草原の嫁入り物語 〜居場所を持たなかった少女が、家のしるしを縫うまで〜
馬の揺れに身を任せながら、サラナは草原の彼方、白く沈む天幕の気配を感じた。
円く低く構えたその天幕──ユルト。
本来は、風と共に旅する移動住居だが、ここでは土台を据えて定住の家として使われているという。
今夜からあれが自分の住処になるのだと思うと、サラナの胸の奥にひたりと冷たい鉛が沈む。
その時、馬の歩みに合わせて、腰のあたりの毛皮袋がもぞりと動いた。
「もうすぐだよ、ボルテ」
小さく声をかけると、灰色の子犬──ボルテが、袋の口からひょこりと顔を出した。
馬の揺れにもまだ慣れていないこの子の為に、袋の口はゆるく留めてある。
けれど、中が暑すぎないか気になって、何度も手を添えてしまう。
ボルテは、突然変異なのか、それとも別の理由なのか、体は大きくならず、吠えることもできない。
生まれてすぐに母犬に見放された子だが、サラナにとっては、誰よりも寄り添ってくれる、かけがえのない存在である。
風に撫でられた草の海がざわめき、陽が赤く傾きはじめた。
隣を行くアルスラン・トゥグルは、無言のまま馬を進めている。
整った額と高い鼻梁。日焼けした肌に、淡い茶髪。
伏せた青灰色の瞳に睫毛の影が差し、ケープの隙間からのぞく背筋には、積み重ねた年月の輪郭が、かすかに滲んでいる。
齢十九。〈風の部族〉の長・トゥグル家の長男。
歳はたった二つしか違わないのに、その横顔には、とても追いつけない何かがあった。
──今日の昼過ぎ、彼は集落の外れに馬を止めて待っていた。
人目を避けるように。……あるいは、サラナの立場を察してのことだったのかもしれない。
ボルテを連れて行きたいと伝えた時も、何も聞かず、一つ頷いただけだった。あっけないほど、あっさりと。
無口だが、きっと優しい人なのだろう。
少なくとも、その静けさは、サラナを責めることがなかった。
政略結婚。
その響きが胸に落ちた時の感情を、サラナはいまだに言葉にできずにいる。
婚姻の話を告げられたのは十日前。
支度はその日から始まった。
しかし、サラナに渡されたのは、ありあわせの道具と、投げやりな指示のみ。
そもそも、この婚姻の名に挙がるのは、自分ではなく、ノミンだと思っていたのだ。
〈火の部族〉の長の分家──オロダイ家の娘であるノミンに対し、サラナは居候である。
だからこそ、なぜ自分が選ばれたのか、分からなかった。
誰も理由を明かさず、問いただすことも憚られた。
ノミンは、その日を境に、あからさまな不機嫌を隠そうともしなくなった。
物を渡す時には、わざと強く押しつけてきて、肩をぶつけてくることもあった。
草原の民にとって、婚姻とは血を繋ぎ、部族を越える唯一の契約である。
そこにあるのは感情ではなく、土地と季節、群れと生の摂理だ。
サラナはそれを理解していた。納得もしている。
けれど、頭ではわかっていても、心はついていけなかった。今も心には薄く硬い膜が張り、想いは行き場を失っている。
……また、『よそ者』になるのだろうか。
サラナの居場所は、いつも『線の外』だった。
囲炉裏の輪には加われず、配られるのは決まって最後。器には、汁の少ない粥と、底の黒ずんだ鍋の残りがよそわれた。
空腹を訴えれば「我慢を覚えな」と嗤われ、風邪をひいても「気のせいだ」と外に出された。
家族の輪は、いつも自分の背後にだけ広がっていた。
言葉をかけられても、返せば咎められるので、いつしか黙ってうなずくようになった。
どれほど丹念に針を進めても、それが誰の手によるか、公になることはなかった。
仕上がった布は、結縁の火祭の贈り物や催事の展示物として、ノミンの名で提出された。
サラナの針仕事であることは、オロダイ家の者以外、誰も知らない。
