真実の愛とやらのせいで婚約破棄されましたけど真実の愛ってあるんですか?
「僕は真実の愛を見つけたんだ!」
階段の真ん中に立つ殿下は、舞台の主役のように輝いていた。
シャンデリアの光が短い金髪に降り注ぐ。若々しく精悍な顔立ちには自信があふれ、女生徒たちの心を夢中にさせる。
すらりとした体つきには一点の無駄もなく、まさに舞台の中央に立つべくして生まれたような、まばゆいオーラをまとっていた。
――レアンドル・ファン・エルゼンブルフ殿下。それが、この光り輝く王子様の名前だ。
初めてお会いした時から、ずっと眩しかった。
普段から、私にはもったいないと思っていた。
隣に立つため、殿下にふさわしくあろうと努力は惜しまなかったけれど、私がどれだけ頑張っても、殿下という太陽の隣では月になることすらできないと思っていた。
光り輝く太陽のような殿下の隣には、やはりあの伯爵令嬢がよく似合う。静かな美しさでそっと寄り添う彼女――アマラント・ファン・アールスホット伯爵令嬢。
彼女は胸の前で両手を組み、恍惚とした目で殿下を見上げていた。少し口元が緩んでいるのはいただけないけれど。
「すまない、アンネリース。君に非はない。君はとても素晴らしい令嬢だ。だが、僕は運命があることを知ってしまったんだ」
アンネリース・ファン・カイペル、それが私の名前だ。第三王子とはいえ、殿下の婚約者となれるほどの高い家格を持つ公爵家の長女だ。
だけど、家格が高くても、私自身はたいしたことがない。それがよく解っていたから、今は肩の荷がすとんと降りたような心地だった。
太陽のように光り輝く金髪を持つ殿下。その隣に、私のような、くすんだ赤毛は似合わない。
それこそ、月の光を集めたように静かに輝くホワイトブロンドの長い髪を持ち、それを細かく編み上げてひとつにまとめたアマラントさんの方が王子の隣に立つべきなのだ。
ひと目で殿下が惹かれたように、私もまた、ある意味で彼女に惹かれていた。王族は、やはり絵になるべきだ。平凡な顔立ちの私が、そこに立っていいはずがない。
ようやく、王子もそれに気づき、あるべき姿を取り戻したのだ。
「殿下の熱き想い、感動いたしました。お二人の末永き幸せを、心よりお祈りしております」
一礼し、私は笑顔でその場を退場した。
◇◇◇
それが、昨日の話だ。
今朝、私はいつものように紅茶を淹れている。
昨晩、帰宅して普通に眠り、普通に起きて、食堂へ。
侍女からティーセットを受け取り、陶器のポットにゆっくり湯を注いだ。
ふわりと茶葉が開き、湯気とともに立ち上る香りは、いつもよりほんの少し、重たい気がした。
……たぶん、気のせい。そう自分に言い聞かせた。
そういえば。
茶葉を蒸らしながら、昨日の舞踏室を思い返す。
王子の顔は、今から思えば、恋に浮かれた子犬のようだった。本人は真剣なのだろうけれど、冷静に考えると滑稽でしかない。
だって、“真実の愛”なんて……ねぇ?
童話じゃないんだから。
今になってようやく幻滅するのだから、昨晩はやはりかなり動揺していたのだろう。
「……少し、苦いかしら」
紅茶をひと口飲み、思わず眉をひそめてしまった。分量か、蒸らす時間を間違えてしまっただろうか。どうしよう。砂糖を使うなんてもったいないし……。
「ねぇ、ティネ」
私は振り返って侍女の名前を呼んだ。
「……はい、お嬢様」
今朝、目が覚めて、顔を合わせてからずっとこうだ。どちらが婚約破棄を言い渡されたのか分からないくらい、彼女は悲痛な表情をしている。
私のことはティネに聞けばいいと言われるほど、昔から私に仕えてくれている彼女にしては大げさだな、と私は思った。だって私はそんなに悲しんでいないのに。
「これ、渋いのだけれど。どうしてかしら」
茶葉の量は計量スプーンを使い、時間は砂時計を使った。どちらも専門の道具だから、間違えるはずがない。
ティネにも飲んでもらう。彼女はまず首を傾げた。やはり、と思ったが、それは味に対してではなかった。
「私には同じ味に思えますが……」
申し訳なさそうに憂いを帯びたティネは、ため息が出るほど美しかった。さすが、屋敷の男性たちの一番人気を争うだけある。
それはいいとして、同じ味?
