木下家
玄関ドアを少しだけ開けて、隙間から廊下を覗く。『あの人』はいない。そのことにほっと胸を撫で下ろし、ミノリはそろりと足を踏み入れた。
「……た、ただいま」
勇気を振り絞りながら、小さく声を吐き出す。
「あ、お帰り。ミノリ」
リビングから顔を出したのは、小さくても声が聞こえたからだろう。しかしその場からは動かないでいる。
「っ……、あ……の……」
垣間見た彼女に心臓が跳ねて、穴という穴から冷たい汗が出てくる。
「あ、の……友紀さん……」
『あの人』――もとい、友紀はミノリの母親だ。しかし実の母親ではない。父親が再婚した相手である。
彼は友紀から視線を逸らす。母親の顔がまともに見られないのだ。
「――っ」
いたたまれなくなったミノリは乱暴に靴を脱ぎ捨てて、足早に彼女の横を通りすぎた。
「あ、ミノリっ」
友紀は階段を上るミノリを呼び止めようとするが、当の本人はそれを無視して階段を上る。
――ごめんなさい、友紀さん。ごめんなさい。彼は心の中で何度も謝る。届く筈がないことは解っているが。
「……まだ、呼んでくれないのね」
彼女はポソリと呟いた。
一緒に暮らし始めて四年目になる。だが、ミノリは未だに『お母さん』と呼んでいなかった。
「って……弱気になっていちゃダメね。『友紀さん』って呼んでくれるならまだマシよ」
――少しは、進歩したよね。
母親はポジティブ思考の持ち主だった。
◇ ◇ ◇
ミノリは部屋に入るなり、ドアの前に崩れるように座り込んだ。通学用カバンを下ろすこともなく、虚ろな瞳でぼんやりと部屋を眺めて思考を巡らせる。ダメだ。こんなんじゃダメだと。
友紀が好い人なのは、頭でも躯でも解っている。なのに、怖い。怖くて堪らない。母親という視線が。
対面する度に、足元から恐怖が這い上がってくるのだ。だから視線や顔を逸らす。――たとえ傷つけようとも。そうしなければ、どうにかなってしまいそうだから。それでも、『ただいま』と『行ってきます』が言えるようになったのは、自分にとっては大きな進歩である。
怖いだけで、嫌いではない。嫌いだなんて、あるはずもないのに。
それなのに。
「ごめんなさい……」
足の間に顔を埋め、ミノリは放つ。
『お母さん』と言えなくてごめんなさい。
◇ ◇ ◇
コンコン、とノック音が部屋に響く。はっとして目覚まし時計に視線を遣れば、父親が帰ってくる時間になっていた。
「ミノリ、お父さん帰ってきたからご飯食べましょう」
母親のくぐもった声が鼓膜に響き、ミノリは学習机のイスから立ち上がる。机上には課題が置いてあった。いまのいままでやっていた代物だ。
ゆっくりとドアを開けて廊下に出れば、母親が待っていてくれたらしく、微かに目が合えば彼女は目元を細める。
晩御飯のいい香りが二階までしてくるのに気づけば、当然のようにお腹が鳴った。
「ふふ。今日はミノリの好きな麻婆豆腐よ。辛さは控えめにしてあるわ」
「あ、ありがとう……ございます」
ミノリは言い放ち、そそくさと階段を下り始める。やはり、顔がまともに見られない。
「ミノリ、焦らなくていいのよ。大丈夫だから」
その言葉に振り返ると、友紀は微笑んでいた。
「友紀さん……それは」
――それは『お母さん』と呼ぶことに焦らなくていいってことですか? いや、たぶんそうだ。なんとなくだけど、そう思う。
「なに?」
「なんでもないです……」
この人は『優しくて好い人』。そう頭では理解していても、ココロが受けつけない。どうしても。どうしようもなく。けど――頑張るから。だから――。
「もう少し……待っていて下さい」
彼はポソリと呟く。頑張るから。受け入れられるように。明日も、明後日も、明明後日も、少しずつ頑張るから。
「え? なにか言った?」
「いえ……なにも」
彼女から顔を逸らして、残りの階段を下りた。
一階まで来ると父親――木下孝斗――がリビングから出てきていた。彼は笑顔で二人を出迎える。
「ミノリ、ただいま」
「お帰りなさい」
父親とは普通に話ができるのだ。ただし、目は合わせられなかったが。彼は父親の横をすり抜け、リビングに足を踏み入れる。
脚が高いダイニングテーブルの上には、麻婆豆腐が入った大皿が乗っていた。ゆっくりと湯気が昇っていく。
イスに腰を下ろしたミノリを見て、両親はテーブルに近づいた。
「じゃあ、いただきましょうか」
二人はほぼ同時にイスに腰を下ろした。