それが当然なのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
それでも、ボルテだけはそばにいた。
四年前、抱き上げた灰色の子犬は、今も寄り添ってくれている。
それだけで、生きてこられた。
なのに、いまだに『家族』を願ってしまう。
この婚姻が、その始まりになるかもしれない。そんな期待が、胸の奥に図々しく居座っているのだ。
しかし、風が吹き抜けた時、心の芯にヒビが入った。
……初めから、根づくはずのない想いだったのかもしれない。
そう思うと、下唇がじくりと痛んだ。
空はすでに、夕暮れの気配をまといはじめていた。
ふと、アルスランがわずかに身体を前に傾けた──風とともに伝わる、かすかな気配でそれが分かった。
「寒くないか?」
草の音に紛れる低い声に、サラナは目を上げ、首を横に振った。
「だ、大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」
「……そうか」
アルスランが手綱をゆるめ、馬の歩調が並び、距離が縮まる。
たったそれだけで、何かが変わった気がした。
◇
ユルトに着いた時、空の端には星の気配がほのかににじんでいた。
地平線は深い橙に染まり、長く伸びた草の影が夜の訪れを告げる。
集落からは薪をくべる音と、立ちのぼる煙の匂いがした。
鞍から降りようとした時、先に地に立ったアルスランが、無言で手を差し伸べる。
その手に触れる直前、ほんの一瞬、ためらいが走った。
……逃げたいわけじゃない。
ただ、急に恥ずかしくなって、どうしていいかわからなくなった。
「ここが、あなたの──俺たちの家になる」
その言葉に、サラナは小さくうなずいた。
けれど、目を合わせる勇気は、まだない。
厚く重ねた羊毛の壁に、内布が張られ、その上に家族のしるしを縫い込んだ刺繍布が飾られていた。
「……知ってると思うけど、刺繍には全部、意味がある」
アルスランが、手の甲で軽く一枚をなぞった。
「〈風の部族〉では、刺繍と石碑と骨が、昔の記憶を残すものだと言われている。たとえば、この馬の蹄跡は、父が越えた大雪原。隣の花は、母の育てた薬草畑」
そう言いながら、彼の指はさらに右へ移動する。
「これは、祖父が若い頃に放牧中に迷って、狼とにらみ合いになった時の印だ。ほら、この小さな槍と足跡の文様。祖母が、帰還を祝って縫ったと聞いてる。俺と妹の分もあるけど……それはまた、あとで話そう」
一本の糸が、季節を越えて物語を紡いでいく。
それは祈りであり、家族の証であり、祖霊の記憶へと溶け込んでいくものだと、草原の民は信じていた。
──いつか、この布のどこかに自分の一針が加わる日が来る。
旅路をあらわす矢印模様。
家族を守る鷲の羽。
祝福を意味する風車の文様。
幼い頃、刺繍に心を奪われた記憶がある。
ひそやかで、誰にも語れなかった、小さな憧れ。
……今なら、自分の針で、誰かと共に歩む物語を縫いとれる気がした。
サラナは、ユルト内にゆっくりと目を巡らせた。
骨組みに張られた羊毛の織物、赤くゆらめく炉。小さな木机に座布、複雑な編み方の毛布。梁から吊るされた薬草の束と、革の水袋。
隅には魔除けの人形と、小さな祭壇のような棚があり、誰かの手による古い刺繍と乾いた花が飾られていた。
どれも、大切にされている。
……この空間はまだ、自分のものではない。
でも、いつか、ここに根を張れるかもしれない。
ううん、ここに根を張っていきたい。そう思う。
足元で、ボルテがくるりと回って炉のそばに身を丸める。
その姿を見て、ようやく肩から力が抜けた。
──この子も落ち着いているし、きっと大丈夫。
「腹は減っているか?」
棚から鍋を取り出しながら、アルスランが問う。
「……あ、は、はい。いえ……その、すみません」
