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3 生い立ちと優しいキス

「それじゃ、先ずはご両親のことから聞かせてください。知っているのなら、ご両親が出会った頃のところから。途中で僕から質問を挟むことがあると思いますが、都合が悪ければ答えなくても良いです」

 そう言って、ヒロはソファーに深く座りなおす。

 基本ソラは、聞かれたことは隠さず話すと知っている。

 どうしても言いたくなければ、黙ってしまうということも。嘘をついたりや誤魔化したりは、決してしない。

 ソラは肯くと、視線をテーブルに落として話し始めた。


「両親が亡くなった時、死亡届を役所に出しに行って戸籍を見ました。部屋の片づけをしていて、古いパスポートなども見つけましたので、そこから推察したことですが・・・」


 男がA国に留学している時に2人は出会った。女は奨学金で大学に通っていたが、2人はやがて一緒に暮らすようになる。そして女は、子供を授かった。

 それがソラだった。

 父親になった男は留学を取りやめ、妊娠中の彼女を連れて日本に戻る。

 彼女が臨月になっていた頃の事だ。

 けれど父親の家族は、それを認めなかった。2人は東京の下町にアパートを借りて生活を始める。そしてそこでソラは産まれた。婚姻届けと出生届が提出された。

 収入の無い生活は苦しく、それでも何とか手に入れた現金を使って二人はA国に戻った。

 そして、スラムの片隅のアパートで親子3人の生活を始める。ひと部屋だけの小さな家で。


「お母様の方のご親族は? お祖母さまがいらしたんですよね」

 ソラのミドルネーム、リセリはその祖母が付けたと言っていた。

「母は祖母を嫌っていましたので、アパートに住み始めた時に1度だけ来たと 後で父から聞きました」


 貧しくても何とかやっていける、両親はそう思っていたのだろう。けれど、歯車は狂い始めた。

「私の一番古い記憶は、アパートの廊下の隅で父を待っている姿です」

 いつ発症したのかは定かではないが、母親は精神疾患を患った。少しずつ赤ん坊の世話が出来なくなり、父親が出来るだけ替わりを務めたが妻の看病も重なり多忙になっていた。

「3歳ごろだと思います。その頃はもう、母の眼に私は写っていませんでした」

 同じアパートの住人が、自分に余裕がある時はパンやキャンディーをくれることもあったが、食事は父が与えてくれていた。

 母は体調が良い時は窓辺に座り、歌を口遊んでいたりもしたが、自分の子供に対して何かをするということはなかった。逆に調子が悪いと、辺りにあるものを投げつけて子供を部屋から追い出そうとする。


「何故お母さまがそうなったのか、解りますか?」

「・・・二人の会話から推測すると、母は日本にいた半年間が一番幸せだったようです。私が産まれたので、A国に戻らなければならなくなったのだと思っていたのでしょう」

 あの頃に戻りたい、日本に居たかった、その原因である子供は見たくない。おそらくそう言うことだったのだろう。ソラは、母親の傍にいられないことが多く、仕事から帰る父を待ってアパートの廊下にずっといたのだ。

「6歳ごろまで、そんな感じでした。外は危ないから出ないように言われていたので、アパートの廊下や物置の辺りにいました」


 Primary school(小学校)に入学すると、開門する時間から閉門するまでずっと校内にいた。授業時間以外は、図書館に居れば誰にも文句は言われなかった。幼い頃からずっと、他者とのコミュニケーションが殆どなかったので、学校でも会話は最小限で友人もいなかった。

 担任の計らいで、スキップの機会が与えられた。生活困窮者の家庭では、少しでも早く子供が義務教育を終えた方が良い場合がある。幸い、ソラには充分すぎる学力があった。

 けれど学校から帰れば、家の中には殆どいられない状況になっていた。

 母親は子供の姿を見ると、半狂乱になる。

 ただ自分の夫だけを愛し、愛されることだけを求めていた。

 夜、父親は仕事から帰ると、そんな母の相手に忙殺された。そろそろ自分たちがしていることも理解する年頃だろうと、夜は子供を外に出した。

 夜のスラムで、ソラはただ身を隠し朝が来るのを待った。場所を転々と変え、日によって季節によって寝場所は変わった。アパートへは、朝と夜の一度ずつ父に食物を貰うために帰った。食事が足りない時は、ゴミ箱さえ漁ったが盗みだけはしなかった。リスクが高いと理解していたのだ。