もう一度淹れ直すか迷ったが、すでにお腹はいっぱいだ。そんな状態でお茶を楽しめるはずもない。こういう日もあるだろう、と思うことにした。昔はよく間違えたものだし、それよりも気になることがある。
「ねぇ、ティネ。教えてほしいことがあるのだけど」
隣の椅子を勧め、ティネが座るのを確認してから気になっていたことを問いかけた。
他の家では珍しいらしいが、私は侍女に限らず、時間がかかる話を使用人とする場合は、椅子に座ってもらうことにしている。
座る場所の遠近はあれど、ずっと立っていたら疲れる、ただそれだけの理由だ。
ティネは私が一番信頼しているから、隣。
「いかがなさいました?」
会話を始めていいというサイン受け取り、私は昨晩からどうしても引っかかり、理解できなかったことを尋ねた。
「真実の愛って、あるの?」
昨晩、殿下が仰った言葉だ。アマラントさんを選んだこと自体には異議はなかったが、その理由に納得がいかなかった。
そんな、子どもじみた理由で私は――。
“真実の愛”なんて、童話か恋愛小説の中にしかないものだ。それをまるで現実の、尊いもののように話されるのは、いかがなものか。
物語に思いを馳せるのは自由だ。
だけど、それを公の場で口にするのはどうなのか。王子としての権威を損なうものではないだろうか。
殿下にお伝えするかは別にして、婚約破棄の理由がそれで良いのだろうか。
私は、良くないと思う。もっとしっかりとした理由を考えてほしかった。
王家が婚約破棄するなら、重大な理由が必要ではないか。
「……恐れながら、私はあると思います」
「あるんだ……」
拍子抜けしてしまった。虚を衝かれた、という表現がまさに今の私の表情に当てはまるだろう。
裏切られてショックだ、という気持ちではなくて、もちろん同意してくれたら嬉しかっただろうが、何らかの答えを求めていた私は、一番信頼する彼女がどうしてその答えを持っているのかを知りたくなった。
「自身の経験で恐縮ですが」
理屈ではないと言いながら、それでもティネはしっかりとした声色で語り始めた。
「うちの髭ですが」
「ああ、髭」
我が家の寄子である、長い顎髭が有名なティネの旦那さんのことだ。同じ寄子同士の絆を深めるための結婚だったはず。
「はい。私は最初、あの髭が気に食わなかったので、お断りしようと思っていました」
「えっ、そうなんだ」
子爵や男爵家の令嬢は、行儀見習いのために高位貴族の侍女をすることがあり、ある程度の礼儀作法を身につけた時点で、結婚の準備のために侍女を辞める。
だけど、ティネは辞めなかった。確か私が十歳ごろの話なのでよく覚えていないけれど、そんなことがあったのか。私はずっと一緒だと言ってもらえて嬉しかった記憶しかない。
「はい。ですがあの髭は、結婚してからもお嬢様にお仕えすればいいと言ってくれまして。それならばと、結婚に応じたのでございます」
「そうだったのね……」
「はい。私は、お嬢様にお仕えすることが生きがいと思っておりますので。王宮でなくとも、どこであってもご一緒いたしますよ」
穏やかな微笑みは海のようで、思わず飛び込んでしまいたくなった。抑えるのが大変な衝動を呼び起こす魔性の女すごい。
自室なら迷うことなくそうしただろうけれど、ここは食堂だ。他の目もある。冷静に、感謝を述べて続きを促した。あとで抱きつこうかしらね。
「例えば、旦那様、あるいは騎士団の隊長。同じ条件を下さったとしても、失礼ながら私はお断りするでしょう」
彼女は断言した。
私は首を傾げる。正直、髭よりも父や騎士団長の方が優良物件なのに、どうしてそこまで断言できるのだろう。
すると彼女は、私の考えを見透かしたかのように頷いた。確かにお二方に比べると髭の方が不細工で、優しくもなく、頭も悪く、お金もなく、地位もないのですが、とばっさり言い切った。