「謝らなくていい」
彼はそう言い、鍋に水を張って火にかけた。
「あ、あの、私がやります」
「いや、移動で疲れただろう? 俺が作る」
「……ありがとうございます」
「座ってて」
干し肉と根菜が加わり、鍋からふわりと湯気が立ち上がる。
サラナは言われたとおり座ってみたものの、どうにも落ちつかず、つい傍らに立って鍋を覗きこんでしまう。
「……好きにしていい」
アルスランがちらりと目を向け、ほんの小さく笑う。
「は、はい。では、あの……見ててもいいでしょうか?」
「いいよ」
彼は鍋を見守る合間に、干し肉を一切れ水に浸して塩を抜き、細かく裂いて木皿にのせ、床に置いた──どうやらボルテ用らしい。さらに、水で薄めた山羊乳を注いだ皿も添えてくれた。
その気遣いが、ひどく嬉しい。
続いて彼は、鉄板に手早く平たい生地を広げていく。
ぱちり、と焼ける音がして、香ばしい匂いが空気に溶ける。
やがて湯気をまとった焼きたてのパンが、木皿に並べられた。表面はこんがりと焼け、ほのかな光をまとっている。
鍋では、山羊の乳のだしに干し肉と野菜がゆっくりと溶け合っていた。
ふわりと立ちのぼる香りに、胸の奥の空白が埋められていく。
スープができあがると、彼が木の椀によそう。
「熱いから気をつけて」
「……はい、ありがとうございます」
受け取る際、ふっと触れた指先の感触が驚くほど胸に残った。
食後、アルスランが整えた炉の音が、ユルトの中に響いていた。
彼は毛皮を広げ、背を向けたままで穏やかに言う。
「今日はここで眠るといい。幕は閉じるが、何かあったらすぐ言ってくれ。俺は父上のユルトで寝る」
草原では、結婚初日に夫婦が別々に眠るのは珍しくない。
互いに心を整え、歩調を合わせる為の時間だそうだ。
幕が下りると、サラナは毛皮に身を横たえた。
ボルテがぴたりと寄り添い、鼻先で頬をちょんっと押してきた。思わずくすりと笑みがこぼれる。
天井の春仕様の覆いのすき間から、夜空の星がのぞいていた。
それは、あまりに遠く、あまりに美しかった。
まぶたの裏にあたたかいものが滲み、ボルテが心配そうにサラナの頬を舐める。
「大丈夫。……大丈夫だよ、ボルテ。……悲しいわけじゃないの」
こぼれた涙は、痛みではなく、ほどけていく心の証だった。
◇◇◇
夜明けの草原は、まだ眠りの余韻を引きずっていた。
冷たい空気のなか、地平線の向こうから光がじんわりと溢れ出す。
こんなにも深く眠れたことが不思議だった。
ボルテがぴたりと寄り添う気配に、意識が現実へ引き戻される。
外では薪を割る音が響いていた。
一定のリズムに乗せて、無駄のない動きが音になっている。
──アルスラン。
ただ名前を思い浮かべただけで、外気の冷たさが、ほんの少しやわらいだ。
顔を洗ってユルトを出ると、少し離れた場所に、その姿があった。
背を向けて、斧を振るう動きは淡々としていて、でもどこか整っていた。
「……お、おはようございます」
サラナの小さすぎる声に、彼──夫がゆっくり振り返る。
「おはよう。眠れたか?」
「はい」
そう返した時、頬にぽっと熱がのぼった。
そばに寄ると、薪がきちんと束ねられ、整然と並べられている。
その形の一つひとつに、几帳面さと誠意が見えた。
「今日は、少し特別なことがある」
「特別なこと……ですか?」
「うちの部族では、妻を迎えたら祝いの膳を家族で囲むんだ。ささやかだが、参加してほしい」
一呼吸、胸の奥で音が止まった。
この地では、婚姻とは、ただ名乗ること──それだけで契りとされ、式も指輪もない。
その代わりに、〈風の部族〉では家族が集い、祝いの膳を囲む。それが、家の一員として迎え入れる儀式なのだそうだ。
つまり、自分はちゃんと、この場所に迎えられたのだ。
形式ではなく、誰かの真っ直ぐな意思として。
