1.神様、ちょっとそこにお直りあそばせ
もしもこの世に神様がいるのなら、私こと須山一樹はその存在に問い質したい。
ああ、神様。どうしてあなたは私にこのような試練をお与えになるのでしょうか?
と、涙を浮かべて懇願するのではない。
不敬にも神様の胸倉を掴んで前後に激しく揺さぶりながら。
「あんた私になんか恨みでもあるの!?」
で、ある。
息子が欲しくて堪らなかった父。結果的に四姉妹の父親になってしまった際、せめて名前だけでも! とはっちゃけた結果、白羽の矢が立った末っ子の私に一樹という男っぽい名前をつけたのは、今ではもういい。
子どもの時分は散々からかわれていじめられたけど、今流行のキラキラネームじゃないだけよかったと思うから。
大学生の時分に、漫画やアニメや小説や映画や妄想の中だけのことだと思っていた、異世界に飛ばされるという体験をしたのも、まあいい。
たくさんの人に出会えて、尚且つその出会いは自分にとって掛け替えのないものだったから。
その国が戦争中だったのも致し方ない。
こっちの世界でだって戦争は無くなっていないから。
ちょうど落ちたのが国境を守る駐屯地だったのも、まあ許せる。
男臭くむさ苦しく男やもめじゃなくても蛆が湧いたりしてたけど、おかげで掃除やらなんやらで存在意義ができたから。
その世界で私は恋をした。
一生に一度の恋だ。
そもそも、出会い頭に剣を突きつけて縛り上げてきた男に恋をすることなんて、一生に一度で充分である。
相手はまだ十五の少年だった。けれど戦乱の国で騎士となった彼は、平穏な日本で育った当時十八だった(現在十九)私より余程大人だった。否、大人にならなければいけなかったのだ。
濃紺の髪に、アクアマリンのように澄んだ水色の瞳のコントラストが綺麗だった。色も、顔も、声も綺麗だと思った。何よりその存在が美しくて、眩しくて、悲しくて。
守りたいと思った。彼にこれ以上傷ついてほしくなくて、世界が彼につらく当たるのも許せなくて、悲しくて愛おしくて堪らなくて。私にできる事なら何でもしたくて、彼を守るためなら何でもできると思ったし、実際できた。
色々あった。その全てを彼と駆け抜けた。
そうして私達は恋をした。互いの存在を求め合い、焦がれ、遂には手を伸ばしたのだ。
あれはようやく戦争が終わった夜のこと。長く続いた戦争は、民の悲痛な願いと上の方々の思惑や利益を織り交ぜて、停戦という形で幕を閉じた。
恋人となっていた私達は、その夜初めて結ばれた。
訳ではない。
「なんでっ、なんでなんでなんで! よりにもよってお互いお風呂入ってベッド入ってこれからイチャコラしましょうねっていう時に日本に戻した!?」
目の前に神様がいれば、凄まじい形相で食って掛かっただろう。
「十八歳の女が十五歳の少年に手を出したら駄目ってことだったの!? 未成年なんちゃら罪とか条例とかそれ系だったの!? ショタコンアウトとかそんな理由!? 三歳差もアウトだった!? え!? うそ!? 駄目!?」
年上の女の余裕とか全然なくて、初めての私はただただ彼にドキドキして。彼も年相応な顔で照れくさそうに笑って。私達は溶けあうようなキスをし、ようとしていたのに!
息苦しいほど濃密な空気が一気に霧散して、呆然と自分の部屋を見つめた私の気持ちが分かる!? ねえ、分かる神様!
あれだけ帰りたかった自分の部屋に、あれほどがっかりした私の気持ちが分かる!?
あちらの世界で過ごした一年が、日本ではわずか一か月しか経っていなかった衝撃もどうでもよく、久方ぶりに使用する電化製品に整備された上下水道に感動するでもなく、私はひたすら泣いた。
いや、別に彼と最後まで出来なかったからではない。いや、それもないといったら嘘になるけれど。
私はあの世界に弾かれたのだと気づいた喪失感に泣き喚いた。何よりここには彼がいない。彼と共にいられるのなら、生まれ育ったこの地に二度と帰れなくてもいいと本気で思った彼がいないのだ。
泣いて泣いて泣いて。起きても眠っても泣いて。
私の世界は終わったと絶望しながらまた泣いて。
それでも世界は巡るのだ。
ちょうど夏季休暇だった一か月間は私の不在を誰にも知らせず、私もまた誰にも語らなかった。誰も信じてくれないと思ったのと、もう二度とあの世界に行くことはないだろうと悟った瞬間から、私だけで抱えていたかったのだ。重くてもつらくても押し潰されそうでも、誰にも分けてあげない。
一生私が抱えていく。
楽しくて悲しくて。
優しくて寂しくて。
美しく醜悪で。
愛おしい記憶を、私はまだ思い出に出来ないでいる。
ざわざわと人ごみが流れていく。
うん、別段物珍しくもない喧噪ですね。なのに私の足は縫いつけられたように動かない。だって車がいない。道路だってアスファルトじゃなくて、石畳やタイル貼り。行き交う人々の服はで何と言うか日本育ちとしては既製品にはとてもじゃないが見えない感じで、あ、馬が荷を引いていますね。
ひくりと口端が引き攣る。
たくさんの籠いっぱいに積まれた果物を売る恰幅のいい女性、締めて血抜きをした鳥を吊るしている男、麻袋に入った荷物を馬車に積み込む若人。
頭の中をぐるぐる回る彼らの会話を理解するのに、私の脳は一拍の閑話を有した。
何を言っているのかは分かる。教えてもらったもの。
何を書いてるのかも分かる。覚えたもの。
それでも一拍はいる。だって必死に翻訳してるんだもの。
背の高い建物が少ない空は広い。視界を遮るものがないからだ。どこまでだって見渡せる景色の向こうに、唯一ともいえる巨大な建物が鎮座している。現代日本では夢の国くらいでしか見られない西洋風の城だ。
ああ、分かった。否、分かっていた。
ここは日本じゃない。大学に行こうとテキストを詰め込んだ鞄を肩に担いで玄関を開けたら、そこは異世界でした。
トンネルを抜けたら……そこは…………。
行き止まりでした!! のほうがまだよかった気がする。
あれほど戻りたかったこの世界。懐かしい匂いと雰囲気。生まれ育った日本では遠い昔に置いてきてしまったこの空気。ああ、懐かしい。ああ、また来てしまった。ああ、帰ってきた。私は戻ってきた、戻ってこれたのだ。
ひくり、ひくりと口端が引き攣る。
道路が裏路地に至るまで整備されていて、城が見えるのならここは十中八九城下街。大街道に軒を連ねる少々高級感溢れる店達は、こぞって国旗を店先に掲げている。
私と彼が愛した『グラース国』の国旗は、深く明るい青地を囲うヒメサユリ、その中心に国鳥大鷹の姿。
現在私の視界の中で意気揚々とはためいているのは、深く明るい『赤』地を囲うミスミソウ、その中心に国鳥大鷲の姿。
この国旗を掲げるのは、嘗て我らが愛したグラース国と長らく敵対関係にあった宿命の隣国。
『ブルドゥス国』だ。
神様、ちょっとそこに直れ。