2 彼らのマンションで
ソラを連れてきたのは、ヒロが借りているマンションの一室だった。
都内でもそれなりにグレードが高そうで、セキュリティーもしっかりしている、いわゆる賃貸型高級マンション。シンも現在そこに居候しているので、2人の家はここということになる。
玄関のドアを開けて中に入ると、ちゃんと三和土がある日本式の作りになっている。そこで靴を脱いだ時、ソラは自分のそれが酷く汚れていることに気づいた。あの時、鉄橋の下の地面はかなりぬかるんでいたのだろう。そして着ている服を確認すれば、ネルシャツもジーンズも背中側が特に酷い。泥がべったりとこびりつき、このまま室内に上がったら床を汚してしまいそうだ。
(・・・きっと乗せて貰った車のシートも、汚してしまったのでしょう)
ソラは緩慢な思考でため息をつくと、スリッパは履かず、素足で出来るだけ静かに歩きリビングに入った。
広いリビングは、どこかあのホテルを思い出させた。家具の配置などが似せてある。ぼんやりとそんな事を思いながら、ソラは入り口に立っていた。
「ソラ、シャワーを使いなさい。あそこです。中の物は自由に使って下さいね。生憎、女性用は置いていませんが」
ヒロがそう言って、左側を指さす。確かにこんな格好では、床にさえも座れないだろう。
「・・・ありがとうございます」
小声で答え、頭を下げるとソラは示されたドアを開けて中に入った。
洗面所を兼ねた脱衣所で服を脱いだソラは、改めてその惨状を眼にして またため息をつく。シャツのボタンは全部無くなり泥がべったりこびりつき、ジーンズもファスナー部分が壊れている。下着に至っては、上下ともに使用不可能なほど破れていた。
(でも、とりあえず今は『シャワーを浴びる』という『する』ことができました)
どうにもならない衣類を丸めて隅に置くと、ソラは浴室に入った。
シンは苛立ったような足取りで、檻の中の熊のようにリビングを歩き回る。とにかく、ソラから色々と話を聞かなければ始まらない。そうは思っても、何故か怒りにも似た苛立ちを抑えられないシンなのだ。何に対してそれほど苛立つのかは、自分でもよく解らないのだが。
一方ヒロは仕事用のノートパソコンをチェックし、小さく肯いた後、アンジーにラインを送る。『ソラは保護した』とだけ打って、後はソファーに座って真剣に考え込んでいた。
そうしてしばらく待つと、ドアが開いてソラがドアから姿を現した。
「ありがとうございました」
その声に振り返ったシンは、絶句してしまう。
ソラは、バスタオル1枚を体に巻き付けた格好だった。
「すみません、服はもう着られない状態なので・・・」
その言葉に、シンはハッと気づく。
「しまった! そうか、着替えっ!」
慌てて何か持ってこようと自分の部屋に行きかけた時、ソラは言葉を続けた。
「でもこの方が面倒は無いと思います。どちらからにしますか?お二人一緒でも私は構いませんが」
その台詞の意味が解らないほど子供じゃない。
シンは何とか抑えていた怒りを爆発させたように怒鳴った。
「ナニ考えてんだ! バカヤロウッ!」
胸倉を掴みたいくらいの気分だったが、生憎相手に掴めそうな場所は無い。何しろバスタオル1枚なのだ。シンはドスドスと足音を立てて、自分の寝室に入った。
「ソラ、何故そんな事を言うんですか?」
落ち着いた声で、ヒロが問いかけた。見えないということは、こんな場合には冷静さをもたらす。
「助けていただいたお礼をと思ったのですが、私はほぼ無一文なので。それに、部屋に入って女性にシャワーを浴びろというのは、そういう事ではないのかと」
そう言う知識は無駄にある。何しろ犯罪捜査では、そう言う情事が絡む場合も少なくないのだから。
「幸い未遂で済んだので、未使用なら失礼には当たらないかとも思いました」
何ともセクシーな格好で、けれど淡々と事務報告をするような口調で話すソラだ。丁度そこに、きちんと畳まれたパジャマを持ってシンが戻って来た。
ソラの今の台詞を、弟が聞かなくて良かった、と心底思ったヒロだった。
「新品じゃないけど、洗ってあるから。これ、着てこい」