「……はい、ぜひ」
自然にこぼれたその一言に、自分がいちばん驚いていた。
それを口にできた自分が、ほんの少し誇らしかった。
◇
夕暮れが、草原を橙色に染め上げる。
ユルトのまわりには、人の声と料理の香りが漂っていた。
集まったのは、彼の家族──祖父母、両親と妹。加えて、親戚や近しい者たち。
それぞれが手ずから持ち寄った料理が、炉のそばに並べられている。
草原では、祝いの席に料理を持ち寄るのが習わしだという。
サラナにとっては、初めて目にする光景だった。
よそ者として育ったサラナは、他部族はもちろん、同じ集落の風習すらよく知らない。
だけど今、誰かの為ではなく、自分の為に用意された場所にいる。
アルスランの母が、麦粥の鍋をゆっくりとかき混ぜながら、気さくに笑いかけてくる。
「春の祝いは、麦と干し果実。寒いうちに干したのが、ちょうど味が染みて、柔らかく戻る頃なんだよ。夏は塩漬けの羊で、秋冬は穀物酒に果実酒かねぇ。あとは、アルスランの好きな焼きチーズもあるねぇ」
鍋の中では、麦粒がふつふつと小さく音を立てていた。
ふやけた果実がほどよく煮え、ほのかな甘い香りが、湯気に溶けて立ちのぼる。
「これは、この家に伝わる祝いの料理よ。アルスランがまだ小さい頃、作っているそばから『まだ?』って何度もせがんでねぇ。焦がさないよう、私がずっと鍋のそばに張りついてなきゃならなかったのよ、ふふ」
懐かしげな声が、湯気の向こうから届く。
それは、長く続く冬の果てに訪れる、あたたかな物語のはじまりのようだった。
賑やかだった宴がひと段落し、人々がそれぞれの住処へ帰る。
ユルトの前には焚き火だけが残り、サラナとアルスランは肩を並べて炎を見つめていた。
ふと、彼が呟く。
「嫁いでくれてありがとう。……大事にする」
飾り気のない、短い言葉。
けれど、その端に宿っていたのは、まっすぐな真心だった。
青灰色の瞳を見た時、それが確かに伝わってきた。
誰かのまなざしに真正面から包まれる。
そんな感覚を、どれだけ忘れていたのだろう。
沈黙までもが、あたたかいと感じることがあるなんて。
──ああ。
根を張っていた『よそ者』という影が、音もなく解けていく。春の雪解けのように、一滴ずつ。
アルスランの袖が、自分の腕にふれる。
わずかな布越しの接触に、胸の奥で、確かな想いが動き出すのを感じた。
──この人の隣で、あの頃から夢見ていた『家族』を築いていきたい。
それから、サラナは進んで働くようになった。
誰よりも早く目を覚まし、焚き木を集め、水を汲み、炉に火を入れる。
自分のユルトの仕事を終えると、義家族のユルトの仕事を手伝いに向かった。
芋の皮をむき、干し肉を裂いて塩加減を整える。いつも通りの作業なのに、拍手が起きて戸惑った。
刺繍にいたっては、「きれいな手つきだねぇ」と声をかけられた。
魔よけ人形の絵付けに夢中になっていると、義妹が覗きこみ、「じょうず!」ときらきらした目をして笑った。
家畜の世話も苦ではなく、水桶を替え、柵の補修にも手を貸せば、えらく感謝された。
そのたびに、胸の奥がふわりと温かくなった。
役に立てることが、嬉しかった。
だから、次から次へと手が動いた。
止まったら、何かが壊れてしまいそうで。
動きを止めるのが、怖かった。
本当の家族なら、きっと何もしなくても受け入れてくれるのだろう。
けれど、サラナには、それが分からない。
『役に立つこと』『迷惑をかけないこと』──それが、ここにいていい理由だ。
だから、もっと馴染みたい。
ちゃんと、この人たちの家族になりたい。
その一心で、体を動かし続けた。
◇
朝霧に包まれた草原で、炉に薪をくべる音だけが響いていた。
羊乳の袋を手に、サラナは誰よりも早く外へ出る。
頬に触れる冷気をものともせず、ただ手だけを動かし続けた。
