進んだ先は
(2)
ホームルームを終え、部室へ向かおうとしていた俺の行く手を誰かが唐突に遮った。
トラブルに悪い意味で慣れているので一瞬面倒事を覚悟したが、視界に入った黄金色で状況を理解する。
「よう、エレナ」
「たぬきち、部室行こっ」
「タヌキじゃねえよレッサーパンダだ」
稲森エレナ、狐の種族で小柄だが立派な同学年だ。それを補うように目の前で両手を挙げているが、そうすると胸がないのがよくわかる。
「……なんかいやらしい視線を感じたんだけど」
「てか、先に部室行ってて良かったのに。お前の組は一足先に終わってたみたいだし」
エレナの発言を無視して話を戻す。
ソアリの鋭さが広まっては俺の肩身が狭くなるばかりだ。
「ソアリがね、部室行って誰もいなかったら教室まで呼びに戻りなさいって。部室に1人でいると乱暴されても誰も気づかない可能性があるからだって」
「……そうか」
それは人族を極限まで信頼しない忠告だったが、頭ごなしに否定はできない。それがもし見た目1つ下のエレナだったら、ソアリや俺よりエスカレートしてもおかしくない。あくまで可能性があるだけだが。
その話はそこで終わりにして、2人で部室へ向かう。
部室にはやはり誰もいなかった。
いつの間にか決まっていた部室の「指定席」にエレナ共々腰を下ろす。
「ねえねえネイト、勉強教えて」
「んあ、学年末考査か? ちょっと気が早い気がするが」
「年末は家のことで忙しいから」
大陸からやってきた所詮分家の俺の家と、土着の種族の家ではやらなきゃいけないことの量が違うのは聞いている。狐は信仰の対象でもあったんだったか。
「分かった。教科は?」
「保健体育」
「ボケるな」
「文系全部」
そういえば、エレナは理系に著しく偏ってるってソアリが言ってたな。
「……偏見かもしれないが、なんで稲森の子が国語できないんだ?」
「う~る~さ~い! だから勉強するんでしょ」
どうやら気にしていたらしい。これ以上追及しても仕方ないので手始めに最近やった現代文の課題を見せてもらう。とはいえ同学年で課題も同じなので、解答を確認していくだけだ。
「エレナ、ちょっと古文の小テストか何か見せてくれるか?」
「う、うん」
現代文の課題を見て嫌な予感がしたので、色々と見せてもらう。
「あと、英語はどんな感じだ?」
「すごい苦手……」
諸々の解答から導き出される結論はこうだ
「お前、語彙少なすぎるだろ。古文も英語も単語すら覚えられてない。違うか?」
ちょっと言い方が強すぎたか。エレナは何も言えないでいる。
「学校に国語辞典持ってきてるか? 古語と英和はあるだろうが」
「ううん、ない」
「明日部室に持ってきてやるから、まずはそこからだな」
1年のうちに気づいてよかったと言いたいところだが、道は遠い。
確かに稲森の名家なら受験も何もないのだが、これは後々苦労するレベルだ。
「それでね、勉強教える以外にも、やってほしいことがあるんだけどね……」
「なんだ?」
「声が出るし、動くからここじゃないほうがいいかも……」
「誰も来なくてそこそこのスペースがあるところってことか? なら、部室でいいんじゃ……」
「そうだよね、誰かくるかもしれないって緊張の中でやるのもいいかもだし」
会話が不穏な方向に行っている気がする。
長い黄金色の髪から覗く顔は紅潮していて、呼吸が乱れている。
エレナ、まさか発情期じゃないよな?
