど端正な顔が近づいてきた。
そのまま私達は、十年ぶり(十か月ぶり)に、キスをし
なかった。
弾かれたように私の頭を抱え込んだルーナが身を翻したと同時に窓が割れ、さっきまで私達がいた場所に何かが突き刺さった。
それが飛んできた音と刺さり方で分かる。戦場ではそれこそ雨のように降っていた。
これは、矢だ。私達は矢を射られたんだ。
「貴様っ……!」
ルーナの澄んだ水色が、一気に怒りに燃える。
「何で後一分待てない!」
[え!? 一分もちゅーしないよ!?]
「俺はこれでも妥協してる! 寧ろ一分のキスのみで済ますことを褒めろ!」
[褒める要素は一体どこに!?]
私より夜目が利くルーナは、既に日が落ち切った空を睨み付けていた。おそらくそこに刺客がいたのだろう。騎士らしからぬ舌打ちが聞こえたけど、恋人の誼で上の人には内緒にしてあげるよ。
ひくりと私の鼻が何かを嗅ぎつけた。
私は、夜目は利かないけど鼻は利く。こと、食べ物に関しては絶対の信頼を誇る。
その鼻に、久しく嗅いでいなかった臭いが届く。
[ルーナ…………]
「え?」
[燃えてる!]
私が叫ぶと同時に、世界が一変した。
窓の外を、まるで昼と見紛うばかりの明るさが走っていく。割れた窓の外を赤い炎が撫で上げ、割れたガラスの隙間から、怒声と悲鳴が部屋に雪崩れ込んできた。




