ラムレーズン
深夜二時、
シーリングライトの温度のない白光が、
私、「立花 絢香」の無能を暴くように部屋を刺していた。
持ち帰った仕事は進まず、
上司に認められるための言葉も、
完璧な私を演じるための気力も、
今は枯れ果てている。
私は、デスクに置かれた赤い箱に指を伸ばした。
以前、同期の朝日奈 柚乃が、
「お疲れ」と無造作に私に渡した、
洋酒の効いたチョコレート。
「……お酒、弱いんだけどな私」
私はその赤い箱の角を指でなぞる。
◆◆◆
あの日は締め日が近く、
繁忙の色がオフィスを慌ただしく染めていた。
職場での私は、
誰にも皺ひとつ見せないタイトスカートを揺らし、ヒールの音を響かせながら風を切る。
正しいと思ったことを真っ直ぐに口する悪癖も、
行動も、私の鎧そのものだった。
そんな私を、
周囲は「高嶺の姫」か「傲慢な花」と
揶揄混じりに呼んでいることも知っている。
この日は酷く疲れたことを覚えている。
柚乃が私に「立花は酒にだけは負けるもんね」と
からかってきた時の低い声を思い出した。
封を切り、
厚みのあるチョコレートの板を静かに割る。
濃厚なチョコレートの中から、
ラム酒に浸ったレーズンが顔を覗かせる。
アルコール度数4%に満たない少量のそれでも、
一口で十分に顔が火照り、
頭が回らなくなる毒であることを知っている。
でも、今の私にはその毒が必要だった。
軽く噛むと、ラム酒の豊かな刺激が零れ落ちる。
鼻を突き抜ける芳醇なホワイトラムの香りが、
一瞬で理性を奪い去る。
舌を焼くような、熱い甘み。
アルコールに弱い脳は、
瞬く間に快感へとすり替わり、目を閉じれば、
憧れの上司の腕があるような錯覚を見せる。
部長に抱かれ、すべてを肯定される空想。
そんな実体のない空想だけが、
明日も「傲慢な花」でいるための安価な燃料だった。
だが、その燃料はやがて知恵熱のような高熱へと変質し、彼女を深い谷底へと引きずり込んだ。
◆◆◆
翌日、意識を浮上させたのは、
けたたましく鳴るスマホ。
画面には朝日奈 柚乃の文字。
朦朧とする意識の中、緑色の通話アイコンを押す。
「……あれ?立花、生きてる?」
スマホの向こうで、柚乃が低く笑うような、
あるいは呆れたような息を吐くのが聞こえた。
「……ねえ立花? 待ってあんた、
まさか今の時間まで寝てたわけ?」
思考が止まる。
慌ててスマホの時計を覗き込めば、
昼休みをとうに過ぎた数字が躍っていた。
――私が無断欠勤。
血の気が引くのと同時に、
内側からせり上がってくる熱に目の前の輪郭がぼやける。
喉が、張り付いたように熱い。
昨夜、自ら流し込んだラムレーズンの熱が、
そのまま粘度の高い鉛になって身体を縛り付けていた。
「……あ、さひな……、私……」
喉が焼けていて、声が思うように出ない。
「声、ガラガラじゃない。
欠勤の連絡もなくて真壁部長、
朝から『立花くんはどうしたんだ』ってさ、
困った顔してたよ?」
――部長。
その名を出された瞬間、心臓が跳ねる。
その鼓動はあまりに重く、
今の私には立ち上がる気力すら与えてはくれない。
「……ごめん、すぐ、行くから……っ」
「あのさ、無理に決まってるでしょ。
あんた、今自分の体温、分かってるの?」
柚乃の声は冷静だった。
それに引替え私はお酒に負けて、空想に逃げて、
挙句知恵熱を出して泥のように眠っていた。
電話の向こうの彼女には、
今の私がどれほど惨めで、無様な姿をしているか、きっと見えているに違いない。
「……いいから、放っておいて」
「はいはい。
死なない程度に放っておいてあげるから、
大人しく、鍵を開けて待ってて」
◆◆◆
ドアが開いた瞬間、冬の冷気と共に流れ込んできたのは、驚くほど清潔で、それでいて残酷なほどに「現実」を感じさせる鋭いシトラスの香りだった。
ジョー マローンの『グレープフルーツ』――
ベッドの脇に座り込んだのは、柚乃だった。
彼女はいつも、
私が必死に隠している「弱さ」を、
散歩道に咲く花を摘むような軽さで暴いていく。
柚乃の冷たい指先が、熱を帯びた絢香の額をなぞる。
「ちょっと……やめて、見ないで……」
拒絶するはずの唇が、自分も驚くほど甘い声を漏らした。
お酒の残滓か、熱のせいか、
絢香は自分から柚乃の腕の中に顔を埋めていた。
柚乃からは、職場のデスクですれ違う時と同じ、
爽やかな柑橘がふわりと香る。
看病に訪れた柚乃の指先が、汗ばんだ私の額に触れる。
「……まかべ、さん……」
熱に浮かされた私の唇から、漏れたその名前。
柚乃にとって、絢香からは最も聞きたくない名前だった。
その瞬間、柚乃を包んでいた空気が変わった。
彼女の手が、絢香の顎を強く掬い上げる。
その瞳は、藍に染まる海のように静かで、深く、昏い色をしていた。
「あーあ……まだ、そっちに行くんだ?