ぶっきらぼうにそう言って、シンは彼女を洗面所に押し込む。ソラは大人しくパジャマの上下を受け取って、ドアを閉めた。
シンの苛立ちは最高潮だ。ダイニングチェアにどっかりと腰を下ろし、頬杖をついて指でテーブルを叩いている。そんな弟の様子を窺うと、ヒロは立ち上がってコーヒーを淹れに行った。
ややあって、ソラがパジャマの上だけを着て戻ってくる。
「上だけ、お借りします。下は、落ちそうなので・・・」
(・・・あ、確かにそうかも)
ソラの細いウエストと腰回りに合うような、男性用パジャマは無いかもしれない。そもそも寝間着とは、体を締め付けないようゆったりと作られているものなのだから。よく見ると、ソラは腰の周りに先ほどのバスタオルを巻きつけていた。彼シャツ姿がそのせいで、何やら野暮ったくなっているが彼女なりに考えた結果なのだろう。
とりあえずソラをソファーに座らせ、シンも同じように座る。そこにヒロが、3つのマグカップを器用に持って戻ってきた。目が見えないとは思えないほど、自然な動作だ。どれだけ練習したのだろうか。
「はい、どうぞ。ソラのはカフェオレにしました。シンと僕はブラックで。・・・シン、落ち着いて下さいね」
そう言って、それぞれの前にマグカップを置く。そして自分は一口飲みながら、ソラの前に腰を下ろした。けれどソラは、マグカップを見つめているだけだ。ヒロはアイカメラでその様子を確認すると、穏やかに声をかける。
「ソラ、飲みなさい」
優しい口調だが、きっぱりと告げられた言葉に 『する』ことが無くなってぼんやりしていたソラが顔を上げる。
「・・・はい」
右手を出してマグカップを取ると、左手を添えて温度を確認する。そしてそっと唇をつけると、僅かに触れた液体の熱さにパッと口を離す。それから静かに口をすぼめてふぅふぅと息を吹きかけた。そんな彼女の仕草に、シンは研修期間を思い出す。
(そういや、猫舌だったよな・・・)
熱いものには慣れていなくて、とゆっくりコーヒーを飲んでいた姿が、あの時何だか幼く見えて可愛いと思った。
その時の事を思い出した時、不思議と苛立ちは治まっていった。
部屋の空気が少し穏やかになった頃、玄関の鍵が開く音が聞こえ、ややあってガザガザという音と共にリビングのドアが開く。
「あら、今日はお帰りが早かったんですのね」
おっとりした声の主は50代くらいの女性で、スーパーのLサイズレジ袋を2つ提げていた。
「あ、岩瀬さん。すみません、連絡を忘れていました」
ヒロが身軽に立ち上がった。彼女の名は岩瀬則子といい、ヒロが契約した家政婦だ。FOIを通じて紹介して貰った彼女は、料理上手で口が堅く身元もしっかりしている。
「今晩の夕飯の支度はこちらでやりますから、その代わりに別の事をお願いします。実は知り合いの女性を保護しまして・・・」
そこで漸く家政婦はソラの存在に気付いたようだ。リビングのドアに背を向けているソラは、補聴器のモードを対人にしているのだろう。岩瀬家政婦が入ってきたことも、その言葉にも気づいていないようで振り返りもしない。いつもなら気配を感じるのだろうが、それさえも出来ていない様子だ。
「彼女の服を、ひと揃い買ってきて欲しいんです。今からだと買い終わったら勤務時間を過ぎてしまいそうなので、持ってくるのは明日の朝の出勤の時で良いです。洗面所に彼女が今まで着ていた服がありますから、サイズはそれを見てください」
融通が利いて頭の回転も速い岩瀬さんは、はいはいと何度も頷く。
ヒロとシンの仕事はよく知っているので、そう言うこともあるのだろうと納得した。ちなみに彼女の主な仕事は、朝夕2人分の食事の用意と部屋の掃除・洗濯などで、朝3時間夕方1時間程度の契約だ。
「どんな服がいいのかしらねぇ。私が選んでしまっていいのかしら?」
「ええ、お願いします。岩瀬さんのセンスで選んでください」
どことなく嬉しそうな様子になった家政婦さんは、洗面所に行った後、いそいそと帰って行った。
岩瀬さんが買ってきた食材を冷蔵庫に入れ、リビングに戻ったヒロは、やっと半分ほどのカフェオレを飲んだソラに声をかける。
「お腹は空いていませんか?夕飯はまだ先になりそうなので、クッキーでもつまみませんか?」