(空腹感が無い、というのはその辺りに原因がありそうです。お腹が空いたと感じても与えられるとは限らないのなら、空腹感を抱えてもつらいだけですし)

 子供のころから理解力に富み、思考レベルも高かったのだろう。満たされない欲求は、感じないように頭と体が覚えたのかもしれない。

 おそらく、親からの愛情も。


「7歳の時、同じアパートに住む老婦人からビートを貰いました。親戚から貰ったけど、入院するので飼って欲しい、と。その方は病院で亡くなりました」

 当時ビートは5歳ぐらいだった。それ以来、ソラは可能な限りビートと行動を共にした。


「8歳の時に、聴覚を失いました。熱を出して、その間はずっと使われていない物置で寝ていました。ビートが世話をしてくれて・・・」

 賢いヨウムは、ソラを終生のパートナーと決めたようで、自分にできる精一杯のことをしてくれた。カラのペットボトルを探し、外水道の蛇口をひねって中に水を入れる。自分が運べそうな分だけ水が溜まると、キャップを閉めてソラの元に運んだのだ。そのおかげもあって、数日後に熱は下がった。

 しかし、耳は聴こえなくなっていた。


 当時、ソラはスキップのおかげで4年生になっていた。けれど耳が聞こえなくなったので、2年間は通常の学校生活を送る。その間に、ソラは唇を読むことを覚えた。ビートもそんなソラをサポートすることが出来るようになる。


 10歳でJunior high school(中学校)に上がると、再びスキップの機会が与えられる。そしてHigh school(高校)を卒業したのは12歳の時だった。

 その頃には、母親の状態を見計らって家事をするようにもなっていた。母が夜の疲れで眠っている早朝に、食事の支度や掃除洗濯をする。そして学校に行くと授業時間以外はやはり図書館で過ごし、夜は外で過ごす。


「自分の境遇を疑問に思ったり、不満に思ったりしなかったんですか?」

 ヒロが質問する。

「いいえ。小さい頃、スラムにあった教会から聞こえた『人はそれぞれ違う環境で生まれ育つ。だが他人を羨んではいけない』という言葉があって、その時にとても納得したものですから」


 羨ましいとか不満とか、そういうネガティブな感情は持たないほうが良いのだと思ったのだろう。怒りや悲しさ、辛さは感じずにいたほうが良い。そうして、そんな感情に蓋をすることを覚えた。喜ぶこと、楽しいと感じる事、好き嫌いの感情さえも。それが無ければ、人を羨むことはない。

(きっと、そういうことなのかもしれませんね。多少、疑問は残りますが・・・)

 ヒロはそんなことを考える。


「大学には奨学金で入りました。寮に入ったことで、それまでとは生活自体が変わりました」

 休日や長期休みの時には、家に通い家事をする。それ以外の時間は、生活費確保のためアルバイトに当てた。ソラにとっては、今までで一番まともな生活だった。


「4年生の冬、クリスマス休暇に入った頃、両親が亡くなりました」

「その話はアンジーから聞きました。でも亡くなった状況は知らないので、ツライとは思いますが教えてもらえませんか?」

 ソラは少しだけ思案したが、やはり淡々と話し始める。


「いつものように、朝方家に戻りました」

 ドアを開け、室内の様子を窺う。窓から朝日が射しこんでいた。左側には粗末なキッチンがあり、中央にテーブルと椅子が2脚。右側にチェスト代わりの段ボール箱、窓際には古ぼけたソファーが1つ。後は洗面所と一緒のシャワールーム、そしてトイレがあるだけ。家具らしい家具も無い、貧しい家。

 普段ならこの時間、母が1人でベッドに寝ているはずだったのだが、この日は様子が違っていた。

 父がベッドの横で椅子に座り、裸のまま頭を抱え込んで突っ伏している。

 母に何かあったのかと思って近づいてゆくと、父はガバッと頭を上げてソラを見た。そして、泣き笑いのような顔になり母の名を呼んだ。意味が解らず立ち止まったソラに、父はいきなり飛びついてくる。身をかわす暇もなく、後ろに倒れこんだソラの頭にテーブルの角がぶつかった。