異種交配は禁忌で、破れば勘当なんてもんじゃ済まない。それでも駆け落ちは年に数組出るらしいが、ロクな末路を辿らないだろう。
けれどエレナなら……
「舞をね、見て欲しいの。お父さんの即位式でやることになったから」
……そういうことか。
「なんでいまガッカリしてたの?」
「いや、なんでもない」
そうか、年末忙しいというのはエレナの父親の当主即位式か。大方、一族の前で新年の挨拶を兼ねてなのだろうが、即位式なんて形式上のもので宴会してるだけの赤隈の家とはわけが違う。稲森の家のそれは厳粛なものなのだろう。
「んしょ」
エレナは、ブレザーだけでなくその下に着ていたカーディガンも脱いで、広いスペースのある黒板の前に立つ。
動きを止めると、黄金の髪と尻尾が凪を待つかのように垂れ下がる。
そして深呼吸。
たちかえる
としのはじめは
なにとなく
しつがこころも
あらたまりぬ
舞は、指先から尻尾の先まで何かが流れていくような、柔らかくも力強いものだった。
取り憑かれたかのように古歌を天まで届きそうなほど長く詠いながら舞う姿は、いつも見ている彼女とは別人に思えた。
……3秒ほどの沈黙。
どうだった? と言わんばかりに、エレナが少し不安げに視線を向けてくる。
「それで、どう?」
「圧倒された」
素直な感想が出た。
もちろん舞がどうだったかなんて、細かいところは見れない。だが、あとは一族の前という大舞台で、これができるかだけが問題じゃないだろうか。
「2人きりで何してるのかと思ったら」
「リリノ、ソアリ……」
「のぞき見させていただきました。すごいですね、エレナさん」
部室に2人が入ってくる。途中で戸を開けて入るような無神経よりかはのぞき見の方がはるかにマシだ。
「~~っ、ネイトっ」
「な、なんだ?」
いきなり後ろから抱きついて俺の後ろに隠れるエレナ。
「緊張した。褒めて」
その前後関係のなさはなんだ。
「偉いぞ、エレナ」
今まで触れたことのない、エレナの髪、耳の後ろあたりを撫でる。
「ひゃう……」
「セクハラ」
「セクハラですね」
「いや、これはだな……。エレナ、即位式でちゃんと舞えそうか?」
「話題を逸らすのはネイトの悪いクセね」
「今度は3人の前でやる。人が多いほうがいい」
それから、エレナの教室の前で帰りのホームルームが終わるのを待ち、勉強をして舞を見る日々が続いた。
勉強といっても、分からない単語があったら辞書で引くの繰り返し。小学生レベルなんだが大丈夫なんだろうか。
舞の練習は思い切り声量の出せる実家に場所を移すらしく、冬休み直前には部室はほぼ元通りになっていた。
今日も教室から出てきたエレナと合流し、部室へと向かう。
「ネイト、最近いつも待ってくれてる」
「そりゃ、一応な」
万が一何かあったとき、守ってやれるのは俺だけだ。
確かに、一ノ瀬先輩は頼りになるが、あの人にはこれ以上苦労をして欲しくない。
だったら――
「やるからには、な」
「?」
1年の土壇場で何をすべきか、それが分かったような気がして。俺は進む、前へ。
(3)
種族間戦争が終結したとき、俺は「ああ、終わったんだ」とは思わなかった。ただ、悔しかった。
赤隈の家は、大陸から逃れてきてこの国に定着した一家だった。だから、種族間戦争に積極的に関与することはなく、ずっと逃げ回っていた。
わずかな数の赤隈家が参戦したところで何も変わりはしなかった。それは分かっている。ただ、赤隈だけでなく成り代わり全体にもっと力があれば、今も未来も違うものになっていた。それは疑いようがないと思っている。
「……赤隈くんは勉強しないんですか?」
文庫本から意識を外すと、一ノ瀬先輩がこちらを見つめていた。
一ノ瀬リリノ先輩。黒髪からわずかに角が見え隠れしているだけで、ぱっと見は大人びた美人だ。あと胸が大きい。
「課題を除いて、授業外で勉強する気が起きないんで」
「こんなんでも成績いいのよね、ネイトは」
年が明けた部室。学年末考査に向けてソアリとエレナはずっと課題をやっていた。一ノ瀬先輩はたぶん教える側。
そりゃあ授業で理解できない部分は、自分なりの考えを教師のところに持って行って、それで解決できないことがないからな。あとはテスト前に軽く見直して思い出せば終わる。
「渡来種の家とはいえ、当主になるのがこれくらいの努力をできないでどうする」
「保守的ね」
「そうか?」
意見を求めるように一ノ瀬先輩を見ると、彼女は少し困った表情を見せた。
「赤隈くんは、成り代わりと人族をいつも対立させているように思います。だから、成り代わり一族のしきたりを大切にしているんですよね」
柔和な一ノ瀬先輩が、こんなにはっきりと物事を言うのは初めて聞くかもしれない。
「その通りだろうな」
「……どうしてですか?」
真っ直ぐな瞳で、先輩が訊いてくる。
ソアリもエレナも、手を止めてこちらを見ている。俺はそんなにおかしなことを言ったか?
