六章 また会う日まで
ガダルカナルに築いた米軍の橋頭堡に対し、それまでの最前線であったラバウルは遠すぎた。
1000キロという数字をヨーロッパに当てはめると、その距離はロンドンからイタリアのナポリに達する。1940年のバトル・オブ・ブリテンで英独両軍の主力戦闘機が幅わずか40キロのドーバー海峡を隔てて大苦戦したことを考えれば、南太平洋の異常な広さも理解できるだろうか。
しばらくはラバウルから無理して航空隊を飛ばすとしても、それを何ヶ月も続けては搭乗員の身が持たず、まさか虎の子の空母機動部隊を四六時中張り付けておくわけにもいかない。長大なソロモン列島線上に早急の前進基地構築の必要性は疑いなかった。
かくして、それまでソロモン群島の中で比較的大きな島という以上の価値を持たなかったブーゲンビル島は、ガ島争奪戦もたけなわとなるにつれ自身の戦略的地位を向上させてきた。
島の北端にブカ飛行場が設けられ、南端にはブイン飛行場を擁し、そのさらに南ではショートランド泊地が水上機や駆逐艦以下の艦艇の出撃拠点として機能する。今やブーゲンビルは太平洋でも有数の軍事基地として、ラバウルとともにソロモン戦線を動かす車の両輪をなしている。この地名が勝利と栄光のもとに輝くか、後悔と汚辱に眉をひそめながら口にする言葉となるのか。いずれにせよ、その名が歴史の一部をなし、50年後も忘れられず語られるであろうことは確定した事実であった。
ソロモン群島は南緯5度前後に位置する。戦艦大和が全速力で北上すれば一日足らずで赤道直下に達するような場所である。11月も終わりといえば内地なら襟を立てて先を急ぐ外套姿が目立つ時季だが、ここブイン飛行場では相変わらず半ズボン姿の水兵が椰子の木陰に憩う風景が散在している。
その滑走路の端で、濃緑色の葉巻型の機体が両翼につけた2基のエンジンを震わせている。ラバウルへの連絡飛行に就く一式陸攻は、そろそろ暖機運転も完了し、空へ飛び立つ準備を終えようとしていた。
その客の一人となるべく、左手に小さな手荷物を下げ、駐機場を横切っていた白井大尉は後ろからの声に振り返った。
「おう斉藤に、滝二飛曹か!」
声こそ張りを取り戻しているが、右手を三角巾で吊り左目を白い包帯で覆われた、白井の姿はあまりに痛々しかった。
「大尉……!」
駆け寄った斉藤の顔は、飼い主を失う仔犬の悲痛に歪んでいた。何か送別の言葉を言わねばならない、そのためにここまで走ってきたのに、熱くなった彼の頭はなかなか言語を紡ぎ出すことができない。
あの日、飛行場に滑り込んだ白井の命を救ったのは、皮肉にもガソリンの尽きた燃料タンクだった。わずかでも可燃物が残っていれば、着陸の瞬間に脚を折り大破擱座した白井機は炎に包まれそのまま火葬の棺桶と化していただろう。
半死半生の体で救出された白井は右腕を骨折し出血多量でしばらく人事不省に陥ったが、それは回復してしまえば関係ない。そう言えるほどの致命的な障害が白井を待っていた。
左目が、光を失っていた。
戦闘機の航法、索敵、攻撃にとって不可欠な要素を光学的観測が担っている以上、目が悪い搭乗員は存在しえないと言っても過言ではない。片目といえど、その失明は上空での距離感を失わせ、編隊飛行などできるものではない。つまり、白井は零戦乗りとして失格の烙印をはっきりと押されたのだった。
とりあえず飛行機に乗れるだけの体力をつけ、その上で内地に後送となった。他に外傷もあり、平時なら除隊もありえるのだが、残念ながら今は猫の手も借りたい状況で、特に人手の足りない飛行科が戦闘機搭乗経験のある士官である白井を手放すわけもない。伊豆あたりで療養後、どこかの航空隊か内戦部隊で後方勤務になるだろう。ついでのように大尉へ昇進したのは上層部がそれまでの功績を考慮したものであり、同時に今後の働きへの押し付けがましい期待でもあった。
酸欠の金魚のように口の開閉をただ繰り返す斉藤に、舌打ちしつつ先に口を開いたのは白井のほうだった。
「全く、この世の別れってわけじゃないんだ。そんな湿っぽい顔をするんじゃねえよ」
「は……」
全く改善する様子のない斉藤に軽く肩をすくめて見せると、今度はもう一人の少年に問いかけた。
「ところで滝二飛曹。貴様の部隊は今ラバウルだろう。なぜブインにいるんだ?」
「飛行長のお供です。我が部隊もこちらに進出する予定で、その打ち合わせだと」
