ぬかるんだ沼
「……っ、無体を働かれてはいないのよね!?」
翌日の学園で、登校後の正門前で出会い頭にユリーシア様に肩を掴まれた。そのまま校舎裏に連れ去られて、ぐわんぐわんと揺さぶられて目が回るがいつも優雅なユリーシア様のこの錯乱ぶりは異常だ。
「むたいとは……」
「クレイスに! 乱暴をされていないかっていうことよ!」
お説教時ですら朗らかな口調なのに今日はやけに語気が強い。怒っているわけではないようだけれど、焦っているというか……とても余裕がなさそうだ。
「ユリーシア様ってば。クレイスくんが暴力なんて振るうわけないですよ」
「そうじゃなくてっ……、貴女、昨日泣きながら帰ったそうじゃない。侍従に聞いたわ。その、お嫁にいけなくなるようなこと……されてないわよね? そんなことしないって信じていたのにっ……」
あああお美しい白磁の肌が段々と土気色になってきてしまっています。昨日クレイスくんのお部屋から出る時にはもう涙は止まっていたはずだけれど、泣き腫らした顔を目撃してしまった侍従さんが大袈裟にユリーシアへ伝えてしまったのだろうか。
ユリーシア様は未だにゆさゆさと私の肩を鷲掴みにしている。
「なにもされてないですよー。最近ちょっぴり情緒が不安定で。クレイスくんは話を聞いてくれていただけです」
「本当ね? 本当なのね? もし……もし何かされていたなら責任を取らせるわ。今すぐに! ああでも嫌よね貴女を泣かせるような男は……」
何か……、精神的な面でかなり揺さぶられたので何もされてないとは言い難いのかもしれない。けれどそれはユリーシア様の想像しているものとはちがうのだ。
それに、とってもらう責任などは存在していないのだけれどその言葉にかこつけて事を運んでしまえばどんなに幸せなことだろう……と甘やかな妄想をしてしまう。
けれど、駄目だ。妄想は妄想で終わらせなければ。
「本当です。誓って何もされてないししてないですよ」
「ルルが何かするとは思っていないけど……」
こんなに心配してくれるのはクレイスくんのお部屋のあの様子を知っているからだろうか。
推し活なんて言葉を知らない人が目撃したらまあまあ異常に感じるだろう。
その後のあれやこれやで衝撃が薄れてしまっていたが、正直私もお部屋に通された瞬間は度肝を抜かれた。
そういえば相談事があるからと部屋に連れて行かれたのに、私が取り乱したから結局聞けないままになってしまったな。
「まだ目が腫れてるじゃない。……可哀想に」
そう言ってユリーシア様は私を抱きしめてくれた。女子同士だけれどユリーシア様は背が高いので私の身体がすっぽりと収まってしまう。
いい匂いだ。温かい。
小さい頃のクレイスくんもこうやって慰めてもらったりしたんだろうか。いいな、どちらも羨ましい。
「ほんと、心配されるようなことは何もないので」
「……無理には聞かないわ。ねえ、クレイスの方が相談しやすいならそれで良いけれど。わたくしが力になれることがあるのなら何時でも言って」
完全に悩み事があると思われている。悩み事はあるにはあるけれど、クレイスくんへの気持ちを話すとなると政略結婚云々についても触れなければならないわけで。大事な時期のユリーシア様に心配事を増やしたくはない。
昨日は嬉しくて、悲しくて、そして不安で眠れなかった。
お部屋にあれだけ私の存在があったことが嬉しい。けれど、もしクレイスくんに好きな人が出来たらあのお部屋の私は撤去されてしまうのだろう。
想像すると胸が痛んだ。
「あっ、それとも単純にあの部屋が気持ち悪かった? けれど後のことを考えたらあの子も隠しているわけにはいかなかったでしょうし……」
後、というのが何を指しているのかわからないけれどそれは大丈夫だ。前世の私の部屋にも同じようなものがあったはずだ。
「あれは……沼に落ちた者の末路なので大丈夫です」
「沼? クレイスを沼に突き落せば良いかしら? 領地で良い場所を探しておくわ。出来るだけ深くて這い上がれないところが良いわね」
待って待ってその沼じゃないです。這い上がれないくらい私の沼に嵌ってくれたならなんて愚かな想像はしてしまうけれど。
「……俺が沼に落ちることでルルの元気が出るなら落ちるが」
ユリーシア様の背中側から声がして、抱き締めてくれていた腕がぱっと離される。いい匂いと柔らかさで気持ちが良かったので正直残念だ。
「クレイス。……元はといえば貴方がねえ」
「クレイスくん。……おはよう」
ユリーシア様は振り返ってクレイスくんをじろじろと睨みつけているけれど、私は昨日あんなに大泣きしてしまった後でちょっぴり気まずいので顔が見られない。それに、視線を上げてもし微笑まれたりでもしたら。昨日自覚したばかりの気持ちが全部顔に出てしまうような気がした。
「後ろを歩いていたが、教室に向かう様子がなかったから追ってきた。俺は何時でもいい。何時にする?」
何時にする、って……沼に落ちる気満々らしい。けれど私はそんなことは望んでいない。私が不自然に視線を逸らしているので尚心配してくれているのだろう。
「沼、沼っていいですよね! 私一度沼で泳いでみたくて。今度予定が合えば一緒に行きましょうね。クレイスくんは沼のほとりで涼んでくれていれば充分なので! ……それじゃっ」
好きな人を泥の溜まった方の沼に突き落とすくらいならば私がそこで泳ぐ。別に一緒に来てくれなくても良いしそんな滑稽な姿も見られたいわけでもないけれど。
「……あっ、ルル……!?」
ユリーシア様の制止の声が聞こえたが、二人が呆気に取られている隙を狙って教室までの道を駆け出した。




