ハルカ ―希望―
晩御飯はハルカ一人だった。少し前に伯母が『用事がある』と出かけてしまったからである。
食べ終わり、片づけを始めようとした矢先に、玄関のインターホンが鳴った。時刻は午後八時二八分。こんな時間に誰が訪ねて来たのだろうか。
片づけを止め、急いでリビングから廊下に出る。ドアノブに手をかけ、玄関のドアを開けると見知った顔があった。
「ミノリ……?」
ドアを開けたら、ミノリが耳の高さまで手を挙げていたのだ。
「よぉ、ハルカ。いま、時間あるか?」
「時間? あるけど――って、ミノリお前っ」
あることに気づいたハルカは、ミノリの腕を掴んだ。ミノリは反射的に躯を竦めて、目を見開く。
「っ! なんっ……だよ?」
「手、怪我してるじゃねえか」
ミノリの掌は少し擦り剥けていた。しかし彼は痛む素振りは見せていない。
「え? あぁ、これな。転けたんだよ。靴紐取れててさぁ、それに躓いて、こう、ばたーんと……。あ、靴紐はちゃんと結んだからな」
「アホ。っとに……」
暢気に笑うミノリに反して、ハルカは片手で髪を掻き上げ、呆れと安堵が混じったため息を吐いた。しょうがないな、と。
「ごめんなさい……ごめん……」
絞り出すような声が届く。見遣ると、俯いたミノリが服の端を掴んでいた。
「バカ。別に責めてねぇよ。お前がドジなのは昔からだろ。ほら、手当てするから入れって」
髪を掻き上げたその手を離し、ミノリの頭を軽く撫でた。
「……うん……」
ハルカは玄関先に置かれた淡い色のスリッパを取り出し、ミノリを招き入れる。彼はそれに応じて靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。
廊下を進み、ハルカがリビングのドアを開ける。足を踏み入れたリビングのテーブルの上には、片づけようとした食器が置いてあり、ミノリはそれに気づいてしまう。
「もしかして飯食ってた?」
「いや、食い終わった。片づけを始めようとしたときに、ミノリが来たんだよ」
「ごめん」
「謝るなよ」
「だって……、オレの所為で片づけできなかっただろ?」
「……バカ。ミノリの所為なんて思ってねぇよ」
ミノリに歩み寄り、頭を撫でる。
「だから、そんな顔をするなよ」
「そんな顔って、どんな顔かよく解んねぇけど……」
彼は泣きそうな顔をしていたのだ。そんな顔をさせる為に一緒にいる訳じゃない、とハルカは無言でミノリを見つめる。
謝るのは悪いことではない。非があるのなら謝ればいい。しかしながら、ミノリは違っていた。すぐに自分に非があると思い込む。自分が悪いのだと。自分だけが、悪いのだと。――だから謝るのだ。
「ミノリ……」
名前を呟く。小さな躯を抱きしめたかった。強く、この腕で抱きしめたかった。抱きしめて、そんなのは違う、と声に出したかった。
ハルカは無意識にミノリの背中に手を回す。とたん、びくりと躯を竦め、思い切りの力で突き放した。
「――っっ! 悪い……ごめん、ハルカ、でも……、ちょっと……ダメ、だ……」
「ミノリ?」
『でも』と含んだ言い方が気になったが、ハルカは震えるミノリを心配そうに見つめることしかできないでいる。
「……もうちょっと、待って……」
もう少し、とハルカの前に手を翳し、深呼吸を繰り返す。
「……ふー。よし、オッケー」
落ち着いたらしく、深く息を吐きながら親指と人差し指でマルを作る。
「悪い……」
「ハルカなら、いいよ」
ミノリは軽く笑い、ソファーに座る。「やっぱハルカん家のソファーは座り心地がいいな」と放ちながら。
『ハルカなら、いいよ』とは――それは、どういう意味だろうか。
「片づけが終わったら話があんだけどさ」
「話? 解った。すぐ片づけるから」
『ハルカなら』とはどういう意味なのか。もしかして――いや、変に期待するのはよくない。そんなのは、あり得ないのだから。
複雑な心境の中、ハルカは食器を片づけ始めた。食器を洗いながら、ちらりとミノリを見る。
長袖とズボンに隠された細い手足。童顔だけれど、なにかを秘めた瞳。柔らかい髪。――全てが、愛しい。
ミノリといると、自分の罪を忘れられた。父親に捨てられた過去を、忘れられた。ミノリが、自分を自分に留めてくれた。そこから――愛しさが生まれた。
ハルカは最後の食器を洗い終わるとスポンジを水で洗い、指定の場所に置く。
「ミノリ、おいで」
手を拭かず、濡れたままで手招きをする。
「なんで?」
彼は怪訝な顔付きで問うた。