そこまでは思っていなかったけれど、考え自体が顔に出ていたのだろう。恥ずかしさに顔が熱くなりながらも、しっかりと彼女から視線を外さない。尋ねた以上、しっかり顔を見て聞かねばならないのだ。
相手に見透かされるのは、自分の不甲斐なさだ。どれだけ格好悪くても、そこは耐えなければならない。貴族としてではなく、人として。
「それでも、私はあの髭のことを選びます」
彼女は微笑む。全てを飲み込む海のように懐が深い。
「それは、どうして?」
「それが、分からないんです」
苦笑いをしながら首を傾げるティネ。人の心は複雑怪奇なのだな、と私は思った。できればそこが知りたかった。たぶん、それが愛なのだと思うから。
「でも、損をしてでも、その人とともにありたいと思うのです。他の誰でもなく、あの人と。そう思う心が愛であり、それを強調、あるいは修飾する言葉として、“真実”が付くのではないでしょうか」
「なるほど。“真実”とか“偽り”という言葉自体に意味はないと」
「この場合に限っては、そうだと思います」
なるほど、そう来たか。うまくまとめるのはさすがだと思った。
幼い頃、勉強で解らないことがあるといつも教えてもらっていた。懐かしい日々が帰ってきたようで嬉しくなった。
最初にティネに尋ねて、本当に良かった。ごちそうさま。
◇◇◇
「ユールス。いいところに」
今度は弟だ。偶然廊下で出会い、強引に談話室へ連れ込んだ。
「なに、なにってば、姉さん!」
無言で手を引っ張られ、慌てふためく姿が面白い。笑いをこらえるのに必死だった。
席に座らせ、ティネが扉を閉めるのを確認してから、前と同じ質問を投げかける。弟は途端に真面目な顔を見せ、少し考え込んだ。
その間、私は弟の顔をじっと見る。こんな風に見つめるのは久しぶりだ。
毎日顔は合わせているが、眉毛一本までじろじろ見るわけではない。ちらりと見て、「こんな顔だったよね」という大まかな印象に合っていれば、それ以上は見ないものだろう。
……ふむ。私よりひとつ下のこの弟は、私には似ず、比較的鑑賞に耐えうる顔をしている。
何よりも目を引くのは、顔のつくりよりも燃え上がるように赤い髪だ。私の、レンガのようにくすんだ赤ではなく、深紅とでも言うべき、父と同じ目の覚めるような紅。
これくらい鮮やかな赤なら、私ももう少し自信が持てたかもしれない。
「ないんじゃないかな」
ほう、と私とティネの声が重なった。
「それは、なぜ?」
殿下が見つけたという愛を、弟はきっぱりと否定する。殿下に媚びないその態度は、今は頼もしく、好ましかった。
「だって、愛は愛でしょ。愛という言葉に嘘も本当もないと思うけどね」
「なるほど」
そう来たか。言葉からのアプローチだ。愛という言葉は一定の状態や状況を表すものであり、それ以上でもそれ以下でもない、と。
「じゃあ、殿下と私の間に、愛はなかった?」
「政略結婚は、義務でしょ?」
「う……」
こちらもばっさり斬られた。
私が甲斐甲斐しく手紙や贈り物をしていたのは、義務感から来ていたというのか。
ああ、でもそうか。少しでも心を開いてもらえれば穏やかな時間を共有できると考えるのは、共有しなければいけないという義務感から来ていたものか。
どうせ結婚するなら、穏やかな関係であればいいという、私自身のささやかな欲でしかなかったのだ。
「そっかぁ……」
私は脱力して、思わずテーブルに伏せてしまった。
「ねっ、姉さん? ごめん。言い過ぎた」
慌てる姿が可愛らしい。顔を上げて、大丈夫だと笑顔で示す。
義務かぁ……。まぁ、そうだろう。義務でなければ、あのレアンドル様と共にありたいとは……思わないわね。
お優しい方で、ハンサムだし、理想に邁進する才能や行動力があるのだけれど。
それでも、隣に立ちたいとは思えない。例え、私の容姿がもっともっと良かったとしても、そうは思わないだろう。色々とあるのだ。
え、ちょっと待って。それじゃあ、離婚した人はどうなんだろう。互いに愛し合って結婚して、離婚したら、そこにあったのは何だったのだろう?
