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五章 恩讐の果てに

 斉藤の絶叫が空しく風防内に響いた。


 悪魔のような正確さで白井機を捉えた無数の12,7ミリ弾は、白井の懸命な回避運動をあざ笑うかのように零戦のエンジンを貫き、風防を砕き、翼を打ち砕いた。

 吹き上がる炎と舞い散るジュラルミンが、斉藤の目に鮮明に映った。


 「中尉……!」

 力なく急降下する白井機を追おうと慌てて機首を翻した斉藤は、その上を飛ぶ航空機に目を奪われた。青く塗られた長い胴体、途中で折れたような逆ガルの主翼。勝ち誇ったように目の前を旋回している。

 「あの野郎!」

 仇を見つけた斉藤の瞳が灼熱した。




 斉藤と白井が初めて出会ったのは、実はほんの5ヶ月前、昭和17年6月のことだ。当時、中国の漢口基地に進出していた白井小隊の三番機として新たに配属されたのが最初である。

 予科練を出たての斉藤は、やる気と根性だけは人一倍あっても技術と経験は全くなかった。彼に潜在する素質を白井は認めたが、それだけでは激しい空戦を生き残れないことを、歴戦の彼は熟知していた。

 白井の訓練は苛烈を極め、斉藤はそれに応えてみせた。白井の技術を貪欲に吸収し、彼のもとで経験を積み、いまだ不十分ながらも立派な若鷲として成長した。

 斉藤にとって白井は敬愛すべき上官であり、尊敬すべき撃墜王(エース)であり、兄のように慕うべき存在だった。

 その白井を一瞬にして奪い去ったコルセア。たとえ中尉が赦そうとも俺は赦さない。何を犠牲にしようとも。斉藤は復仇の念にとらわれ、心を奪われた。





 熾烈な戦闘が始まった。

 急旋回、急上昇、急降下の繰り返し。斉藤の派手な操縦に、零戦の華奢な機体がときおり悲鳴をあげる。

 空中分解の危険を考えない無謀なほど大胆な操縦は今に始まったことではないが、今の彼の技術は常を超えていた。

 ボルトが弾け飛ぶ直前までエンジンを吹かし、フレームが歪む限界まで機体を振り回す。帰還すら半ば思考から追い出し、怒涛のような斉藤の攻撃は明らかに常を超えていた。


 それを見事に受け止めたコルセアのパイロットも、卓越した技量の持ち主と言わざるをえないだろう。零戦に分のある水平格闘戦、しかも荒っぽさが残るとはいえ鷹のような剽悍さをもって縦横に飛び回る斉藤を相手に一発も被弾することなく立ち回っているのだ。



 だが。

 「これで、終わりだ!」

 童顔に似合わぬ血走った眼でコルセアの姿を捉えながら、斉藤は聞かれるはずのない怒号を放った。

 さすがに「ゼロ・ファイター」の名は伊達ではない。ボルト一本まで神経を尖らせ、数グラム単位で徹底的な軽量化を施した零戦の旋回能力は、どれほどの名パイロットであろうと米機に追従を許すものではない。

 そして、その零戦の能力を最大限に活かし、退路を絶ちながら敵機を確実に不利な体勢へと追い込み、万全の機会を作り上げる。堅実さを好む白井直伝の戦法である。

 斉藤は、この悠長な戦術に必ずしも納得してはいない。展開の速い空戦の中でみすみす敵を見逃し、性急な斉藤に歯噛みさせたことも一度ならずある。だが、白井の護衛する爆撃機が落とされることはほとんどなく、飛鷹の防空戦闘で敵に母艦への攻撃を成功させたことは皆無だ。


 逃げる機会を与えない斉藤に焦れたか、敵パイロットは一気に勝負に出た。真正面に向き合うと、6門の12,7ミリ機銃を乱射しながら突撃してきたのだ。

 これこそ斉藤の思う壺だ。彼は思わずにやりと笑った。


 真正面から衝突せんばかりの距離で交差した次の瞬間、両機は操縦桿を倒した。零戦は右に、コルセアは左に。

 同方向に舵を切り、切ったのはほぼ同時。そして、旋回半径は零戦がはるかに小さい。半分も回っていないコルセアの背中に張り付くのは容易だった。

 照準器からはみ出すほど広がったコルセアの尻に、斉藤は震える指をおさえつけながら発射釦を引いた。

 「もらった!」

 放たれた一撃は、斉藤の予測通りの軌跡を描いて敵機に殺到し、コルセアの胴体を微塵に砕くはずだった。だが。


 「消……えた!?」

 50メートル先にいたはずのコルセアは一瞬のうちに斉藤の視界から飛び去っていた。


 急降下で逃れたか、宙返りをうったか。機体を捻って下を走査するが、視界に入るのは不幸な被撃墜者を呑み込もうと貪欲な口を開けている密林ばかり。上はあくなく広がる虚空と点在する白雲。そのどちらでもない、とすれば。