滝の場合は白井とは大した面識がないのだからそれほど悲しむ理由はないはずだが、彼の鋭い眼は軽く伏せられ、唇は硬く結ばれている。斉藤に比べ感情表現が豊かなほうではない彼にとって、それは十分以上に惜別の念を表すものだった。
「そうか、それはご苦労だな。いよいよ長期戦の構えだからな、ブインもラバウルも、母艦部隊もさらに忙しくなる。飛鷹の修理も終わったというから、うちも一度トラックに戻るはずだ」
10月26日に生起した空母決戦、南太平洋海戦と名付けられたそれは一応日本の勝利に終わった。空母1隻を撃沈、1隻を撃破しソロモン海域から敵空母を完全に閉め出すことに成功したのに対し、こちらは翔鶴、瑞鳳の損傷のみで、しかも戦場に踏みとどまったのだから勝ちというのは頷ける。が、日本側も航空機の損害が莫大であり、実質的には痛みわけに近かった。
このような状況の中、不備の重なった陸軍の第三次攻撃は結局なし崩し的に失敗した。さらに戦力を増強しようにも海軍の輸送力は限界に達し、当座の食糧弾薬を送り込むのになけなしの駆逐艦を投入しているありさまだ。「餓島」なるいささか気の利きすぎた造語が生まれる中、戦争の流れは頂点を過ぎ、攻勢から守勢へと後退した。
1ヶ月に渡る熾烈な戦闘の中で飛鷹航空隊も兼子少佐を失い、搭乗員の半数を失っていた。もはや限界、とは白井は言わない。仮にも海軍士官が無責任な発言はできず、責任ある発言をぶつけるべきは前線の兵卒ではなく霞ヶ関の赤煉瓦である。海軍兵学校出身のエリート士官、白井大尉の戦争は舞台を変えてまだ続くのだ。
いずれにせよ、それは斉藤らにとってあずかり知らぬ世界の話だ。白井は表情を改めて口を開いた。
「斉藤には何度か話したと思うが、うちの実家は金沢で金物屋をやっててな。まあ物がないから開店休業状態だが。……戦争が終わったら一度遊びに来い。2人そろってな。酒と飯ぐらいは出してやる」
それは約束である。守られる保証のない、だが守る意思それ自体が未来を開くであろう、2人に託す言霊である。
「……はい! 必ず行きますから、いい酒を用意しておいてください!」
「おう、浴びるほど飲ませてやる。せいぜい酒に強くなっておくんだな」
これで量を飲むようになったらこいつは家ごと呑みかねんぞ、と考えながら滝も頷いた。さすがに白井は元部下の扱い方を知っている。たちまち笑顔を取り戻した斉藤に滝は内心舌を巻いた。こういう男なら雪子の紅顔に華を咲かせることも朝飯前だろうなと考え、次の瞬間には無意味な嫉妬心に気付いて密かに嫌悪感を覚えた。
何しろ不器用さでは斉藤に負けずとも劣らない彼である。空戦ばかり上手くなっても許婚の手を握ることすらろくにできないこの少年が不惑の域に達するには、まだまだ人生の積み重ねが足りないようだった。
彼らの交歓は、だが長くは続かなかった。甲高い、やけに人の苛立ちを誘うサイレン音が斉藤の声にかぶさるように鳴り響き、彼らの意識を緊張に染めた。
『空襲警報、空襲警報! 戦爆連合40機、北北東方面より侵攻中。戦闘機隊は至急発進せよ。繰り返す……』
この種の放送は何度聞いても慣れるものではない。斉藤と滝は顔を見合わせると、そろって身を翻した。
「大尉、急いでください!」
振り返ると、白井も一式陸攻に駆け寄っている。どうやら陸攻は強引に発進するつもりらしい。暖機運転も済ませた機を今さら隠蔽するのは手間がかかるので、空中退避というのは賢明な手段だ。
空母ならいざ知らず、基地での緊急発進は誰がどの機に乗るかなどいちいち決めない。とりあえず近い機におのおの飛び込んで勝手に飛び立っていくのだ。戦闘機の数が少ないと置いてきぼりを食らう搭乗員も出てきて、そこで奇妙な椅子取り競争が生まれることもある。争って死に近い位置を求めると考えれば、パイロットというのはなかなか不思議な人種ではある。
その点、斉藤も滝も同種族の人間である。すでに整備員が取り付いている手近な零戦のラッタルを身軽に駆け上がり、慣れた手つきでエンジンを始動させた。ゆっくりと出力を上げながら計器を見渡し、異常がないことを確かめる。目に見えない機の癖は、上がってから飲み込むしかない。
「チョーク外せ!」
すでに機から離れていた整備員が綱を引っ張ると、先に結ばれた車輪止めが外れる。1130馬力の推進力を受けて三翅のプロペラが大量の空気を押し出し、零戦はゆっくりと列線を離れた。