愛ではなかった? 尋ねるとユールスは少し首を傾げ、解り切ったことをと言わんばかりに答えた。
「愛していれば添い遂げられたはずだよ」
「偽物の愛?」
「愛ですらないよ」
ううむ……なんだか、理論に無理やり当てはめているような感じがした。
「あえて言うなら、恋なんじゃないかな。愛に近くて、でも違うもの」
「恋」
また新たな概念が出てきた。なんだか、話が遠ざかっていく気がする。
「参考までに、なんだけど」
「ん?」
「アールレンハウト伯爵令嬢とは義務感?」
弟の婚約者だ。一度だけ会ったことがあるが、それはもう可愛らしくて、顔の良い弟とは本当にお似合いだった。どこかの破綻したカップルとは大違いだ。
「あ、いや、ヘールトロイデは、義務なんかじゃなく……」
最後はもごもごとして、よく聞き取れなかった。ここでも惚気を引き出してしまったか。まあ、上手くいっている人に聞けばそうなるよね。なかなか手厳しいなぁ。
「でも最初は義務だったんでしょ?」
「あ……うん。それは、そうだね」
「そこからどうやって愛に変わったの?」
「一目見てからだね」
「……現実を見せられたわ」
結局、私は殿下の好みではなかったというだけの話か。
腹が立ってきた。
だったら、王族なのに義務を貫き通さないってどういうこと?
結婚したあとなら、側室の一人や二人、認めてあげたのに。どうして私が正室じゃだめだったの?
公爵家出身ではなく、伯爵家出身の女性を正室に据える根拠が、“真実の愛”?
納得いかない。怒りが込み上げてくる。私は、存在しないものを理由に追放されたのだ。
◇◇◇
次に出会ったのは、偶然にも屋敷に来ていた従兄妹のアラルト・ファン・ヒルデンホーク伯爵だった。
彼は地方領主で、工芸品が特産のヒルデンホーク地方の領主だ。先代が商売に失敗した結果、急遽、私の叔母が嫁いだという経緯がある。
失敗につけ込んだのか、あるいは先方が頼み込んだのか詳しくは知らないけれど、結果としてヒルデンホーク家は我が家の影響下に入り、今では我が家の商売をも任されているのだから厚遇と言えるだろう。
彼は叔母に似ず、そこまで飛び抜けてハンサムではない。体も少したるんでいるし背も高くない。
でも、人懐っこく、自然と親しみを抱かせる魅力や、人との距離を簡単に縮める才能がある。
正面玄関から入り、従僕に帽子やコートを預けているところを、私はやはり“拉致”した。
「おいおい。情熱的なのは歓迎だけど、私は殿下から睨まれたくないんだけどね」
廊下でアラルトが苦笑いしながら言うのを無視し、談話室に引きずり込む。ティネが扉を閉めるのを確認してから、私たちは向かい合って座った。子供の頃からよく遊んでいた私たちは、それなりの気安さがあるから、多少の令嬢らしからぬ振る舞いも許される、はず。それに、今や殿下に何を言われることもないし。
「大丈夫よ。私、昨晩婚約破棄されたから」
呆れたような、しかし優しい笑みが、すっと彼の顔から消えた。帳簿を見るように真剣な目で私を見つめる。どんな気持ちでいるのか、私には読み取れなかった。
「やはり、そうだったのか……。私は今日、それを確かめにきたんだよ」
誤報だったらどれほどよかったか。呟く彼は衝撃を受けているようだったが、しっかりと冷静に受け止めていた。
悲しんでもいないし、怒ってもいない。まるで、強い風が吹き抜けても、ただ静かに佇でいる森のようだ。
「そうなのね。目的を達成できて良かったじゃない」
「そうだね。ありがとう。でも、嬉しくはないね」
ほぅ、とアラルトは息をつき、困ったように表情を緩めた。
「それでね、聞きたいことがあるの」
「いいよ。話してごらん」
「真実の愛って、何?」
「……それは、人によるかな」
新説が来た。私が尋ねる相手はどうしてこうも、私が興味を引かれる答え方を知っているのだろう。フックの強い人たちだ。
「しかし、君の淹れてくれる紅茶はいつも美味しいね」
彼は私の淹れた紅茶を褒めてくれた。今朝は苦かったのに。茶葉の量も、蒸らす時間もいつもと同じなのに。