 「後ろか!」

 ほとんど本能的に操縦桿を倒し、フットバーを踏み込む。急激に回転する視界の右端を、獲物を捕らえそこねた猛禽の牙が赤い光を撒き散らしながら飛び去っていく。


 「くそ、そういうことか!」

 しかけはそれほど大したものではない。急激な水平旋回にフラップ操作や横滑り運動を組み合わせて一気に速度を低下させ、失速寸前の状態に持ち込むだけ。

 この傍目には速度を浪費するだけにしか見えない機動が、真後ろについた敵には瞬間移動の魔法と化す。ほぼ同速度で同航していると信じているのが、その実200キロ近い速度で接近しているのだ。いかに驚異的な動体視力を持つ斉藤といえど、これを追いきれるはずがない。そして敵を見失い、狼狽するパイロットの真後ろから悠々と奇襲をかけられる。そういうことだ。

 もちろん、この技術には欠点も多い。空戦にとって命ともいえる速度をわざと失うのだから、直後は攻撃に対して無防備な状態をさらすことになる。敵が察して逃げを打ってもそれまで。さらに、経験を積んだパイロットなら、この派手な機動を注視していれば策に気づくことができるはずだ。

 それを斉藤に気づかせなかったコルセアのパイロットが優れていたとも言え、同時に目の前の敵に躍起になって気づかなかった斉藤が「まだ若い」ともいえるだろう。



 これ以上時間はかけられない。戦闘前に増槽を投下している零戦の燃料はとうにラバウルまでの分を割り、このままではブインの緊急用飛行場にたどりつけるかすら危うい。

 斉藤は勝負に出た。機首を軽く下げて速度を稼ぐと、一気に操縦捍を引き宙返りの体勢に入る。零戦の必殺技、捻り込みだ。

 コルセアは動かなかった。動かないことで勝利を得ようとした。応援に駆けつけた友軍のライトニングが時期の後ろにつき、援護する旨を無線で伝えてきたのだ。

 あの猪野郎がライトニングの存在に気づかず捻り込みを完成させてくれれば、ジーク(零戦)の強力な20ミリが火を吹く前にライトニングの機首に装填された無数の12.7ミリ弾がその筋骨を撃ち砕くだろう。そのさまを脳裏に描き、パイロットは蒼い瞳に笑みを浮かべた。

 彼は知らなかった。長い空戦に疲れ、自らの視野も狭まっていたこと、そして斉藤が新たに戦場に現れた2機の存在を正確に見定めていたことを。



 そのパイロットは、敵に言わせれば狡猾だった。つまり、味方から見れば優秀な操縦士だった。

雲の合間に隠れ、気配を消して近づいた零戦は、敵に気付かれることなく必殺の銃撃を双胴めがけて叩き込んだ。

 火葬の炎を纏って墜落するライトニングに、コルセアは自分の浅はかさを悟った。さっさと逃げていればよかったものを、なまじ小策を弄したために自らを追い詰めてしまったのだ。



 「これで」

 フットバーを踏み込む。揚力を失った零戦はふわりと落下しながら半回転し、なんとか逃れようと機動するコルセアの機尾を捉えた。

 「終わり、だ!」

 吐き出すような裂帛の気合に銃撃音が重なった。

 

 4筋の火線は、今度こそ狙いあやまたずコルセアの機体に殺到した。

 右主翼に集中した弾丸は堅固な装甲を難なく破壊し、一部は燃料タンクを貫いて発火させた。そのさらに外側に命中した20ミリ弾はジュラルミンの外装を紙のように突き破って弾頭に詰められた炸薬を起爆させ、主翼を支える桁板を真っ二つに折った。



 右主翼の半分をもぎ取られ、煙に巻かれたコルセアがこまのように回転しながら墜落するのを確認した斉藤は、すぐに次の行動に思考を移した。すでに撃墜確実判定を受けた敵の機体から黒い塊が飛び出したことも、その塊が白い華を空中に咲かせたことも彼の興味の埒外にあった。


 必死に捜索した斉藤は、やがて地上すれすれを北西へ飛ぶ損傷した零戦を発見した。

 左の尾翼はぼろぼろに破壊され、主翼の燃料タンクからは細く白い糸を引いている。煙を吐くエンジンは時折プロペラの動きを止めた。そして、穴の空いた風防は血の色に彩られていた。

 明らかに死に体の、しかし確実に生きている、白井の零戦だった。そしてその機体が斉藤の勝利を賞するかのように小さくバンクを振るにいたり、斉藤の歓喜は爆発した。


 「中尉!」

 兼子少佐の言を借りるなら「飼い主を見つけた迷子の仔犬のように」白井機のもとに駆け寄る斉藤を、後ろから見つめる一対の瞳があった。

 「まったく、なんて危ない戦い方をする奴だ。確かに強いが、あれじゃ命がいくらあっても足りないだろうに」

 呆れたように沈着げな顔を振るその零戦乗りの名前を高原茂という。隼鷹戦闘機隊の二等飛行兵曹、年齢は誕生日を1ヶ月後に控えた16歳。

 後には共に無数の撃墜マークを積み上げることになる2人の、これは初の協同撃墜であったが、残念ながらこの事実は時代の波擣に呑み込まれ、世に知られることはない。2人が知り合うまでに、歴史はあと1年もの歳月を要求していた。

投稿の際のミスにより別の文章を誤って掲載してしまい、一時混乱させてしまいました。申し訳ありませんでした。

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