草刈り。道具の手入れ。織物の準備。
頼まれたわけではない。
ただ、そうしていれば、ここにいてもいい気がした。
少しでも、好かれたかった。
「そんなに働かなくていいんだよぅ」
昨日、アルスランの母にやんわりと言われた言葉が、まだ胸に残っている。
「もうすこしのんびりしても、だれもおこらないよ?」
幼い義妹も、同じように言ってくれた。
でも、その優しさは、なぜか遠くにあるように思えた。
オロダイ家では、黙って働くことだけが、居場所を守る手段だった。
そう思い込んできたせいかもしれない。
だからサラナは、無理をしていることに、自分でも気づかないふりをしていた。
そしてもう一つ。
──初夜が、近づいていた。
明日から、彼と同じユルトで暮らすことが決まっている。
そのことが、ずっと頭のどこかにあって、胸の内が落ち着かず寝不足だった。
嫌なわけじゃない。本当に、違う。嫌なわけがない。
ただ、どうしようもなく、じっとしていられなかった。
だから、手を止められずにいた。
気づけば、心を糸に乗せて針先に想いを託していた──星空が、少しずつ明るみに溶けていくまで。
そして、その日の午後。
陽が傾きはじめた頃、張りつめていた何かが音もなく切れた。
眩暈だ。
と、思った次の瞬間、手の中の薪がばらりと音を立て、膝から力が抜けた。
地面が近づく。
「──サラナ!」
誰かの声が、風の流れに逆らって耳に届く。
風が急に止んだ気がして、全身から力が抜け、世界は暗転した。
次に目を開けた時、毛皮が肌に触れていた。
炉の火がゆらめき、やわらかな明かりが部屋を照らす。
隣ではボルテが寄り添っていた。
熱の残る額。ぼうっとした頭。
体は動かず、心だけが変に澄んでいく。
「……ごめんなさい、わ、私……」
言った途端、罪悪感が胸を満たした。
空回りしていたようで、誰かの負担になっていたようで。
だが、すぐに声が返ってくる。
「謝らなくていい」
「でも、刺繍も皮むきも厩の掃除も──」
「そんなに無理をしなくていいんだ」
湯気の立つ粥をよそいながらも、彼の声には揺るぎがなかった。
香草の匂いがふわりと鼻をくすぐり、涙がにじむ。
「……私は……役に立ちたいんです。ここに、ずっと、居たいんです。アルスラン様たちに、本物の家族だと思ってほしいんです……」
言ってしまったあとが怖くて、目をぎゅっと閉じる。
だが、そのすぐあとに届いた声は、あまりにも早かった。
「皆、もう家族だと思ってる。サラナは、本物の俺の家族だ。ずっとそばにいてほしい。心から、そう思ってる」
呼吸の深さが、ふっと変わった。
「役に立ちたいって言うなら……むしろ、我儘を言ってほしいくらいだ」
サラナは、一度唇を開きかけて、迷ったように閉じる。
けれど、それを逃せば、もう言えなくなる気がした。
「……では、あの……」
声は細く、震えていた。
「なんだ?」
アルスランの問いかけに、サラナはほんの少し躊躇い、それから、ぎこちなく視線を上げる。
「手を……その……握って、くれませんか?」
言い切った瞬間、恥ずかしさと恐れがいっぺんに押し寄せる。
思わず目を伏せたサラナの耳に、息を呑むような気配が届く。
アルスランの目が驚きに揺れた──けれど、それもほんの一瞬。
迷いのない手が、そっとサラナの指を包み込む。
「もちろん」
節くれだったその大きな手が、まるで根のように、自分を支えてくれた。
◆◆◆
夜の気配が、音もなくユルトを包んでいた。
炉の火が灯り、薪が時折、音を立てる。
アルスランは手元の封筒を見つめていた。
開けるまでもなく、誰からかはわかっている。
呼ぶのもためらわれるような、形ばかりの繋がりを持つ、かつてサラナを預かった家の女からだった。
中に記されていたのは、二通の手紙。
