オード・ウッド
――深夜二時。
冬の東京の夜は、
どこか物悲しさのある寒さをしている。
ベランダでタバコを吸うレンの背中を、
私はベッドの中から冷めた目で眺めていた。
窓からは、冷たい空気が差し込んでいて、
それはカーテンの裾を揺らし、床を伝って、
私の肩をなぞるように撫でた。
逃げ場のないワンルーム。
この部屋の冷気は、
まるで意志を持つ生き物みたいだ。
サッシが閉まる、重たい音がした。
部屋に戻ってきたレンは、
その冷気と同じくらい冷え切った指先で、
私のパジャマの襟元を誘惑するように弄った。
鼻を突く、焦げ付いたようなタバコの匂い。
本当に嫌気がさして、私は彼に背を向ける。
「……煙たい。こっち来ないで」
「ゴメンて、吸わないと眠れないんだよ。」
レンの声は、夜の静寂に溶けるほど甘かった。
思わず胸が跳ね、じんわりと熱を持つ。
彼は謝りながらも、少しも申し訳なさそうにせず、
冷え切った指先で私のうなじをなぞった。
嫌悪感よりも甘い熱が背中を通り抜けた。
彼に触れられるたびに、私の輪郭が溶けて、
彼の中に吸い込まれていくような感覚。
「……じゃあ、これで上書きして」
レンは私を強引に引き寄せると、
自分の手首を私の口元に押し当てた。
トム・フォードの『オード・ウッド』。
重厚でいて官能的な匂いがタバコをかき消して、
私の胸の奥を隙間なく埋めていく。
私の嫌いな匂いを、
もっと抗えない“彼の匂い”に塗り変えていく。
残酷なほどに整った顔と、
私を惑わすためだけの甘い声。
そして、その匂いが私の思考を一瞬で麻痺させる。
――枕元の彼のスマホが短く二回淡く光る。
暗い部屋の中で、
伏せられた物がどこにあるかを知らせるように。
私は息を止める――
彼のスマホは、
いつだって伏せられたままだ。
そしてこの時間に届く通知の意味を、
知らないはずもない。
「……レン、鳴ってるよ」
「いいよ、今は。」
彼は私といる時は画面を見たりしない。
「美羽が一番だから、今は誰も関係ない」
私の髪に顔を埋めながら言う。
きっと誰にでも言っている甘い言葉――
本当かどうかなんて、どうでもいい。
私だけが今、彼の腕の中で、
この甘い香りに包まれているという優越感が、
私の脆い自尊心を甘く満たす。
ふと、彼のシャツから、知らない女の匂いがした。
シャツに混じる知らない女の柔軟剤さえ、
オード・ウッドの残り香で塗り潰せばいい――
それさえも、彼のものに変わるなら、許せてしまう。
問い詰めたりはしない、
彼はきっと「友達のだよ」と笑ってかわすから。
この香りがする頃は、
決まって私にだけ「本当の僕」を見せつけてくる。
「……美羽の前でしか、こんなこと言えないけど」
子供みたいに、私の腰に腕を回して力を込めるレン。
私にだけは脆さを預けてくれているという優越感――
レンの寝息が深くなり、抱きしめる力が緩む。
私はそっと体を離し、天井を見上げた。
鼻にはまだ、
嫌いなはずのタバコの匂いと、
微かな残り香がこびりついている。
けれど、あんなに不快だったその匂いが、
今は彼がここにいた唯一の痕跡と思えて愛おしく感じる。
彼はクズだ。
私は、長い夜を埋めるための、都合のいい居場所だ。
――それでも、好きになったものは、仕方ない。
私はレンの寝顔を見つめ、音を立てずにキスをした。
その唇から、彼の甘い嘘を、一滴残らず飲み干す。
朝が来れば、彼は私だけのレンではなくなる――
そして、私は「物分かりのいい女」を演じて家を出る。
いくら洗濯しても、身体を洗っても、
この心に染み付いたタバコとオード・ウッドの匂いは、
私の心を満たしてくれる。
そしてその大嫌いな匂いを確認するように、
彼の腕の中へ、自分から滑り込む――