「・・・いえ、大丈夫です」
静かに答えるソラに、ふと疑問が浮かびヒロは更に問いかける。
「ソラ、最後に食事を摂ったのは何時です?」
「こちらに来る前に、FOIの食堂で・・・」
「機内食とかも食べなかったのか?」
シンが口を挟む。
「・・・食べたいと思いませんでした」
「時間的には、充分お腹が空いていると思いますが・・・」
精神的に食欲が無かったのかもしれないが、そう言えば研修期間中も、彼女は一度も空腹な様子を表さなかった。
「・・・元々、あまり空腹感を覚えない体質なんです」
ソラは、無表情で答えた。
食事は、時間が来たら摂る。任務中などで食べられなくても、空腹は特に感じない。確かに仕事に関しては、便利な性質なのだろうが。
ヒロは少し考えてコーヒーを飲み干すと 徐に姿勢を正しソラに話しかけた。
「まず先に、何故黙っていなくなったのか、教えてくれませんか?」
ソラは少し考えてから、低い声で答える。
「・・・『する』ことが何も無くなってしまって・・・頭の中が空っぽになったようです」
「目標は全部達成できたんだろ。なら後は自由に、やりたいことやればイイじゃないか。何でも好きなことできるだろ。親父さんの借金返済して、日本に埋葬してくれっていう遺言も叶えてやったんだから・・・」
ソラの言葉の意味がよく解らないシンは、早口でまくし立てる。
「遺言ではありません。命じられたわけでも、お願いされたわけでもありません。ただ、子供の頃に1度だけ聞いたことがあったので」
日本へ行きたいと言って泣く母親を宥めるために、父親が言っていた言葉。
『あの子が大きくなって稼げるようになったら、生活も楽になるから行けるようになるよ』
それを聞いた時、大人になって働けるようになったら自分はそうするのだろうと思ったのだ。
「借金返済は、やるべき事でした。納骨は、私にとっては『する』ことだったんです。やりたいことや好きなことは、今までずっとありませんでしたから、他にすることは無かったんです」
「・・・意味が解んねぇ」
シンは憮然として腕を組む。しかしヒロには、解りかけてきたことがあった。
普通人間はごく自然に、何かしら『するべきこと』や『したいこと』を抱えて生きている。例えば『ご飯が食べたい』という『したいこと』があれば、『作る』『買いに行く』『食べに行く』などの『するべきこと』が発生する。けれど、お腹が空かなければ『食べたい』とさえ思わないだろう。
彼女には、そんな最初の欲求が存在しないのではないか。全てにおいて、自分に関する欲求や希望が無いか、酷く薄いのではないか。
それがソラという人間なら、彼女は今 行動目的のようなものを無意識に欲しがっているのではないだろうか、と。
ヒロは再び口を開く。
「ソラはさっき僕たちにお礼を、と言っていましたが、シンにはもう奥様がいるので不適切です。例のミントの女性ですよ」
ソラは少しだけ目を大きくし、シンの方を見ると丁寧にお辞儀をして言う。
「ご結婚おめでとうございます。知らなかったとはいえ、大変失礼なことを申し上げました」
「あ、いや・・・えっと、ありがとう」
いきなり暴露された自分の結婚に、シンはしどろもどろになって返事をした。
「僕の方としては、もしお礼をしてくれるなら して欲しいことがあるんですが」
ソラはゆっくりと顔をあげ、ヒロの口元に視線を合わせる。
「以前、機会があったら君のご両親や君自身の事を聞かせて欲しいと言いましたよね。することが無いのなら、今はその良い機会だと思います」
「・・・それは構いませんが・・・何故お聞きになりたいのか、伺ってもいいですか?」
再会してから初めて、ソラは自分の疑問を口にした。シンの結婚話を聞いて、少し頭の中が動き始めたのかもしれない。
「僕は学生時代、心理学を専攻していましてね 退職後はそれをライフワークにしようかと思っているんです。そのためにも、様々な人の人生の話を聞いておきたいんですよ。チャンスがあれば、できるだけ詳しく、ね」
楽しい話ではないと思うし時間もかかりそうだが、それがお礼だというのなら異存はない。
解りました、と短く答える。
ソラの、長い話が始まった。