もしかしたら、気を遣ったのかもしれない。彼は商売人でもあるから、いくつでも言葉を持っているだろう。
彼はカップを静かに置いて言う。
「愛の定義はね、たぶん人それぞれなんだ。だから、真実かどうかも、結局は人それぞれなんだよ」
「詭弁?」
思わず眉をひそめた。人それぞれなんて、今私が聞きたい答えではなかった。そんな曖昧な言葉で済まされたくなくて、彼の言葉を蹴飛ばしてしまいそうだった。
「いやいや。詭弁じゃないよ」
そうは言うけど、煙に巻かれたような気しかしない。
例えば、と彼は人差し指を立てた。
「政略結婚した夫婦がいるとする。穏やかな二人を見て、そこに愛があると主張する人もいれば、ただの契約関係だと言う人もいるだろう?」
「それは……まあ」
「言葉の定義ってうやむやなんだよね。だから、そういう意味で、人それぞれなんだ」
政略結婚であっても、良い関係性を築けていれば、当人たちの認識はともかく、“愛がある”と他者から言われることがある。
その評価をそのまま受け取る人もいれば、それは契約なので、たとえ良い関係性であってもそこにあるのは“偽物の愛”だと思う人もいる。
もし“偽物の愛”があるなら、逆に、本当に好き合って結婚した場合は“真実の愛”になるだろう。
「じゃあ、離婚した場合は“偽物の愛”だったってこと?」
「どうなんだろうね。結婚していた期間は“真実”だったと言う人もいるかもしれない」
引き裂かれた結果かもしれないし、あるいはそもそも愛ではなかったと言う人もいるかもしれない。本当に、人それぞれなのだ。そもそも“真実の愛”を定義しようという試み自体が難しいと彼は言う。
商売上、幾組もの夫婦や恋人を見た彼ならではの結論が、曖昧なものだった。
「むぅ……」
そんな曖昧なものに、私は翻弄されたというのか……。
「でも、この国にいる以上、王家の主張が全てだからね」
「それは、そう、だけど……」
納得できない。私は口をへの字に曲げ、うつむいた。負かされた気分だ。負けたと思わないのに、何も言い返せない。
なんだろう、この気持ち。もやもやが晴れない。考えれば考えるほど、もやもやが濃くなっていく。
目の前に答えがありそうなのに、手を伸ばしても空を切るだけだった。
「んー……」
アラルトが後頭部を掻いた。この従兄妹は、何か答えを持っていると直感した。
言ってしまうと、まずいことになるから言えない。でも言った方がいいと解っている。そんな葛藤が彼の顔に浮かんでいた。
「何かあるなら言ってよ」
上目遣いで唇を尖らせる。我ながら、可愛くない。アマラントさんならきっと絵になっただろう。誰もが彼女に心を奪われたはずだ。
「そうだねぇ……」
よほど言いにくいことなのだろうか。嫌だなぁと身構えてしまう。
「いいから」
私の気持ちとは裏腹に、口が促してしまった。従兄妹は紅茶を一口飲んだ。ゴクリ、という音がやけに大きく響く。
「……結局さ、君はどれだけ解釈を聞こうと、納得しないと思うよ」
「えっ?」
何を言っているのだろう。ああ、でもそうか。確かに私はこの後も納得する答えを得られるまで誰かに問い続けるだろう。
誰かが納得する答えを出してくれるまで尋ね続けることを“納得しない”と称するのならば、それは、その通りだ。
「そうじゃなくて。世界中の人に答えを聞いても、君は絶対に納得しないよ」
「そんなことはないわ。誰かがすっきり納得する答えを教えてくれるはずよ」
「無理だね」
「どうしてそう言い切れるの?」
「君の考えに、殿下が背いたからだ。納得したくないから。つまりこれは、君自身の中にある問題なんだ」
「な……っ」
「最初から、殿下が悪いと決めつけているからね。誰が何と言おうが納得できるはずがない」
「そんな」
「殿下が悪いなんて、誰も言わないよ。言えるわけがない」
この王国では、王族の意見が優先されるのは絶対の真理だ。
だから、私は永遠に納得できる答えを求め続けることになると?