一つは、サラナ宛。
《お前にしかできない刺繍がある。支度を整えて、すぐにこちらへ来なさい》
もう一つは、アルスラン宛だった。
《あなたほどの方には、あの子では分不相応でしょう。もしご興味がおありなら、ノミンを伺わせます。嫁ぎ先はまだ決まっておりませんので、どうぞご安心ください》
おそらく、〈水の部族〉との合同祭が近づいているのだろう。
昨年の刺繍が見事だったと、その噂は、〈風の部族〉が暮らすこの地にまで届いていた。
見栄を張るには、誰かの手柄が要る。
……今さら都合よく取り繕おうというのか。
結局のところ、サラナ無しでは何もできず、それでも頭を下げる気は微塵もないのだろう。
その傲慢さこそが、最も許せない。
アルスランは、紙をゆっくりと握りつぶす。
「……腐りきってるな。あの母子も、あの家も、全部」
二通の手紙は火に投げ入れられた。
青白く燃え上がりながら、ノミンの名とその欲深な言葉が、音もなく崩れていく。
ノミン──かつてサラナを蔑み、追い立て、今なお嫉妬と打算のままに、嫁ぎ先にまで手を伸ばす女。
その目が再びサラナに向くことすら、もう許せない。
たとえ祭りの席であっても、二度と会わせはしない。名さえ呼ばせない。
サラナは、『余りもの』でも、『よそ者』でも、『都合のいい家政婦』でもない。
名も、手も、魂さえも踏みにじったその家に、サラナを戻すつもりなど一片たりともなかった。
誰にも、貶めさせはしない。
「俺が守る」
──四年前のことだった。
五年に一度の大規模な交易祭。
人混みを避けて家畜の柵の陰を歩いていたアルスランの耳に必死な声が聞こえてきた。
「この子は、吠えませんっ、いい子なんです……!」
目をやると、泥にまみれた小さな犬を抱いた少女が、年嵩の女に頭を下げていた。
少女は、叱られても、頬を打たれても、犬を離さなかった。
それが、サラナだった。
あの日の、名も知らなかった少女の姿が、ずっと脳裏に焼きついている。
助けに入ろうとしたが、それをすれば、あの子の立場がさらに悪くなる気がして、耐えるしかなかった。
少女を思い出すたび、胸が締めつけられた。
……もっとも、彼女は当時のアルスランのことなど知るはずもないだろう。名も知らぬ誰かのまなざしなど、記憶に残るはずもない。
それでも。
いつかもう一度、あの子に会いたいと願っていた。
そして、数か月前に婚姻話が持ち上がった際、即座に「サラナ」と名を挙げた。
だが、名ばかりの縁に置かれていた彼女が、気まずい立場に追い込まれぬよう、正式な申し入れはあえて十日前にずらした。
本当は、もっとギリギリまで伏せておきたかったが、それが限界だった。
その間、オロダイ家の娘──ノミンという女は、当然のように『自分が選ばれた』と思い込んでいたそうだ。
急に話が進んだと、サラナは戸惑っただろう。
理由も知らされず、きちんとした支度も与えられず……。
だけど、それでも、どうしても。
手放すことができなかった。
あの時の少女──初恋の少女が、今、眠っている。
額にはまだ熱が残っていたが、呼吸は穏やかだった。ようやく深い眠りにつけたようだ。
髪を一房、指先にとって唇を寄せる。
「もう大丈夫だ」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
サラナに聞かせたかったというより、己に言い聞かせていた。
本来なら、今夜が初夜となるはずだった。
だが、医者に止められ、一週間ほど待つことになった。
寄せてきた想いの深さを思えば、肩すかしに似た空白が胸を通り過ぎる。
だが、彼女が安らかに眠り、明日も笑顔を見せてくれるのなら……それでいい。
それに──
「どうせ、これから先、ずっと一緒だしな」
◇◇◇
初夏の風が草原を渡り、交易祭の喧噪を連れてきた。
