ミントタブレット
真夏の冷房の効いた部屋で、
湊が差し出すのは、
無機質で辛いだけのミントタブレット。
「集中力が切れた?これいる?」
白と青のシンプルな外装の、
プラスティック容器を机に置く。
「ミント、苦手なんです」
そう言って凪は受け取らずに湊に返した。
「そうなの?じゃあ、無理しなくていいよ」
湊は笑って、一粒取って口に運ぶ。
私はペンを走らせながら、横目で見る。
湊の指先。
ペンを持つ角度。
呼吸のタイミング。
瞬きの癖。
そして、私を覗き込む時の笑顔――
――
それから、一年半の間隣に座って
湊のすべてを、肌が覚えていく。
湊が教えてくれる時、
どこで言葉を選ぶか。
どう説明するか。
どのタイミングで視線を逸らすか――
湊を見ていれば、
次に何をするか分かるようになっていた。
彼がペンを持ち替えれば、私の指先も同じ角度に。
彼が喉を鳴らせば、私も自然と唾を飲む。
彼といる一年半は、
私に、彼の動作をなぞる癖を自然と押し付けた。
――
私はもともと、
グレープ味のタブレットが好きだった。
人工的な果実の香り。
甘くて酸味が残る、紫色の粒。
コンビニで買って、ポケットに忍ばせる。
業間や授業中に食べていた。
湊が家で個別指導してくれている時にも、
それを食べていた。
でも、湊と一緒にいて
少しずつそれも変わっていった――
彼の体温や彼の呼吸。
彼の声のトーン。
それらが味に絡みついて記憶として私の中で残る。
私は、湊が好きだった。
恋らしい恋をしてこなかった。
たぶんそれが初恋だった――
――
冬になり、受験まで、あと一ヶ月。
部屋は静かだった。
湊は私の手元に視線を落としている。
私は、わざと解けないフリをして問題を湊に見せた。
「これ、分からないです」
湊が椅子を引き寄せる。
私と湊の距離が少しだけ近くなる。
「ここがね…」
湊の声が、鼓膜をなぞる。
私は、息が止まった。
彼の声が脳裏に焼き付く。
距離がなくなり、
体温の境目が分からなくなる。
ふわりと柔軟剤の甘い匂いと、
ミントの爽やかな香り。
気が付けば私は、湊の唇に自分の唇を重ねていた。
――
湊の手が、止まる。
「…ちょっ…凪ちゃん」
私は、唇を離さない。
――違う。
私の理性とは違って、離れてくれなかった。
湊の口の中は、ミントの香りで満ちていた。
でも、それだけじゃない。
彼の体温と湿度。
吐息の名残。
肺の熱。
全部が、私の中に流れ込んでくる気がした。
私の口の中にあった、グレープフレーバー。
私の「好き」は、
湊の唇を通じて、彼の熱と混ざり合う。
人工的な果実の香りが、ミントに上書きされる。
いや、逆だ。
湊を、私の「好き」に染めた。
――
湊が、唇を離す。
「…なにしてんの、ダメだよ」
「ダメでしたか?」
私は、湊の目を見た。
湊は、目を逸らす。
ただ、息を荒くして、俯く。
部屋には規則的な吐息の音だけが響く。
彼が目を逸らすことは予想していた――
――
最後の授業。
湊は、あの日から
グレープフレーバーのミントを好むようになった。
「…今日で、最後だね」
ふたりの間には、
少しぎこちない空気がまだ流れていた。
「はい」
私は、湊の手を取って、彼の目の奥をのぞき込む。
「…凪ちゃん?」
湊の喉が小さく鳴る。
――私の胸の高鳴りと混ざりあって。
しんとする空間を割るように言葉を放つ。
「もう一回、キス…してください」
湊の目が、揺れる。
「…ダメだよ」
また目を逸らす。
「なんでですか」
少し声を低くして、問いかける。
「君は、まだ…」
「もう遅いです」
私は、再び湊の唇触れる――
一回目よりも、深く。
彼の全てに重なるようにして…
湊の呼吸が、私の内側にまで触れてくる。
私は、湊の吐息を受け止めて返す。
彼の指は、居場所を失ったみたいに私の髪に触れる。
私は湊の全てを自分のものにしたかった。
気が付けば湊の背中に力を込めていた。
私が彼に触れた感触が、
彼の背中に残ると錯覚するほどに――
湊からはグレープの香りがした。
でも、それはただの果実の風味ではなくなっていた。
私の「好きな香り」が、
湊の湿度と体温に溶けて、呪いになったもの。
私は、湊を引き止めるように力を込めた。
――
湊が、小さく息を吐く。
それはもう戻れないと知る人の吐息の色をしていた。
取り返しのつかない時間と引き換えに、
一生消えない味を、互いの脳に焼き付けた。
――
二十歳の春。
私は、ブルゾンのポケットに手を突っ込んで、
街を歩いていた。
目的地なんてどうでもいい。
ただ、味を確かめるために歩く。
ポケットの中には、グレープ味のタブレット。
私は一粒取り出して、口に含んで噛み砕く。
広がるのは、人工的な果実の香り。
――でも、それだけじゃない。
湊の体温と、吐息。
そして、思い出の辛いだけのミントの香り。
全部が、混ざり合って、私の口の中に蘇る。
これは、もう、ただの「好き」じゃなくて、
湊に作り変えられた、私を確認するための、
熱く残酷な残滓。
救われなくても、良かった。
この呪いが私の血液となり身体を巡っている。
ポケットの中で、空になったケースがカチリと鳴る。
私は、もう一粒取り出す。
また噛み砕く。
その呪われた行動が私の心臓の拍動に代わった。
ただ一人の相手とキスをして、学校を卒業した。
それだけのこと。
そこに溜まった残滓が、
忘れられない味として、
一生、消えない呪いとして居る。
それだけのこと。




