あなたに、もう一度会えた奇跡
娘が生まれた日のことは、今でも昨日のことのように思い出せます。
私たち夫婦にとって、彼女は待ちに待った、まさに「授かりもの」でした。
小さな身体に、不釣り合いなくらい大きな瞳。そして、産声よりも早く、私の目を見て笑った気がしたんです。そんなわけ、ないんですけどね。でも、そうとしか思えないような、不思議な空気を持った子でした。
娘は名前を「紬」といいます。
赤ちゃんのころからよく笑う子で、夜泣きも少なく、物分かりも良くて、私は時々心配になるくらいでした。
子どもって、もっとわがままで、もっと手がかかるものじゃないの?って。
でも紬は、あまり手を焼かせることなく、すくすくと育っていきました。
好きなものは絵本と折り紙。人と争うことが嫌いで、誰にでも優しく、でもどこかいつも大人びている。まるで、自分の中に何かを知っているような、不思議な雰囲気がありました。
そして、あれは確か紬が四歳の春でした。
いつも通りの朝。私は保育園に送ってから仕事に行く予定で、支度をしていると、突然、紬が私の腕を掴んで言ったんです。
「お母さん、今日はお仕事に行かないで!」
びっくりしました。
紬はこれまで一度も、そんなことを言ったことがなかったんです。
私が仕事に行くのも、保育園に行くのも、まるで空気のように受け入れていたはずの子が、その日ばかりは泣いて、暴れて、私のスカートの裾を必死に掴んで離さなかった。
「どうしたの、紬? 具合悪いの? どこか痛い?」
いくら聞いても、「だめなの、だめなの!」としか言わない。
目を真っ赤にして、泣きながら何度も頭を振って、「行かないで!」って言うんです。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるような気持ちになりました。
普段から大人びている彼女が、ここまで取り乱すなんて、ただ事じゃないと私の直感が騒いでいました。
結局その日、私は会社に連絡して急遽お休みをもらいました。
午前中は家で一緒に過ごして、午後には少し落ち着いてきた紬を連れて近くの公園に行きました。
桜の花が満開で、ひらひらと花びらが舞い落ちる中、紬は私の手をぎゅっと握って離さず、まるで「今、この時間を残したい」と言っているように、静かに笑っていました。
「大丈夫だったかな……」
そんな私の不安をよそに、特別何も起きることはありませんでした。
でも、それからというもの、紬は時々ふとした時に「死んじゃうってどんな感じかな」とか「生まれる前って覚えてる?」なんてことを言い出すようになったんです。
最初は空想遊びの延長だと思っていました。
保育園でそういうお話が流行っていたり、テレビの影響かもしれないし。
でも、その内容があまりに具体的で、年齢にそぐわない言葉を使ったり、知らないはずのことを話したりして、次第に私はただの「遊び」ではないのかもしれないと思い始めました。
とはいえ、私も夫もそれ以上深くは詮索しませんでした。
ただただ、大切な娘との日々を守ることで精一杯だったんです。
――そして、あの日が来ました。
いつものように夕食を終え、夫と三人でテレビを見て、お風呂にも入り、歯を磨いて。寝室で布団を並べ、川の字になって寝ようとしたその時。電気を消し、「おやすみ」と言った直後、紬がぽつりと、私に語りかけてきたのです。
「伝えたいことがあるの」
その声は、いつもよりもずっと落ち着いていて、でもどこか涙を含んだような響きがありました。私も夫も自然と身を起こして、紬の顔を見つめました。
「私、実は前世で今日死んじゃったんだ」
私も夫も、息を呑みました。娘は続けます。
「もしあの朝、お母さんを止められなかったら……お母さん、事故に遭ってたと思うの。それで、足が動かなくなって……そのあと、私が事故に遭ったとき、助けに来られなかったの」
紬の声が、少し震えました。
「そのとき、私は死んじゃったの。ひとりで、すごく怖かった……」
そして、絞り出すように言葉を続けました。
「でもね、死んだあと、ママとパパがすごく悲しそうな顔をしてて……それが一番、つらかったの」
私は、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じました。
「だから神さまにお願いしたの。『もう一度だけ、やり直させてください』って。『今度は、ちゃんと止めるから』って」
暗がりの中、私たちはただ紬の言葉に耳を傾けました。
「それで今、私はここにいるの。ママとパパのところに、もう一度、生まれてきたの」
紬は、私たち一人ひとりの顔を見るように視線を巡らせ、そして最後に、私たち二人を包み込むような優しい笑顔で締めくくりました。
「この前、ママを止めた日……あれが、全部が変わる日だったの。ちゃんと止められて、本当によかった」
「ママとパパの子どもになれて、私はすごく幸せ。ほんとにありがとう。これからも、よろしくね」
私は何も言えなくなって、ただ、紬をぎゅっと抱きしめました。気づけば涙が頬をつたっていて、隣では夫が静かに頷きながら、私たちの背中に手を添えてくれていました。
その夜、私は娘の温もりを感じながら、なかなか眠ることができませんでした。「そんな話、あるはずがない」――そう思う一方で、あの子の目も、声も、涙も、確かに“ほんとう”だと、そう感じていました。理由なんて、もうどうでもよかったんです。あの朝、泣きじゃくって私を引き止めたその手に、そしてあの夜の言葉に、私たちへの深く、大きな想いが詰まっていた。
そして私は心から思いました。
――こちらこそ、生まれてきてくれて、ありがとう。