私の隣といつもの香り
平日の朝、いつもの時間。
私は改札を抜けて、ホームに向かう。
人の流れに身を任せながら、階段を昇る。
電車のドアが開くと、
私はいつもの車両に乗り込む。
ドアの横には背の高い青年が立っている。
立ったまま、ヘッドホンを付けて
スマホを眺めている。
私は開くドアの反対側の端に決まって座る。
前を向くと彼がいる。
それが私にとってはいつものことだった。
名前は知らないし、話したこともない。
でも、毎日同じ時間に同じ場所にいる。
季節が移ろっても変わらない。
彼の髪型が変わったことにも気づく位に。
――今日も、彼はそこにいた。
月曜日の朝は、車内がいつもより混む。
定位置は既に埋まっていて座れない。
私は定位置の反対側、彼の近くに立つ。
少し高いつり革を背伸びして掴んでから、
お気に入りの音楽と、SNSを見る。
電車が走り出す。
揺れる車内と、いつもの景色。
私は無意識に、彼の方を見る。
今日はパーカーにジャケットを合わせていた。
何度か見たことがあるコーディネート。
視線を逸らす。
別に、意識してるわけじゃない。
ただ、私にとっては風景のひとつに過ぎない。
――
電車が走り出して、しばらく経った頃。
次の駅の手前で、急に、視界が白くなった。
「……え?」
足が、ふわっと浮く。
足に力が入らなくて踏ん張れない。
視線が傾き、周りの音が遠のいた。
――
「っ」
誰かの手が、私の腕を掴んだ。
「――大丈夫ですか」
低い声が聞こえる。
顔を上げると、彼がいた。
ドア横にいたはずの彼が、私の顔を覗いていた。
「……あ」
言葉が出ない――
「次の駅で降りましょう」
彼は私の腕を支えたまま、そう言った。
周りの人は、少し距離を取って見ている。
彼だけが、すぐそばにいた――
電車が駅に着くと
彼は私を支えたまま、ホームに降りる。
「ベンチ、座りましょうか」
「……はい」
彼に支えられながら、ベンチまで歩く。
座ると、少しだけ楽になった。
「無理しないで」
彼はそう言って、少し離れた場所に立つ。
距離を取ってくれていると感じた。
「……ありがとうございます」
私は小さく言った。
「ん。」
彼は頷いた。
会話は、それだけ。
名前も聞かないし、何をしてる人かも聞かない。
ただ、立ったまま、私を見守っている。
私は俯く。
――恥ずかしかった。
でも、それ以上に、安心してる自分がいた。
誰かが近くにいてくれている。
それだけで、気持ちが軽くなる。
しばらくして、体調が戻ってきた。
私は、寄り添ってくれている彼に話しかける。
「……もう……大丈夫です。
ありがとうございますっ……」
「ん。そうですか」
彼は頷くと、少し笑顔を見せてくれた。
「じゃあ、戻りましょうか」
私は立ち上がる。
少しふらつくけど、歩ける。
彼は少し距離を取ったまま、一緒にホームに向かう。
次の電車が来ると、彼は、ドア横に立つ。
私は、ドアの反対側のシートの端に座る。
――いつもと同じ。
視線が、一瞬だけ交わる。
私は慌てて目を逸らす。
電車は、いつものように走り続ける。
――
次の日。
私はいつもの時間の電車を待つ。
彼は、いつものようにドア横にいた。
今、思い返せば、
昨日もっとお礼を言えばよかった。
自分に精一杯で、全然お礼を言えてない。
すれ違う時に、
――ありがとうとだけ言おう。
そう思って電車に乗り込む。
でも、言えなかった。
今日も、会話はない。
でも、私は昨日のことを思い出す。
彼が、真っ先に気づいてくれたこと。
――支えてくれたこと。
私はいつもの位置に座る。
彼が目の前にいる。
そして、ふと、彼の近くに移動して、座り直す。
いつもより、近い場所に。
彼は立ったまま、スマホを見ている。
ほんのり、彼の香りがする。
柔軟剤の匂い。
今日の私にとっては、落ち着く香りだった――
窓の外を見る。
電車は、今日も同じように走り続ける。
名前も知らない。
話したこともない。
胸の奥で、
電車の揺れとは違うリズムが鳴っていた――