「だって人族は俺たちのことを人間だと思っていない。その異質が怖いからこうやって人質として俺たちがこの学校にいるんだろ?」
一ノ瀬先輩は首を横に振る。
「もうそんなこと、気にしている人は少ないですよ。彼らは私たちに勝ったんですから」
「それは歯牙にもかけない存在だから、どうとでもなると思われているということか?」
「根底ではそうかもしれません。けれどそこまで考える必要がありますか? 私たちは今でも十分恵まれてますよ」
「パンダ、卑屈よ」
今のままでいい? 本当か? 異物を見るような目で蔑まれながら生きるのが?
俺には理解できない。
「……証明が必要だ」
「それじゃ、こうしましょう。明日から私は赤隈くんは私と付き合ってるように振る舞って下さい。それでトラブルがどのくらい起こるか試してみましょう」
「いや待て、その方法の意味が分からん」
「まずですね、2年生ともなるとみなさん大人ですから、私が成り代わりだからといってトラブルはほぼ起きません。ですが1年生の赤隈くん相手なら、トラブルを起こすかもしれません。あなたが言ったような意識が潜在的に持っている、という仮定ですけれど」
「一応聞きますが、ソアリやエレナじゃダメな理由は」
「同学年なら冷やかしで終わりでしょう」
まあそうなるか。
「けれどもし、その『実験』を始めたあとに一ノ瀬先輩だけを対象とするようなトラブルが起こったとして、先輩なら1人で解決してしまうかもしれない。それがソアリやエレナにも解決できるかは、証明できないでしょう」
「私ができるなら、ソアリさんやエレナさんにもきっとできますよ。私の出自に関係なく、ね?」
最後に考えていたことを見透かされたように釘を刺される。
一ノ瀬の家は赤隈と同じ渡来種系だったが、あまりにも目立ちすぎた。そのため種族間戦争中の迫害は苛烈を極めたと聞いている。それを乗り越えてきた彼女が強いのは分かっている。
考えがまとまらず、俺は沈黙するしかなかった。こんなめちゃくちゃな方法、いくらでも反論できそうなのに言葉が出てこない。
少しして、一ノ瀬先輩の言葉でその日はお開きとなった。
「ネイト、わたしは大丈夫だよ?」
ふさぎ込みながら席を立った俺に、エレナがおずおずと近づいてきて言った。
そのエレナの言葉を聞き流さなれば、もっと早く気づけたかもしれない。
けれど俺の頭の中は一ノ瀬先輩の言葉で一杯だった。
翌日から、ホームルームが終わると1つ上の階の、一ノ瀬先輩の教室に行くようになった。エレナはソアリと合流して部室に来るそうだ。
物珍しそうな視線を受けながら廊下で待っていると、教室から吐き出された生徒の中から先輩がこちらを見つけてぱたぱたと寄ってくる。
「お待たせ、ネイトくん♪」
「……っ」
先輩も本気で目立つ気だという意識が欠落していた俺は、面食らっていた。
というか抱きつくのかよバカップルかよ胸当たって苦しいだろ!