遠くには隊商の天幕がずらりと並び、揺れる旗が陽をはじく。
香草と焼き肉の匂いが空を泳ぎ、中央の広場には、諸部族の工芸や織物が所狭しと並べられていた。
その一角に、サラナの刺繍があった。
展示されていたのは、〈風の部族〉とトゥグル家の象徴を縫い込んだ一枚の大布。
四畳を優に超えるその布地には、語り継がれる『記憶』のような光景が広がっていた。
大地に根ざす草はそよぎ、空を舞う鳥は翼を広げ、母馬は仔を包むように身を寄せる。
中央から外縁へと続く渦文様が、家族の絆を円環として描き出していた。
サラナがこの半年、暮らしの合間に少しずつ針を進め、一針ごとに『祈り』が宿っている。
その前に立った異国の使節が、目を細め、ゆったりとした動作で指を添えた。
「『これは、ただの針ではないな。物語が縫い込まれているようだ』と、大使は申しております」
通訳が訳すと、周囲に小さなどよめきが広がった。
「『作り手を呼んでほしい』と、大使は申しております」
そう求められた時、サラナは義母に背を押されて一歩を踏み出した。
「この子が! うちの嫁が作りましたの!」
義母が誇らしげに声を張り上げる。
「『こんな幼い少女が?』と大使が申しております」
「いやですよぅ、こう見えてもう十八なんですよ?」
通訳が言葉を継ぐ。
「『このタペストリーは非売品か?』と、大使が申しております」
「ええ、これは売り物ではありません。この子が、家族の為に縫ったものですの」
義母がそう伝えると、通訳が少し頷き、大使の言葉を訳す。
「『それならば、妻子への贈り物として、同じ作り手に小さな品を依頼したい』と、大使が申しております」
「まあまあ……! サラナに、大使様直々のご依頼ですって? なんて名誉なことでしょう!」
サラナは、義母が通訳と話すのを聞きながら、恥ずかしさやら何やらで顔を真っ赤にしていた。
そして、助けを求めるようにアルスランに目を向けたが……彼はただ誇らしげに笑うだけで、助けてはくれない。
しかし、その笑顔を見てしまえば、責める気にもなれないサラナは、ただただ顔を熱くしながら言葉もなく立ち尽くすばかりだった。
◆
ノミンと、その母親が現れたのは、交易祭最終日の翌日だった。
かつて彼女たちが「預かってやっている」と蔑んできた娘に、異国の賓客が賛辞を送り、周囲から称賛の声が上がったその翌朝である。
〈風の部族〉の長のユルトに詰めかけ、二人は幕を挙げさせようと声を荒らげていた。
「サラナと会わせなさいよ!」
「散々面倒を見てやったのに、顔すら見せないなんて非常識でしょう!? せめてオロダイ家の刺繍をやってもらわきゃ割に合わないんですよ!」
叫ぶ母子の声はかすれていた。
遠巻きに見守る部族の人々のあいだに、冷ややかな視線が行き交う。
ユルトの出入り口には、アルスランが立ちはだかっていた。腕を組み、表情を変えずに。
「会わせるつもりはない。妻は今、子を身籠っている。母体に悪影響を及ぼすものは、何人たりとも近づけない。……それに、ここで騒ぎを起こしていいのか?」
その声音は、凍えるように冷たかった。
「はあ!? 何──」
ノミンは何かを言いかけたが、母親に腕を掴まれ、引きずられる。
けれど今度は、ノミンの方が母親に向かって苛立ちをぶつけはじめた。
「ちょっと!? お母様、何するの!?」
「いいから、帰るわよ、ノミン」
「嫌よ! まだサラナと話してないわ!」
「ここで騒げば、また婚約話が流れるの……っ」
小声で叱る母に、ノミンは噛みつくように顔を背けた。
先日、決まりかけていた〈土の部族〉の若者との縁談は、刺繍の一件とは別の理由で白紙になったばかりだった。
この場で醜態を晒せば、次の話も立ち消える。
そのことを、ノミン自身も分かっているのだろう。
