甘い香りの残滓
金曜の昼下がり、オフィスは静かだった。
梨沙さんの机の上には、段ボール箱が二つ。
「由希ちゃん、手伝ってくれてありがとね。」
梨沙さんが振り返って笑う。
いつもと変わらない笑顔に、
微かな別れの気配が絡んでいた。
「いえ、これくらい。」
私は段ボールにガムテープを貼る。
梨沙さんの視線から逃れるように、目を伏せて――
異動が決まったのは先月。
栄転だった。
仕事を愛していることを知っていたから、
梨沙さんのポジティブな異動は嬉しかった。
――でも胸の奥は、ずっと痛かった。
梨沙さんは私の憧れの先輩で、手の届かない人。
仕事ができて、優しくて――
ずっと彼女のことを目で追ってしまう。
好きだなんて、一度も言ったことはない。
“言えるわけがない。”
「今日送別会してくれるんでしょ、楽しみだね。」
梨沙さんがそう言って無邪気に笑った。
私は笑顔を直視できず、
「はい」と答えることしかできなかった。
会場は職場の最寄り駅にある居酒屋。
店内は金曜日の賑やかさで色づいていた。
部署のメンバー十数人が集まり、
梨沙さんを囲んで乾杯する。
「梨沙さん、大阪でも頑張ってください!」
「寂しくなりますよー!」
声が飛び交う中、私は隅の席で梨沙さんを見ていた。
柔らかな笑顔で応える梨沙さん。
グラスを傾ける指先の仕草。
耳にかけた髪の後れ毛が、数本遅れて頬に落ちる瞬間。
一つ一つ、心の本棚に収納する。
気がつくとお酒を飲む手が進んでいた。
ビール、カクテル…
何を、もう何杯飲んだか、覚えていない。
二次会に移動する頃には、
街の灯りは滲み、世界の輪郭が歪んでいた。
「由希ちゃん、大丈夫?」
洞窟の中にいるような、こもった音が鼓膜を撫でる。
「だいじょぶ…です…」
――歩くことさえもやっとだった。
気がつくと、知らない部屋だった。
周囲は薄暗く、額の奥には熱が籠っている感覚。
聞こえるのは、規則正しく聞こえる空気の揺れ。
手には柔らかい布団の感触。
微かに香る、よく知った甘い匂い。
視線を動かすと、隣に誰かがいた。
梨沙さんだ。
私は慌てて息を止めた――
梨沙さんの部屋、ベッドの上。
そして私は隣にいて、眠っていた。
穏やかな寝顔からは、規則的な寝息が漏れる。
触れようと思えば、触れられる距離。
でも触れたら、全部崩れてしまう。
寝息が運ぶ甘い湿度が、私の頬に触れる。
その甘さは僅かなアルコールの香りを抱いていて。
私を、深い酔いへ引き戻していく。
香水の残り香と、シャンプーの清潔な匂い。
甘い寝息とアルコール。
全てが混ざって、私を包んでいた。
もっと近くで感じたかった。
髪の毛一本分、近づけば触れる。
指先を伸ばせば頬にも、唇にも届く――
この瞬間を独占している事実が、
私の胸を鮫肌のような何かがなぞる。
こんなに近くにいるのに。
あんなにも欲しかったものが近くにあるのに。
寝返れば手の甲が私に近づく。
そのたびに、心臓が跳ね上がる。
触れそうで、触れない。混ざりそうで、混ざらない。
私はただ、この瞬間を記憶に取り込んでいた。
朝の光は、夜のことがなかったかのような、
あっさりとした空気をまとって部屋に差し込んでいた。
目を開けると、梨沙さんはもうベッドにいなかった。
キッチンから、コーヒーの香りが漂ってくる。
私はゆっくりと起き上がり、リビングへ向かった。
「おはよう、由希ちゃん。」
梨沙さんが振り返って笑う。
その手にはコーヒーの入ったマグカップ。
「昨日、すごく酔ってたから。大丈夫だった?」
私の顔を覗き込む梨沙さん。
髪を耳にかける仕草に視線が吸い込まれる。
「あ…はい…すみません…」
私は、目を伏せることしかできなかった。
梨沙さんは「気にしないで」と言って、
手に持ったカップを差し出した。
「コーヒー、飲む?」
湯気が上がるカップを受け取ると、
ふんわりと香るコーヒーと、梨沙さんの柔らかい香り。
「ありがとうございます。」
カップを受け取る指が微かに震えていた。
梨沙さんの入れるコーヒーは、
私には濃くて苦かった。
酒の甘さも、香水の甘さもどこにもなくて、
ただコーヒーの苦さだけが私の胸の中に居座る。
「今日、引っ越し業者が来るから。
バタバタしちゃうかも。」
梨沙さんがそう言って、また無邪気に笑ってみせた。
私が独り占めできなかった笑顔だった。
「そう…、ですか。」
私は静かに答えた。
玄関で、靴を履く。
「――じゃあ、また会おうね。」
梨沙さんがそう言った。
「はい――」
嘘だと分かっていた。
もう会わないと、二人とも分かっていた。
朝の空気は澄んでいて、甘い匂いは、
最初からなかったみたいに消えていた――