傲慢って言われるのはそういう所もあるんだろうね」
私は藍色の海に飲み込まれていく。
「あさ…ひな…?」
柚乃は私の頬に手を添えて覗き込む。
「あのね……アンタの為に来てるんだよ。私は」
柚乃の指が私の唇を執拗になぞって
「それに、立花が居ないのに気付いたのは私。
私はアンタのそういう所が嫌い――」
柚乃の唇が、震えていた。
そして彼女は、ゴミ箱の縁にかかっていた赤い箱を、
まるで宝物を扱うような手つきで拾い上げた。
ベッドの端に腰掛け、
細い指先で赤い箱を縁取るようにをゆっくりとなぞる。
「……これ、私が教えた味でしょ?」
意地悪な低い声が、熱に浮かされた耳元を震わせる。
柚乃はそのまま、その赤い箱を、
絢香の胸元へじりじりと押し付けた。
「部長を思い出させる為に教えたんじゃない。
……アンタが『傲慢な花』から逃げられるように教えたの。
思い出して欲しいのは、私の方なのに……」
箱の硬い感触が、高鳴る鼓動を直接圧迫する。
絢香が息を飲むと、柚乃の顔がすぐそこまで迫っていた。シトラスの香りが、逃げ場のないほどに視界を埋め尽くしていく。
「……ねえ、責任取らせなさいよ。立花」
「その……ごめ……」
次の瞬間、絢香の言葉は、
柚乃の唇によって完全に塞がれた。
ラムレーズンの濁った甘さと、
柚乃が放つグレープフルーツの苦い知性。
相反する二つの香りが、私の口内で残酷に出会う。
部長の名前も、私のプライドも、
藍色の海に吸い込まれて消えていく。
それは、彼女から貰った「甘い《ラムレーズン》毒」を、
彼女自身が「現実」で埋めた逃げ場のない場所だった。
部長への執着も、姫としての自尊心も、
柚乃の甘い毒に溶かされ、飲み込まれていく。
それは柔らかく暖かい何かが、じわりと迫ってくる。
抵抗する余地もなく、私の思考を静かに侵食した。
絢香は、柚乃のブラウスを強く掴む。
ラムレーズンがシトラスに飲み込まれていく過程を
ただ傍観することしか出来なかった。
◆◆◆
――数日後。
病み上がりの体で出社したオフィスは、妙に広く感じた。
真壁部長が目の前を通る。
あんなに執着していた彼の匂いも、
今はただの無機質な空気の動きにしか感じられない。
あの日、柚乃に刻まれた「甘い《ラムレーズン》毒」の味を知ってしまったからなのか、
それとも「現実」を突きつけられたからなのか。
理由なんて探さないと見つからなかった。
その時、
背後をあの香りが、ふわりと風に乗って吹き抜ける。
振り返ると、デスクに座ろうとする柚乃と目が合った。
周囲には「頼れる同期」の顔を見せながら、
彼女は絢香にだけ見える角度で、
ふっと意地悪でたまらなく慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
――彼女だけが、鎧のない弱い私を知っている。
あの意地悪な顔のまま席に着く。
空想の愛なんて、不要だ。
この心臓を叩き起こしてくれる、「現実」こそが。
私が、この冷たい世界で足を止めないための、
唯一の動力源に変わっていた。
私はこの余白の中に香るグレープフルーツを、
無意識に探していた。




