潮風にのせて
平日の午前、ハルトが迎えに来た。
車のドアを開けると、
ふんわりと甘い柔軟剤の香りが漂い、
狭い車内を満たす。
ハルトは私を招き入れる。
「おはよう、友梨香」
「おはよう、久しぶりっ、ハルトぉ」
挨拶は短いが、微かに吐息が混じり合う、
その距離感が自然と親密さを伝えていた。
――手を軽く握る。
ハルトは体勢を少し変え、そっと応えてくれる。
車は静かに走る。
小さく揺れるシートに身を預けながら、
私はハルトと会えなかった二週間分の話をする。
二人だけの小さな世界の中で、
互いを確かめ合うように、手や肩を触れ合わせた。
信号待ちの間、友梨香は髪をかきあげる。
甘い香りがエアコンの風に乗って車内の空白を埋める。
二人の心の空白を埋めるかのように。
ハルトは息を飲む。
目を細めてその香りを感じ取っていた。
車は海の見える公園に着いた。
平日の公園はほとんど人がいなく、
潮風に混ざる湿った空気が二人の周りを包む。
ハルトの視線は、
楽しそうに話す友梨香の口元に集まる。
艶のあるベージュのリップが、
光を受けて鮮やかな湿度を放つ。
口元に密かに覗く牡丹色の影に心がざわつく。
友梨香は視線に気づき、口元に手を添える。
「恥ずかしいよ…あんまり見ないでっ……」
息の詰まるような沈黙に、
車内の甘い香りの密度が増していく。
一拍置いて、ハルトはそっと友梨香の手を絡ませ、
唇から手を離す。
友梨香は頬をじんわりと染め、目を瞑る――
沈黙が産む熱と香りが二人を包み込み、
潮風が運ぶ湿度と熱が窓に薄く霧を作り出す。
外界の存在は遠のいて、二人だけの時間が流れる。
――しばらく時間が過ぎた。
会話は途切れ、静寂が空気を支配する。
甘い香りと潮風を残したまま。
柔らかいオレンジの光が差す。
いつの間にか空は夜に染まる準備をはじめていた。
やがて車は迎えに来た場所へ戻る。
友梨香は、少し乱れた髪を整えてから車を出る。
髪が抱き抱えていた、甘い香りと潮風を置いて。
ハルトは、その香りと湿度を深く吸い込み、
心の中でそっと記憶する。
友梨香は駅で、手早く身だしなみを整える。
崩れたファンデーションを直し、
髪を梳き潮風に別れを告げる。
ポーチに忍ばせていたプラチナの輪を探す――
プラチナの輪の内側には、
一月前の日付が刻印されていた。
その刻印を眺め、一拍置いて静かに左薬指に着ける。
鏡に目をやり、最後の仕上げをして改札に向かう。
改札には、背の高い男性が手を挙げて待っていた。
「おかえり、ユリ。残業大変だったね」
「ううん、急だったけどちゃんと終わらせたあ…」
男性は友梨香の髪を撫で、
一本一本に愛を込めるように絡ませる。
「帰ろっか、ユリ。晩飯食おう。」
「うん、ありがと。迎えに来てくれて―」
先月契約したばかりの二人の部屋に向かい歩き出す。
ハルトは自宅近くで車を停め、日課のジムに向かう。
シャワーを浴び、服を着替え、
前夜から計算された準備通りの動きで、
バッグに荷物を整理する。
車にバッグを置き、
仕事用の革の鞄に持ち替えて自宅に向かう。
玄関を開けると、幼い子どもが駆け寄ってきた。
「おかえり、パパ。今日もおつかれさま」
抱き上げ、髪を一本一本撫でながら微笑むハルト。
その背後で、妻が笑顔で「おかえり」と迎える。
今日も暖かい空気が家を包む――