「あ……あ……」
体が震える。ティネが慌てて駆け寄り、私を胸の中に抱きしめた。
「伯爵閣下、もうこれ以上は」
「分かっているよ。言うべきことは言ったしね」
椅子がカーペットの上を滑る音がした。
「あとは、君のお父様、カイペル公爵に尋ねるといい」
足音が遠ざかり、扉が開き、そして閉まった。
私の、問題……?
◇◇◇
「ご無理をなさらずとも……」
ティネが引き止めるけれど、私は止まらない。ここまで来て、残りの話をまた今度にするなんてできなかった。
ムキになっている自覚はあった。でも、私が悪いという流れには、どうしても納得がいかない。
なぜ、私が悪いの?
端的に言えば、これだ。
一方的に婚約破棄された私が被害者なのに、どうして悪く言われなければならないのか、まるで理解できなかった。
父に聞け? 聞いてやろうじゃない。父ならきっと私を救い出してくれる。沼に沈みそうな私を、引き揚げて、きれいに洗い流してくれる。
執務室に飛び込んだ私を父は優しく出迎えてくれた。さすが父様。
「……うん、そうだね。最初から行こうか」
「はい」
柔らかな口調で、優しく諭すように父が言う。
そうよね。父がいきなり悪いのは殿下だと怒り出すのは不自然だもの。
いつも通り、穏やかに真実を詰めるのだろう。
「まず、真実の愛はあると私は考えているよ」
「えっ……」
驚いた。人による、でもなく、言葉の定義がどう、でもなく、あると断言したのだ。ティネと同じだ。
「言葉遊びだけどね」
ぽかんとしていると、父は苦笑いしながら付け加えた。
「手前味噌ですまないが、私と君の母であるリーズベットは、政略結婚だったよ」
「はい」
それは知っている。公爵同士の繋がりを強めるために、両親は結婚した。
「そして今。私は、変わらずリーズベットを愛している」
それも知っている。見ていればわかる。政治的な理由で離婚した今でも手紙を出し合っているし、何より父自身は後添えを迎えていない。あれ? さっきアラルトが……。
「いつからそのお気持ちに?」
「さぁ、いつからだろうね。気が付けば、そうなっていたよ」
政略結婚だから、最初は当然、義務感が先に立った、と父は言う。
「殿下の気持ちもね、解らなくはないんだ。私だって義務と考えていた時期に、この人だと思う人に出会っていたらどうなっていたか」
「そんなことって……」
それは少し、節操がないのではないだろうか。
「まあ、普通は我慢するけどね」
そこは、殿下の若さゆえだね、と父は笑った。普通なら結婚後しばらくして、側室として迎えるか、愛人とするかだろうと言う。
そんなことを笑いながら話す父は、確かにいつもと変わらない爽やかな笑い声だったけれど、なぜかそうは思えなかった。
「……では、若さゆえのせいなのですか」
若さで婚約破棄が許されるというのか。全てが。
「それだけじゃないよ。さっきの続きだけど、私たちは結婚して、いつしかリーズベットを愛してしまった」
「はい」
「ああ、この人だ、と思うようになった」
ティネと同じような話になってきた。
「時間の問題ですか?」
「そうとも言い切れないよ。努力の量とも違うしね……人は、生きているんだ。考え方、大事にするものはそれぞれ違う」
あれ? 今度はそれぞれ論だ。
「それぞれ違うから、努力や時間で確実に義務の状態から愛しているという状態に変わるとは言い切れない。全く変わらないことだってある」
それこそ、私と殿下のように、ということ?
