目撃者
見てしまった。
あの日を境に、ぼくの人生は変わってしまった。
祭りの広場は、歓声と歌で満ちていた。人々は収穫を祝い、笑顔で踊り、子どもたちは水桶の周りで遊んでいた。桶に満たされた透明な水は、青空を映し込み、まるで幸福そのものを宿しているかのようだった。
だが、そのきらめきは突然に歪んだ。
風もないのに、水面が震えた。次の瞬間、桶の水が生き物のように鎌首をもたげ、蛇のような姿を取って立ち上がったのだ。
子どもが悲鳴を上げた。老人が尻餅をついた。人々の目の前で、その水は崩れ落ち、笑顔を泣き声に変えていった。幸福が砕かれる音が、確かに響いた。
そして、ぼくはその瞬間を見てしまった。
ただの偶然だった。桶のそばに立っていたから。目を逸らすことなく、水の目を見返してしまったから。
だが、それだけで十分だった。水はぼくを選んだ。
「見ただろう」
「幸福が砕かれる瞬間を」
その声が、頭の奥に響いた。誰も気づいていない。人々は騒然としながらも、やがて「桶が割れただけだ」と笑いに変えていった。
だが、ぼくは知っていた。あれはただの水ではない。孤独に耐えかね、幸福を憎み、砕くことに悦びを覚える存在だった。
そしてぼくは、目撃者とされてしまった。
ある日、水辺で子供が攫われた。村中の者が水辺で遊んでいた。
水が鎌首を擡げて子供足を掴んで引きずり込んだ。
子供は翌日、同じ場所に倒れていた。
それからの日々、ぼくは水から逃れられなくなった。
井戸を覗けば、底に揺れる水面から冷たい視線を感じる。コップに注いだ水は、口元に近づけると囁く。
「飲めば、わたしが中に入るぞ」
「おまえの喉を冷たく満たしてやろう」
雨粒が肩に落ちると、その一滴が耳元で囁く。
「見たな」
「おまえも砕けろ」
夜、眠ろうと目を閉じれば、夢の中で洪水が村を呑み込む。人々は笑顔のまま溺れていく。その中心に立つぼくを、水が睨みつけている。目が合うたびに目覚め、枕元に濡れた痕が残っている。
人々は何も知らない。畑を潤す水をありがたがり、雨を「恵み」と呼んで喜んでいる。だがぼくには、それらが牙を隠した怪物にしか見えなかった。
水の囁きは、やがてぼくの身体をも侵していった。
喉が渇いても、水を口にできない。飲めば内部から侵される気がした。だから乾いた唇を舌で湿らせるだけで耐える。だが舌に触れる自分の唾液さえも冷たく感じた。
皮膚に触れる水滴が焼けるように恐ろしかった。川を渡るとき、膝にまとわりつく流れが蛇の締め付けに思え、息が止まりそうになる。
夜中に汗をかけば、それすらも水に変わってぼくを呑み込む気がして、布団を蹴り飛ばして震え続けた。
「見た者は逃げられない」
「幸福が砕かれる恐怖を、おまえも味わえ」
頭の中で水音が繰り返す。ぼくの脳を満たし、思考を押し流していく。
ある晩、ついに耐えられなくなった。
ぼくは村を抜け出し、山の教会を目指した。そこなら水から遠ざかれると思った。鐘楼の高みに登れば、水は届かない。そう信じた。
夜道を走る。だが足音の後ろで、もうひとつ音がついてきた。しゃらしゃらと、滴が落ちる音。振り向けば、道に水溜まりができていた。ぼくの足跡をなぞるように広がっていく。
息を切らして鐘楼に駆け込み、螺旋階段を登る。汗が背を伝い落ちるたび、それが水音に変わって耳を打つ。
鐘の下に身を投げ出したとき、心臓は破裂しそうに高鳴っていた。金属の冷たさに背を預ける。これで大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。
しかし冷たい雫が頬に落ちた。
鐘に溜まった夜露が、雫となって滴り落ちていたのだ。その一滴が床に集まり、小さな水溜まりを作る。やがて、そこから蛇のような首が立ち上がった。
「逃げられない」
その声を、確かに聞いた。
ぼくは悟った。
水は世界のどこにでもある。飲み水に、雨に、雲に、血に、涙に。逃げ場などない。
「なぜぼくなんだ!」
叫んでも答えは同じだった。
おまえは見た。わたしが幸福が砕く瞬間を。
だから、おまえもまた砕かれねばならない。
幸福を壊す存在。その正体を知った者は、もはや幸福を享受できない。ぼくは笑顔を見るたび、その裏で砕ける光景を幻視するようになった。人々の歓喜は、やがて水に呑まれるだろう。
幸福を恐れる。それこそが「目撃者」の宿命だった。
恐怖は骨の髄まで染み込んでいった。
村人の笑い声を聞くだけで胸が痛む。宴の食卓を見ても、そこに置かれた一杯の水が牙を剥いているように思える。
幸福そのものが恐怖の象徴に変わった。
ぼくの存在は砕かれ続けている。まだ生きているのに、すでに幸福を拒絶してしまっている。水の孤独と怒りは、ぼくを糧にしているのだ。
幸福を砕く瞬間を見た者は、幸福を恐れて砕かれる。
その運命から逃げられないと知ったとき、ぼくは初めて涙を流した。
だが、その涙でさえ水だった。頬を伝う滴が囁く。
「ようこそ。おまえもわたしの一部だ」
ぼくは嗤う水の声に震えながら、闇の中で膝を抱えた。
恐怖に囚われたまま、二度と自由にはなれない。
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