次第に高まるエンジン音が耳障りな警報を圧し、機は離陸体勢に入った一式陸攻に続いて滑走路へ進入する。後ろでは滝の乗った零戦が進みだしたところだった。
日本軍の対空警戒網は主敵であるガ島基地からブーゲンビルにいたる列島線上に厚く展開され、それに比べ南北の海上に対する哨戒は万全とは言いがたい。それは南太平洋海戦で米空母が一時的に全滅していたこともあるが、それにしても海戦から40日が経過している。立ち上がりの遅れの責はやはり早期警戒の不備に帰せられるべきであろう。
開戦以来の付き合いであるドーントレス急降下爆撃機にミッドウェーからこの方すっかり顔なじみとなったアベンジャー雷撃機を護衛するのは、愛すべき寸胴ワイルドキャット。おそらく空母エンタープライズの艦載機であろう。少数だがその勢いはすさまじい。上空直衛の零戦が必死に食いとどめているが、わずか6機ではとうてい食い止められるものではない。
劣勢の中で、低空を離脱する陸攻の姿は絶好のかもである。それに目をつけたワイルドキャットが部下の3機を引き連れ、急降下にかかる。
陸攻には2機の零戦が護衛についているが、足かせがついている零戦は持ち前の旋回性能を発揮できないに違いないと見た。護衛機を部下に足止めさせ、自らは陸攻を追った。
海面ぎりぎりで旋回を繰り返す陸攻の後ろについたワイルドキャットは、照準器いっぱいに広がった双発機めがけその主翼から六条の火線を延ばした。目論見どおりなら陸攻の右エンジンを粉砕するはずだったその銃弾は、しかし目標から大きくそれた。陸攻の胴体右側に装備された七,七機銃から放たれた砲弾の一発が半ば偶然に相手を捉え、その衝撃が弾道を歪めたのだ。
運命の神に悪戯されたパイロットは頭に血が昇ったが、とりあえず戦闘に支障がないことを確認して気を鎮めた。獲物は目の前に依然として存在する。発射釦に指を掛け、照準器を覗き込み、そして再び走った衝撃に戦慄した。
今度の衝撃は先の比ではなく、しかも1回どころではなかった。身体を起こし振り返ったその目に悪魔のような零戦の主翼が映り、馬鹿な、と思う間もなく体が機体ごと海面に叩きつけられ、意識が途切れた。向かってくる1機を一航過で火を吹かせた斉藤がなりふり構わず一直線に突撃してきていたことに、彼は注意を向けていなかったのだ。
海面に上がる水柱を背に、急反転した斉藤は滝機の応援に向かう。だが、すでに1機を落としていた滝は斉藤の到着を待たず鷹のような鋭い切り込みで敵機の腹を前にし、銃弾の刀でもってその機体を正確に薙ぎ払った。
海面に突き立った僚友の墓標を尻目に、白煙を引きながら必死に遁走する影が1機。出端に斉藤が撃破した機である。追えば簡単にスコアを伸ばせるだろうが、とりあえず陸攻護衛の任を果たした2人はこれを見逃した。戦いはまだ終わっていない。
危難を救われた一式陸攻が感謝の念を込めてバンクを振る。斉藤もこれに振り返し、風防の中で敬礼を施した。
白井は陸攻の中でどんな表情をしているだろうか。教え子の戦果に満足げに頷いているのか、それともまだ動きが粗っぽいと顔をしかめているか。もはやそれを確認するすべを、斉藤は持たない。すでに若鷲は親のもとを巣立ったのだ。
ブーゲンビル島は大きいといっても、房総半島の2倍程度の広さだ。それを飛び越えればラバウルはすぐである。山越しにラバウルの名物となっている花吹山の噴火煙を望見した斉藤は、陸攻の護衛はもう大丈夫だろうと判断した。ブインの上空ではまだ空戦が続いており、こちらの加勢に行かなければならない。どうやらここが分かれ目のようだった。
遠ざかっていく陸攻に何度もバンクを振り、飽きることなく振り返る。それもブイン上空が近づくまでだった。
斉藤孝助、滝克俊。2人の軌跡はわずかに交差したのち再び別の方向へ走り出す。それぞれが死を迎えるまで様々な出会いを経験し、多彩な物語を作り上げていくことになるが。
それはまた別の話である。
今回も数度にわたり更新遅延したこと、本当に申し訳ありませんでした。そして私を見捨てず応援してくださった皆様、感謝のしようもありません。
今後も非力ながら頑張っていきたいと思いますので、どうかよろしくお願いします。
参考文献
機動部隊(淵田美津雄/奥宮正武、PHP文庫、2000年)