「君は、そこがまず納得いかなかったんじゃない? 結果が出なかったことに。無駄な努力をしてしまった、大切な時間をかけてしまったのに何も得られないなんてひどい、と」
「それは……」
違う、とは言えなかった。そんなことなんて思わなかったはずなのに。
「長い時間、一生懸命頑張ってきたのに、全く芽が出ず、意味をなさなかったら、そりゃあ腹も立つよね」
それは……まあ、普通に考えたらそうだ。
私だって、似合わないと思いながらも王太子妃の座が、そして次に続く王妃の座があると思えばこそ努力した。
勉強して、自分を磨いてきた。やりたいこと、興味あることから目を背けてきた。背けざるを得なかったのだ。
なのにいきなり、「君は王太子妃にはなれないよ。王妃なんて、無理だよ」と言われた日には。
「私のやってきたことは何だったんだ、となるのは当たり前じゃないですか」
自分の努力をすっぱり否定されて誰が嬉しいものか。これまでの時間を返してほしい。努力を返してほしい。全て。銅貨一枚に至るまで。
すっとティネが隣に立ち、私の片手を取った。温かかった。見れば父も優しく頷いてくれた。
「悔しい気持ちは分かるよ。でも、君の努力は本来、殿下のためでも地位のためでもなく、君のためだけにされてきたはずだよね」
「え、私は、殿下の隣に相応しくあるために……」
「殿下や王妃の座は、君を美しく着飾るアクセサリーでしかないはずだ」
そこがゴールで本当によかったのか。そこに辿り着いた後、したいと思っていたことがあったのではないか。父はそう問いかける。
確かにその通りだ。王太子妃や王妃の座は、通過点だ。思い出した。
私は、よき政治をしたかった。できるだけ多くの人を幸せにしたかった。
そのためには、知識が必要だった。マナーを身につける必要があった。ダンスも踊れる必要があった。
だから、時間を惜しんで学んだのではなかったか。
そうか。私はぎゅっとティネの手を握り返す。
私は、困ってしまっていたのだ。
王太子妃や、王妃という地位がなければ、できないことがある。
そこに自分の夢を置いていたのに、夢へと続く階段を取り上げられて、困ってしまったのだ。
「そう。あとね、殿下は殿下なりに誠意を見せてくれたよ」
「え? どこが?」
冗談じゃない。一方的な不義理な破約ではないか。あれを誠意と言うなら、世の中誠意で溢れかえって、平和で優しい世界が実現しているはずだ。
「残念だけど、君と殿下の間では見つけられなかった愛を、殿下は見つけてしまった」
「っ!」
「見つけてしまった以上、偽ることはできないんだ。側室や愛人にすることは、その真実を偽物にすることとなる。だから、婚約破棄をした」
「……それが誠意だと?」
「そう。若さゆえの誠意だね」
父は頷いた。しかしそれは、私に対する誠意ではなく、アールスホット伯爵令嬢への誠意ではないか。
「君にも、謝罪の言葉はあったはずだよ。それに、改めて文書と、賠償の品が届いている」
「そんな、ものが……」
泣きそうだった。視線が上げられない。
誠意ある態度を取っていたのは私の方なのに。誠意があるなら婚約破棄なんてしてほしくなかった!
「あ……」
そこで気づいた。気づいてしまった。私は両手でティネの腕にすがりつき、ティネを見上げた。
「どうしよう、ティネ。私の、問題だった……」
「お嬢様……」
ティネは、今にも泣きそうな顔をしていた。
従兄妹の言う通りだった。
私は、殿下が、私の描いた私の未来を閉ざしたから、許せなかったのだ。
だから、私が理解できなかった“真実の愛”という言葉に目をつけ、そこから殿下の不実を鳴らして、あったはずの日々をどうにか取り戻せないかと思ってしまったのだ。
「私は、私は……」
首を振る。恐ろしい。知らず、こんな恐ろしい考えを抱いていたなんて。
「どうしてこの家の方々は、とてもお優しいのに、厳しいのでしょうかね……」
ふわりとティネに抱きしめられた。温かくて、安心する。幼い頃に母がこの家を去ってから、ずっと母親代わりだった優しいティネ。助けて、ティネ。
「面目次第もないね。いつも苦労をかける」
「夫をもう少し厚遇して頂けましたら」
「功績を立てたら喜んで加俸するよ」
「ですよねぇ。うふふ、残念です」
……なにやってるの、この人たち。
なんだかめそめそしているのが馬鹿らしくなってきて、でも恥ずかしかったので、おずおずと顔を上げた。
「おっ、やはりこの家の女性は強いね。もう泣き止んでいる」
父が嬉しそうに囃し立てた。いつもの、よく知っている爽やかな風が吹いていた。