ノミンは、『刺繍の腕に長け、気立ても良い、大変美しい娘』として名を馳せていた。
しかし、刺繍の嘘が露見した今、婚姻の話に支障が出るのは明らかだった。
若さと美貌は、確かに価値となる。
だが、それは決して永く保てるものではない。
──狡さも、醜さも、蔑みも、いずれ全て己に返る。
アルスランは、母子の背が見えなくなるまで動かなかった。一歩も踏み出さず、ただその背を睨みつける。
怒りだけが、焔のようにその眼に宿っていた。
◇
一方その頃。
義父のユルトの前で何が起きているのかなど知らず、サラナは、自分たちのユルトで縫いものに集中していた。
繊細な草花模様を、白い布に白い糸で一針ずつ落としていく。
これは、来春に生まれてくる我が子の為の産着だった。
妊娠が分かってからは、火の番や水汲みといった重い仕事は、みな自然に引き受けてくれている。
昨日、義母が「もう少ししたら、大使様から正式な刺繍の注文が届くかもしれないねぇ」とはしゃいだ声で言っていた。
何気ないその言葉が、サラナの胸にずっと残っている。
思い出すたび、胸の奥がふわりと温かくなるのだ。
もっとも、かつて倒れた日のことを、誰も忘れてはいない。
アルスランはもちろん、義父母も義妹も、無理をしすぎないよう、さりげなく目を配ってくれる。
夢中になって縫い続けていると「こら」と優しくたしなめられ、休むよう促されることも少なくない。
だからこそ、今こうして針を持てることが、嬉しくてならなかった。
一針ごとに、守られている実感が、そっと染み込んでいく気がするのだ。
外から、子どもの笑い声が風に乗ってかすかに届いた。
ユルトの布壁越しに、春の空気がふんわりと揺れる。
そのやわらかな揺れをくぐって、明るい声が飛び込んできた。
「ねえさまぁ、おかしたべよっ!」
そんな声と一緒に、義妹がユルトに入ってきた。手には、干し果実と焼き菓子の包み。
彼女には今、『サラナと一緒におやつを食べる』という、大事な任務が与えられている。
義母いわく、「働きすぎ防止係よ、ふふ」だそうだ。
しばらくのあいだ、二人でお菓子をつまみながら過ごしていたが、そのうち義妹はボルテを腹の上に乗せたまま、ぱたりと横になり、うとうとと眠りに落ちた。
サラナはそっと立ち上がり、そばに置いてあったケープを手に取る。
小さな身体にそっとかけてやると、義妹は寝言のように何かを呟き、ふにゃりと笑った。
その笑顔を見て、サラナもふと目を細め、そっと腰を下ろし、針を手に取った。
縫いたいものが、たくさんある。
夫に、義父母に、懐いてくれる義妹に、ボルテに、そして、生まれてくる我が子に。
一針ずつに想いを込めながら、これからも、幾重にも縫っていこう。
大切な人たちに、愛を伝える為に。
◆◇◆◇◆
やがて、サラナ・トゥグルは、三人の息子と一人の娘をもうけた。
年月が流れ、彼女は息子たちに、いつか誰かを迎える日の為の直伝のスープの作り方を教えた。
干し肉の裂き方や根菜の火の通し方、塩加減にこめる気持ち──それは、かつて自分が、あたたかな一椀に救われた記憶でもあった。
娘に、義妹に、息子の嫁たちに、そして女孫たちには、針の持ち方から、一針に込める意味まで、丁寧に教え込んだ。
──刺繍は、家の記憶を受け継ぐものである、と。
サラナの針から始まった文様は、次の代へと静かに手渡されていった。
大使からは、年に一度、遠国の祭礼に使う大布の依頼が届くようになり、サラナの名は風の吹く草原を越え、見知らぬ国の言葉で語られる存在となった。
ユルトの布壁には、今も彼女の針が縫いとった模様が連なっている。
旅路の印、絆の印、祝福の印。
そして、生き抜いた者だけが持つ、しるしの一針。
それは、かつて居場所を持たなかった一人の少女が、自らの手で縫いあげた、確かな『家』の証だった。
【完】