「一緒に部室行こ」
「あ、ああ」
ほぼ無理矢理手を繋がれる。
初日からやりすぎなんじゃないかと思いながら、部室へと向かった。
「鼻の下伸びてるわよ、パンダ」
ソアリと会って彼女の第一声がそれだった。たぶんその通りだ。
「明日はお弁当作ってきますので、一緒に食べましょうね」
もう徹底してるなあ……という感想くらいしか浮かばない。
「パンダ、勘違いはしちゃダメよ」
「分かってる」
ソアリは最初からあまりいい顔はしていなかった。勝手にすればいいといった感じだろうが。
「……エレナ、どうしたそんな呆けて」
「たぬきちと先輩の子供ってどんな感じになるのかなぁ……って」
「お前な……」
妙な勘違いをしたことがある俺が言えたことじゃないが。
「冗談だよっ。ホントは、ちょっとうらやましいなって……」
意外と乙女だな。
ここでそういうことを言うあたり、やはりエレナは掴みどころがない。
「まあでも、部室の中では今まで通りにしましょう。赤隈くんも疲れちゃいますよね」
一番大変なのは先輩だろうが、と言いかけてやめる。俺が言うことじゃない。
ただ、部室に行けばいつも通りなのはありがたかった。どうも俺は授業中妙に意識しすぎている気がする。
翌日の昼、宣言通りお弁当を作ってきた先輩と廊下で合流する。
「お願いですから食べるのは部室で……」
「まあそうですね。どちらかの教室で食べるのはちょっと不自然ですから」
部室の扉を開けると、足元に冷気が流れ込んでくる。そういえばここは日中暖房入らないんだったな。
「ちょっと、寒いですね……」
流石の先輩も苦笑いだ。
「やっぱり教室にします?」
「光里さんの電気毛布をお借りしましょうか」
「なるほど」
それなら先輩だけは寒い思いをしなくて済む。そこまでするかという気もするが、晒し者よりはマシだろう。
「どうされたんですか?」
しかし一ノ瀬先輩は電気毛布をセットすると、弁当箱を乗せた1つの机の前に椅子を2つ並べてきょとんとしている。いや、まさか。
「赤隈くんも、どうぞ」
「……失礼します」
俺が左利きじゃなかったらどうするつもりだったんだこの人は。
電気毛布は1人用なので、隣り合わせでぴったりとくっつく。
「こたつが恋しいですねえ」
「こたつならこんなひっつかないでしょう」
「それは致し方ないです」
で、弁当は普通に2人分を用意してくれたみたいなので、昼休みが終わらない程度には俺の分をゆっくりと頂く。
鱈の焼き魚といいオクラのベーコン巻きといい味付け上手いなあ。ともするとしょっぱくなりそうなもんだが。
「ここまでしなくてもいいのにってくらい美味しいですね」
「ありがとうございます。でも、一言余計ですよ」
「いやでも本当に作ってもらうなんて……」
「1人分を作ろうとすると、中途半端な量になって逆に手抜きしちゃいますから。2人分だとちょうどいいんです。久々に気合が入ってしまいました」
本人が喜んでるみたいだから、これでいいのか。
食べ終わって少し気分が良くなる段になると、距離の近さを意識せざるを得ない。全てが手の届く距離にあっても、片付けを終えた先輩の横顔を見つめることしか俺にはできない。
「もっとサービスするには時間がありませんよ、赤隈くん?」
「これ以上なんてありませんよ……」
本当は、このまま隣でまどろめたらそれこそ天国なんだろうが。
――それから春休み前まで、本来の目的を忘れそうなほど何も起きなかった。
「細かいことは分かりませんが、少なくとも赤隈くんが言っていたような意識はないと思いますよ?」
もうすぐ進級、というエレナたちの話から唐突に先輩はこう切り出した。
俺に言葉はなかった。証明できなかったのは俺の方だ。
「それにですね、赤隈くん。私たちはあなたが思っているほど弱くないんですよ?」
「そうよ、それよりあんたはもう少し自分のことを考えなさい」
「大丈夫だよ、ネイト!」
どこか寂しいような、それでいて打ちひしがれたような思いだった。
それに、自分のためだったら今だってそうだ。部室に集まるみんなを守りたいっていう思いは、己のためと言っていい。この時間を、空間を失うのは嫌だ。
なあ、でもだったら俺はずっとこのままなのか?
弱くて何もできない、レッサーパンダでしかないのか?
一気に道が見えなくなった。もうすぐ春が訪れるというのに、足元が凍りついてしまったように進むことも戻ることもできない。
時間は待ってはくれず、春休みはもうすぐそこだった。