 気が付いた時には、父の体によって自由を奪われていた。


「ーーーー!」

 ソラの話を聞いていたシンは、息を呑む。

 部屋の空気が凍り付いたような気がした。


 その時、シンのスマホが鳴った。

 少しホッとして、シンは通話を始めるが、すぐにヒロに向かって告げた。

「緊急呼び出しだ。ほぼ同時に2件殺人事件発生で、手が足りないらしい。すぐ来てくれ、だと」

 こんな時に、と忌々しそうに舌打ちするが、刑事という職業柄仕方がない。

「悪いけど、あと頼むわ。話の続きは、帰ったら聞かせてくれ」

 ヒロに向かってそう言うとシンは、上着を掴んで出て行った。


 ソラの話は続く。


「父はその時、狂ったように母の名前を呼んでいました。すると母が起きたようで・・・」

 衝撃と共に父の上半身がソラの上に落ちてきた。何とかその体の下から這い出すと、その背中から血が噴き出しているのが見える。母がキッチンから持ってきたらしい包丁を握りしめ、傍に立っていた。

「オマエを殺してやりたいけど、この人と一緒に逝くのはアタシよ!」

 そう言って、母は自分の胸に包丁を突き立てた。


「・・・・・・・それで?」

 ヒロは内心の動揺を何とか抑えて、続きを促す。

 それ以外、何も言葉が浮かばない。


「しばらくして動けるようになったので、シャワーを浴びて自分で暴行の処置をしました」

 医学部在籍なので、こういう場合の知識はあった。衣服を整えて部屋に戻り、段ボールの中を確認する。果たしてそこには、残り少ない麻薬の包みがあった。

「父はだいぶ前から、麻薬を常用していたようです。生活に疲れ切っていたのでしょう。私はそれに気づかなかった・・・いえ、気づかないようにしていたのかもしれません。見つけた時、やっぱりと思ったのを覚えています」

 妻の介護と貧しい生活に疲れた男は、麻薬に手を出し人生の階段を転げ落ちていったのだろう。最後は、娘と妻の見分けもつかなくなっていた。いや、成長した娘に若かった頃の妻の面影を見たのかもしれない。

 夫の愛だけを求めて生きていた妻は、名前を呼ばれて目を覚まし 夫が若い女の上に乗っているのを見てしまう。そして凶行に及んだ、というわけだ。


「それから警察に連絡をしました」

 やってきた警官は、夫婦の無理心中とあっさり判断した。スラムで麻薬中毒者が関係する事件は多すぎるのだ。忙しい警官は必要な手続きを終わらせると、さっさと帰って行った。

「後はやらなければいけない手続きや、火葬などを全て終わらせて 数日後には寮に戻りました」


 その後の事は、以前アンジーから電話で聞いていたヒロである。アンジーはヒロに過去の事を話したと、ちゃんとソラにも伝えていた。

 ひと通りの事を話し終えたと判断したソラは、静かに顔を上げる。無表情な顔はそのままだが、どこかすっきりしたような雰囲気があった。

「・・・ありがとうございました、ソラ。疲れたでしょう?」

 労うヒロに、ソラは落ち着いた声で答える。

「いえ、大丈夫です。お役に立てたなら嬉しいです」

 けれど言葉の中の『嬉しい』は単なる慣用句のようなものだ、とヒロには解っていた。


「でも、本当にこれだけで良いのでしょうか?」

「ええ、僕がしたのはシャワーを使わせてあげたことと、カフェオレを作ってあげたことくらいですから、充分ですよ」

 するとソラは少し考えた後で、もう一度口を開く。

「・・・シンへもお礼をしようと思うのですが、所持金が殆どない上に、向こうで私物や衣類もすべて売り払っているので・・・」

困ったようにソラは呟く。

「お礼なんて、シンは受け取りませんよ、きっと。あの性格ですからね。どうしても、というなら『結婚祝いを贈る』というのはどうでしょう?それなら、シンも受け取ると思いますが」