「……お母様もそうでしたか?」
「たおやかさって言葉の意味を忘れてしまったよ。ティネも強いよね」
「まあ、なんて酷い」
両肩をすくめる父に、ティネが頬を膨らませる。年齢のことは言わないが、今でも充分な愛嬌があって、ティネの旦那さんが羨ましいとさえ思う。こんな女性になれたらいいと思った。
「ふふっ。もう、本当に……」
本当に、みんな大好きだ。後でユールスやアラルトにも感謝と謝罪をしよう。きっと、笑って頷いてくれるはずだ。
私が席を立とうとすると、父が呼び止めた。
「アンネリース。少し、休むといい」
「はい。そうします」
正直、疲れた。少し眠りたい。
「それともうひとつ」
「はい」
「努力は消えないよ。君の見識は同級生の中では随一だ。その辺の令嬢なら、現実逃避の先駆けとして、アールスホット伯爵令嬢を罵っていただろうね。伯爵ごときが、って」
「それは……」
あるだろうな、とは思った。
物語でもよくあるセリフだし、そう言いたくなる気持ちは、実は解らないでもない。
格下に出し抜かれて気持ちのいい人はいないだろう。
だから、すごく美人だから仕方がない、みたいな理由を付けて、なんとか諦めようとしたのだ。
もちろん私の顔が普通なのは理解しているけれど、それでも、言いたくなるものだ。
「言わないだけでも、充分さ。君は理知的で、理性的だ」
「ありがとうございます」
私は深々と頭を下げる。
「それと……君は、充分きれいだよ」
隣のティネが何度も頷いていた。そんなことないと思うけど。これは親の贔屓目だ。
少なくとも、あの場所に立つには足りない、と私は思う。
「いいえお嬢様。美しさは、内面から溢れ出るものです」
うまく言うなぁ。
小さく手を振る父にもう一度礼をする。やはり父は私を救い出してくれた。沼で頭まで沈みそうになっていた私を、引き揚げてきれいに洗い流してくれたのだ。
◇◇◇
休む前に、もう一度食堂へ足が向いた。
なんとなく、もう一度紅茶を淹れたかったのだ。
気遣うティネに紅茶だけだと頼み込み、許可を得て食堂へ。昼前の食堂には誰もいなかった。
まあ、当然だ。そして、誰もいない方がいい。少し恥ずかしい気持ちもあったから。
「さて……」
茶葉を準備して、私はふと気づく。
「そういえばこれ、殿下がくださったものだったわね……」
ずきりと胸が痛んだ。一瞬、捨ててしまおうかとも思った。
そうね。今回が最後にしよう、そう心に決めながら、慎重に紅茶を淹れる。茶葉の量も、蒸らし時間も、今朝と同じにした。
「……あら」
淹れたての紅茶は、とても、美味しかった。
「ねぇ、ティネ」
私は、思い出したことがあった。父に聞こうとして、すっかり忘れていたことだ。
「はい、お嬢様」
「この人だ、って思っても、離婚することってあるのかな?」
「そうですねぇ……」
ティネは頬に手を当て、首を傾げた。その仕草は、どこかろうたけて見えた。
「あると思いますよ」
少し間が空いて、彼女の口から出たのは、肯定の言葉。
「それはどうして?」
「人は、生きている限り、良くも悪くも変わります。たとえこの人だと思っていても、環境や経験によって変わった結果、この人だと思えなくなることもあるのではないでしょうか」
「ああ……なるほど」
「あるいは、旦那様のように、政治的な理由でお別れになっても、未だに奥様を愛してらっしゃる方もいらっしゃいます。本当に、人それぞれなのです」
「そうね……そうよね」
なんとなく腑に落ちた。アラルトの言葉が、ようやく理解できた気がした。
私の怒りは、婚約破棄ではなく、私の未来設計を反故にされたことだった。
私は、それが許せなかった。殿下を攻撃する口実が欲しかったのだ。
そして、当時の私には理解できない“真実の愛”を口実とした。
だから、どれほど解説されても、理解するわけにはいかなかった。
だって、理解してしまったら、殿下を攻撃する理由がなくなってしまうから。
アラルト、やるわね。さすが敏腕商人。相手の心を理解するのはお手の物なのかしら。今度会ったら聞いてみよう。
「ふぅ」
しかし、紅茶がおいしい。なんだか現金な話だけれど、この茶葉はこれからも使い続けよう。茶葉に罪はないのだから。
父やティネ、そして殿下――。
彼らの言う「真実の愛」は、私にはまだ完全には理解できないものなのかもしれない。
ユールスは、これから何があるかわからないから保留としておこう。弟のくせに私より先にそれを手に入れるなんて生意気だ。
でも、確かに――。
真実の愛は、あるのだと思う。