「洗ってから手当てが普通だろ? だから洗うんだよ」
「滲みるから嫌だ」
「バカ。消毒しても滲みるだろ」
「滲みるのは一回でいいんだよっ!」
「……解った。ちょっと待ってろ」
手を握りしめながら頭を振るミノリの様子にハルカは手を洗わせることを諦めた。
タオル掛けに掛けてあるタオルで手を拭き、レンジ台の上に置いてあるキッチンタオルを千切り、掌サイズに折る。それを水に濡らし、軽く絞れば完成だ。それを手に、ミノリの元へと歩み寄った。
「ハルカ? なにやって――」
すっとキッチンタオルを顔の前に差し出せば、ミノリは目を瞬かせた。なにをしているのかと。
「なにって、それで手を拭けば汚れが落ちるだろ。救急箱持ってくる間に拭いとけよ?」
言い放ち、ハルカはリビングを出る。あとに残ったミノリは、掌に乗せられたキッチンタオルを見つめるだけだった。
「滲みるのは嫌だけど……」
せっかく作ってくれたのだし、手当てしてくれる手前、無下には出来ない。しかし、嫌なものは嫌なのだ。
「拭いたことに――」
「アホ」
浮かんだ妙案は、声と共に後ろから軽く小突かれて消えてしまう。
「ハルカっ」
振り返れば、救急箱を持ったハルカが呆れた顔をしていた。小さくため息を吐いて。
「やっぱ拭いてなかったか……。予想通りで笑えないな」
「だって……っ」
「ったく……」
ぼふん、とミノリの隣に腰を下ろし、持ってきた救急箱はこたつテーブルに置く。
「ほら、貸してみろ」
「ん……」
ミノリは言われた通りにハルカにキッチンタオルを渡した。だが、すぐに手を引っ込めてしまう。
「手を出せ、手を」
「嫌だ」
「あのなぁ、そのままだとバイ菌が入るだろ」
「それも嫌だ……」
「なら手を出す」
観念したのか、おずおずと擦り剥いた掌を差し出してくる。それがどこか可愛くて、ハルカの顔に笑みがこぼれた。
「痛くすんなよ?」
「しません」
そっと触れて、濡れたキッチンタオルで手を拭いた。
「っ……」
ミノリは軽く顔を顰める。軽く拭くだけでも、至極当然に滲みたからだ。
「次、消毒するからな」
「解ったから早くしろっ」
促され、こたつテーブルにキッチンタオルを放り、救急箱を開ける。その中から消毒液と丸綿、ピンセットを取り出した。すぐに消毒液のキャップを開けて、ピンセットで丸綿を掴んで液をつける。
「ちょっ、液つけすぎだろ、それっ」
「これぐらいが普通だし」
普通だという液で浸った丸綿を、擦り剥いた掌に近づける。ミノリの顔は青ざめていて、口をパクパクと動かしていた。
「た、たんま! それ絶対滲みるし! 滲みるから嫌だってば!」
「一瞬だから我慢しろよ?」
引っ込めようとしたその手をがしりと掴んで、ちょこんと丸綿を傷口につける。ひんやりとした感触は、一瞬で終わりを告げた。
「――いっ、たい……!」
予想通り滲み、悪いことに傷が痛みだしている。
「あとはバンソウコウを貼れば終わりだ」
救急箱を探り、絆創膏が入っている箱を取り出したあとに、繋がった絆創膏を三枚ほどちぎり、ミノリに渡す。
「ほら。俺は救急箱置いてくるから、貼っとけよ」
立ち上がれば救急箱を手に、歩き始めた。
「うぅ……」
ズキズキと痛むのを堪えながら、絆創膏の封を開ける。
「滲みる……。だから嫌なんだよ、消毒液って……」
ぶつぶつと呟きながら、傷口に絆創膏を貼る。一枚で傷口は覆われてしまった。もともとあまりたいしたことはなかったので、当たり前だが。
「……なにしに来たんだか」
手当てを済ませた彼は、はたと気づく。本来の目的からかなり遠くなっていたことに。本来の目的は、ハルカにプレゼントを渡すことだ。
「でも、ハルカならたくさんのプレゼントを貰ってるよな……。いや、でも紙袋とか持ってなかったし……いやいや、カバンの中にってこともあるよな……」
「なにぶつぶつ言ってんだよ?」
戻ってきたハルカは、怪訝な目つきでミノリを見ていた。そんなに怪しかっただろうか。
「なっ、なんでもない。お帰り、ハルカ」
「……バンソウコウ」
ちらりと横目でミノリの手を見る。
「え、なに?」
「バンソウコウ、一枚でよかったのか?」
「あー、うん。もともとあんま擦り剥けてなかったしな」
「余ったバンソウコウは持って帰れよ。いまさら救急箱に戻すのはメンドイからな」
「解った」
ミノリは軽く頷き、残りの絆創膏をズボンのポケットへと忍ばせた。それを見たハルカはふたたび隣に腰を下ろして、ミノリを見つめる。