 ヒロの提案に、ソラは僅かに瞳を輝かせた。

「ありがとうございます。そうさせていただきます」


 そしてゆっくりと立ち上がり、リビングのドアに向かって少し移動し徐に腰のバスタオルを外す。流石に歩きにくかったのだろう。そしてバスタオルを手に持つと、ヒロに向かって頭を下げた。

「夜の方が都合が良いので外出します。朝には戻るつもりですが、それまでこのパジャマとバスタオルをお借りします。必ず戻るつもりですが、一応担保としてバッグを置いていきます」


 ソラのいきなりの発言に虚を突かれたヒロだったが、急いで立ち上がり手探りでソラの腕を掴む。

「外出って、どこに行って何をするつもりですか?」

 シンへの結婚祝いを贈るという目標、夜に男性用パジャマ1枚という恰好、夜の方が都合が良いこと。

 それらを考えあわせれば、ソラが何をしようとしているかは検討が付く。

「高木さんの職業上、それ以上は聞かないほうがいいと思います」

(確定だ!)

 苗字で呼ばれたことにも、少なからずムッとしたが、今はそれどころではない。

「行かせませんよ!」

 この腕を離したら、2度と掴むことはできないだろう。ソラのスピードなら、眼が見えない自分がもう1度彼女を捕まえることは不可能だ。

 せめて今夜ひと晩、彼女をここに留めておくにはどうしたらいいか。

 ヒロには、1つしか方法が思いつかなかった。


 ソラの腕を掴んだまま、足早に寝室に向かう。

 初めてヒロからかなり強く腕を掴まれ、一瞬驚いたソラだが 男性が真剣に掴む力を振りほどくような力はない。接近戦の技で蹴り上げれば相手を倒すことは可能だが 流石にそれは申し訳なさすぎる。

 ソラは大人しく彼に従った。


 ドアを開けて部屋に入ると、ヒロはソラをベッドの上に座らせる。

 強引な行動をとったが、彼の頭の中は妙に冷静だった。


 腕を掴んで引き留めたものの、接近戦では彼女に敵わない。まさか本気で倒しにはこないだろうが、こちらが彼女を昏倒させるのは不可能だろう。運良くできたとしても、数時間程度しか時間は稼げない。シンの帰りは朝になるだろう。

『行かせたくない』自分と、『ここに宿泊したらその分もお礼をする』と考えるに決まっているソラ。 両者の折り合いをつけるには、この方法しか浮かばなかった。おそらく彼女は、宿泊代の前払いだと思って、大人しく従ったのだろうから。


 ヒロは自分もベッドに腰かけると、座るソラの顔の位置に左手を伸ばす。

 そっとその頬に触れると、ひんやりとした感触が伝わった。

(流石にパジャマ1枚では、寒かったですね・・・)

 気づかずに悪いことをしたと思いながら、掌を頬に押し当てた。


 そして右手の親指で、唇に触れる。

 アイカメラが囁いた。

 《ソラ コチラヲミテイマス》

 ヒロは顔を傾けると、そっと彼女の唇に自分のそれを重ねる。


 優しく穏やかなプレッシャーキス。そっと押し付けた唇に、ひんやりとした冷たさが伝わる。

 そして、音の無い軽いバードキス。小鳥が啄むように、何度も繰りかえす。

 そっとノックをするような唇の動きに、僅かにソラの唇が開いた。

 柔らかなそれをなぞるように、ヒロの舌が動く。

 丁寧にゆっくりと、舌先で唇を辿られたソラの体が、僅かに震えた。


「・・・こんなキスは初めてですか?」

 ヒロの言葉に、はいと小さくソラは答えた。

 優しく穏やかで静かな、甘くさえ感じるようなキスは今まで一度もされたことが無かった。

 ヒロはもう一度、優しいプレッシャーキスから始める。

 バードキスからニプルキスへと続き、薄く開いた彼女の唇から舌先を入れる。

 そして唇の裏側をなぞるように動かした時、ソラの体がピクリと震えるのが解った。


 ソラの小さな頭を支えながら、そっと身体をベッドに沈ませる。

 キスは次第に深くなり、夜も静かに更けていった。

 リビングでチカチカ点滅するスマホだけが、取り残されていた。


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