ヴァーミリオン
部屋の中、
クリップが髪を弾く小さな音だけが響いた。
雪の指先が、絵美の額に触れる。
絵美は高校時代からの私の親友。
――絵美の素肌は、驚くほど無防備だった。
冬の空気のように澄み、
何も染まっていないその空白は
私の心臓を、一段と高く跳ね上げた。
「……始めるね」
その声は、
自分でも驚くほど湿り気を帯びていた。
雪は透明なプライマーを手に取る。
絵美の肌に一つ、二つと置いてゆく――
指先が、
絵美の頬の柔らかな起伏を滑らかになぞる。
目立たない凹凸をひとつひとつ埋める。
私にとってのベースメイクとは、
色を乗せる前の、最も親密で残酷な儀式。
絵美のこれまでの時間を、
膜で塗りつぶしていく。
無垢な肌が、書き換えられていく。
彩りを受け入れることを悟ったかのように。
指から伝わる絵美の体温は、
しっとりとした彩りの香りを織り混ぜていく。
貪欲なまでに――無垢な貪欲が私の胸を焦がす。
「ね、絵美…アイシャドウを塗ってもいいかな、
少し顎を上げてこっちを向いて――」
絵美は静かに目を閉じる。
「ん……」と一つため息を落として。
雪に向けて少し顎を上げる――
微かに震える唇はまるで、
これから訪れる何かをすべて受け入れる、
恋人にしか見せない無防備なキスの形のよう。
「……じゃ、シャドウ入れるから。
そのままにしてて」
雪は、淡い桜色のグラデーションを瞼に広げる。
ふたりの過ごした日々のような、
暖かな色を纏う。
――綺麗だ。
私はこの美しいキャンバスに落とした
一滴の桜色に、春の訪れを予感した。
私は桜並木に夕日がかかる瞬間が好きだ。
凛としていて、
小ぶりながらも幾多の花弁を抱える桜に、
銀朱の光が混ざる瞬間――ふわりと香る桜。
その情景をなぞるように、
私は絵美の目尻に決定的で鋭利な
「銀朱」を差した。
ヴァーミリオンの鮮烈な赤が、
桜色を溶かして境界を曖昧にしていくと、
絵美の表情が劇的に音を立てて明るくなった。
あの日見た、夕日に照らされた桜並木のような、
一段気高く、穢すことを許されない美しさ。
散りゆく儚さが織り成す甘美な景色。
雪は思わず息を飲んだ。
自分が作り出したはずの美しさに、
自分自身が陶酔する。
私は酔いしれる指を、
呼び止めることはできなかった。
スパチュラで削り取られたのは、
艶を放つ紅梅色のリップ――
その梅の蜜をリップブラシに含ませると、
絵美の唇に置いていく。
艶のある春梅の花びらが、
一枚、また一枚と重なっていく。
その瞬間、部屋を満たしたのは、
ほのかな雪解けの香り――
冷たさの中に潜む、春の確かな予感だった。
理性という概念は、もうそこにはなかった。
花弁を置くと、
気が付けば唇同士が触れ合っていた。
紅梅色を纏ったその唇は、
甘い温もりと湿度を帯びて、
私のすべてを絡め取る。
花びらの数を数えるように、
雪は何度も唇を確かめた。
絵美の唇が微かに震え、じわりと熱を帯び、
艶やかな色を抱えていく。
やがて、わずかな距離を空けて、
雪は消え入るような声で謝った。
「……ごっ…、ごめん。
あまりにも、…その、綺麗で――」
絵美はゆっくりと目を開け、
紅梅色の唇をクスクスと震わせた。
「――悪くなかったよ」
鏡の中の自分を見つめ、少しだけ誇らしげに、
でもどこか共犯者のような瞳で雪を見る。
「雪に化粧してもらうと、
なんだか自信が湧く気がするねっ」
二人の間に、あたたかい沈黙が腰を下ろす――
それは、もう筆を載せる前の関係には
二度と戻れないことを、静かに祝福する沈黙。
絵美は鏡を覗き込み、
乱れたツヤを指先でなぞりながら、
独り言のように呟いた。
「また……化粧の練習、付き合わせてよ。」
その言葉は、春を呼ぶ雪解けの風のように、
雪の心の奥底に深く、
甘い楔を打ち残していった。