「――で、なにしに来たんだ?」
「いや、別に……」
「暗闇が苦手なのに、我慢して来たんだろ?」
その言葉に、ミノリはまた観念したかのようにゆっくりと言い放った。
「……お前、今日……誕生日だろ……」
「そう、だったかな……?」
一瞬ハルカの瞳が翳った。しかし、それは瞳を逸らしているミノリには解らない。
「そうだっての」
「それで来たのか?」
「なんだよ、来ちゃ悪いのか?」
「違うって」
彼はふわりと笑みをこぼす。ミノリの頭を撫でながら。
「ありがとう、ミノリ」
「そのさ、プレゼント貰ってるよな?」
「そこそこにはね。でも俺には必要ないし」
「要らないの?」
ミノリは信じられないという顔でハルカを見据えた。その顔には「どうして」と書かれている。返して、ハルカはそれに動じることもなく即答した。
「要らない」
ミノリはその言葉に、ズボンのポケットに入れてあるストラップを握りしめる。それはたったいま要らないと言われたプレゼントだ。
「そっか、解った。じゃあオレは帰るからな」
ミノリは早口で捲し立てながら勢いよく立ち上がる。ハルカはミノリを見遣り、目を見開いた。
「ミノリ?」
要らないのなら、渡さなくてもいいだろう。ハルカの家に来た意味もない。
暗闇を我慢してまで、ハルカに心から笑ってほしくて来たのに。それなのに――要らないと言われてしまった。
「どうした?」
僅かに震えるミノリに気づき、ハルカはなんの気なしに声をかける。
「要らないなら要らないって言えよっ! 初めからちゃんと言えっ」
ポケットからストラップを取り出し、ハルカに思い切り投げつけた。ストラップは弧を描くことはなく、ただ真っ直ぐに標的目がけて飛んでいく。
「っ!?」
ハルカは驚きながらもそれを両手で受け止めた。
「買ってきたオレがバカみたいだろっ!」
ひとりでかってに舞い上がってバカみたいだ、ともう一度叫べば、涙が頬を滑り落ちた。
「っだよ……暗いの我慢してきたのにっ……バカ野郎っ」
「買ってきた?」
不思議そうに声が震えていることも気づかずに、感情を吐き出す。
「そうだよっ! 悪いかっ! 気持ち悪いとか言うんだろ、どうせっ」
「わざわざ……、俺の為に買ってきたのか?」
「だからそうだって言ってるだろ――っ!?」
言葉が途切れる。ハルカがミノリを抱きしめたからだ。驚きでミノリの涙は引っ込んでしまう。
「ハ……ハルカ……?」
「ごめん。ミノリがプレゼントくれるなんて思いもしなかったから。酷いこと言ったよな。ごめんな」
「別に……もう、いいし」
ミノリがハルカを見上げると、微笑んでいたのだ。それは表面上ではなく、心から笑っているように思えた。彼が心から笑うのなら、自分の怒りなんてどうでもよくなる。
そっと背中から手を離し、ハルカはミノリの頭を軽く撫でた。気持ちよさそうに目を細めながら、ミノリはハルカの言葉を聞く。
「俺が要らないって言ったのは、欲しい人から貰った物じゃないからだ」
「欲しい人って誰だよ?」
「それは教えない」
欲しい人なんて決まっている。いま目の前にいる人物だ。絶対に言えないけれど。まさかその人からプレゼントを貰えるとは思いもよらなかった。彼からなら、どんなモノでもいい。どんなモノでも大事な物になる。
「なんだよそれっ。教えてくれてもいいだろ」
ミノリの言葉に耳を傾けながら頭から手を離して、壁掛け時計に目を遣ると、時刻は八時五五分すぎになっていた。もうじき九時になる。
「もうこんな時間だ」
ハルカは自分を抑えるために、ワザと声の音量をあげる。
「こんな時間?」
「もうすぐ九時だ」
「九時か……」
ふと窓の外を見ると、外には闇があった。どこまでも続く闇。それは恐怖の対象だった。
「っ……」
とたんにミノリの躯が震え出す。
「ミノリ、大丈夫だ」
手を取りつつ握りしめて、優しい声音で言い放つ。
「俺が傍にいる」
暗闇が苦手なのに、ミノリは我慢して来た。恐怖に躯が支配されながらも、それでも彼は自分の家に帰ることはなく、会いに来てくれた。
それはハルカに希望を与えてくれる。――自分が生まれてきたことに、喜びを与えてくれる。
ミノリはハルカの全てだった。だからハルカは、ミノリの傍にいると決めていた。
「あぁ……」
ミノリは小さく頷いて、手を握り返した。
「オレも、ハルカの傍にいるから……」
傍に――。
ハルカとミノリ。二人はいつの間にか、お互いがかけがえのない存在になっていた。