鮎
鮎はどこかの川の上流で生を受けた。孵化したばかりの鮎は幼く、体長は一センチにも満たなかった。両親の顔を鮎は知らない。
小鮎は川を住みかとして、小さな微生物を食べて暮らした。豊かな川だった。山からは森の養分が流れ込み、それが水分中にプランクトンを発生させていた。そのため食事には苦労しなかった。
だが、敵は多かった。岩陰に潜む沢蟹、岩魚、山女、そして岸辺に潜む人間の釣り人達。小鮎は生まれたときには百匹は居、それがおのおのの卵から孵化するので、小鮎たちは相当の数に上ったはずなのだが、ほかの体の大きな川魚や沢蟹が彼らを捕食し、またときには、水面に浮かぶハエに似た疑似餌に引っ掛かって釣り上げられ、小鮎たちが河口に着くころにはその数を大分減らしていた。
夜、河口の遠くに見える人家の明かりを目にしながら、小鮎たちは海に向かって泳ぎ出していった。河口にはものさびしげな音楽が満ちていた。
一人の人間がハーモニカを吹いていたのだ。海に飛び込んだ鮎たちにとってはじめてのその世界は広く、そして何より塩辛かった。そこにはすでに成長した鮎のこれからを約束する無限の可能性と永遠があるような気がした。そこには果てはなく、鮎はすでに小鮎ではなく、立派な捕食者で、また同時に捕食されるものであり、立派な魚体をもっていた。
そして海は厳しく、美しい世界だった。
生まれ落ちた時から、鮎は野生の魂を身に着けていた。生き抜こうという意地がないものは、ことごとく生存競争から脱落していったからだ。
鮎は他の鮎の群れに合流した。どの鮎も生まれは別々の川だが、一緒になってこの広い海を泳ぐのにはそれなりの理由がある。そう違いないだろう。だが実際は理由などない。しかし他の鮎と一緒にいると、鮎は気が楽だった。他の鮎もきっと同じだったろう。
鮎の一団はそれが一つの生き物であるかのように動き、どこか遠い海目指して、どんどん、どんどん、泳ぎ続けていった。
嵐の日、鮎のそばにはほかの鮎がいた。晴れの日も他の鮎がいた。彼らは同時に、この広い世界で生き抜くライバルでもあった。
海の底では天気は関係なかった。その鮎たちのそばをまた違う種類の魚たちが物珍しそうに泳いでいく。それはよく成長した巨大な鮫やイルカなどであり、また、深海にすむ生き物たちが浮上してきたこともある。
海の底には全く自分たちとは違う生き物が住んでいることを鮎はやがて知った。海の表層に浮かぶ生き物は羽をもっていた。鮎たちは全く別種のこれらの生き物たちに恐れをなし、道を開けていく。
興味を持つ鮎もいる。逆に小魚の群れが通りがかることもあった。これは鮎にとっても気が楽だった。鮎もそれほど大きい魚というわけではないが、自分より小さいものにはやはり気が置ける。しかしかれらは鮎とは違う魚だったのだ。
鮎たちは海に住む生き物すべて、川に住む生き物、そのすべてに心を通わせることが出来たが、真に心が通じ合うのは、同じ海を生き、泳ぐ魚たちだけだった。それは鮎だ。
鮎たちの群れは一匹の脱落者も出さず、南の海まで到着した。これは食物連鎖の下位にいる鮎たちにとって、偉大な事業だったといっていい。奇跡だ。人間たちが永遠に知ることのない奇跡だ。南の海、そこで初めての体験を彼らはした。どこまでも広がるサンゴ礁、その合間を縫うように泳ぐ体験。水温は温かくなり、鮎たちは陽気になる。
奇跡のような時間はさらに続いた。このままもっと行けば、大陸に出るだろうと考えた鮎は、それからコースを逆方向へ取った。そこから段々、段々と、海は暗く、冷たくなり、鮎たちは一匹ずつばらばらになって行く。
気づくと鮎は自分が一人きりで海を泳いでいること、もう何日も他の鮎と――それどころか他の魚とさえ――出会っていないことに気づいた。火山性の磁場にやられ、鮎の方向感覚が次第に狂っていく。
鮎は痩せこけていた。鮎は今自分がいる場所が分からず、目暗めっぽうに海を泳いでいく。だがその泳ぎには以前のような迫力はない。
鮎は、もう何日もまともな食事を取っていないのだ。死のコースを鮎はたどっていた。
鮎は海の底を漂い続けた。光は海底まで届かず、鮎は群れから逸れたことを感じていた。ふと鮎は気まぐれに、海面に顔を出してみた。
夏の陽光が燦々と鮎の顔を打った。小魚が泳いでいた。それを鮎は腹に収め、しばし空腹を満たした。すると段々とここ数日、失われていた力が取り戻されてきたのを体に感じた。
速やかに淘汰される運命だった鮎は、それから段々体力を回復し、気づくと以前の倍、太っていた。そして今、鮎は自身の中に生命力がみなぎっているのを感じる。鮎は西へ向けて、決然と進路を取った。海は明るくなっていた。
自然は厳しかったが、この時ばかりは鮎に味方した。鮎は自身のするべきことを段々と掴みかけてきた。鮎のなすべきこと、それはもう一度生まれ故郷のあの川を登るということだ。そのことが鮎にはわかる。それが鮎の血に刻まれているからだ。
鮎は愚かしい人間のように、言葉を弄して与えられた運命を退けたりはしなかった。それを享受し、生まれ故郷目指して何も言わず泳いだ。
鮎は何か月も海を漂い、ある日、生まれ故郷の河口にたどり着いていた。そこには同じ日に旅立った小鮎たちの成長した姿があった。仲間たちだ。
川を出た幾匹か――こうして生き残っている数のほうがはるかに少なかったが――はすでにどこかで命を落としていたが、いま目の前にいる他の鮎に鮎はかつての仲間たちの面影を見た。
他の鮎たちは肉付きもよく、隆々とした魚体をしていた。素晴らしい光景だと鮎は思った。
鮎たちは川をさかのぼった。上流に彼らの求める何かがある筈だからだ。そこにたどり着ければ、自分は天国に行けるはずだ。鮎はそう、確信している。
川辺は幼い頃観た景色そのままだった。川辺の土手には桜の木が植えられたままで、広々とした下流を登っていくと急に流れの変わる場所があった。そこでは流れが渦を巻いていた。ハーモニカの音がどこかから聴こえてきた。
鮎が海に出ている間に、人間が作った堤防だった。それは川の流れを険しく、せき止めていた。しかし一部、たったたった一か所だけ、上流につながる部分がある。その場所めがけて鮎たちは飛び上がった。
鮎たちの一団が殺到しだし、それまで静かだった堤防の付近は急に鮎たちの跳躍する音で満たされた。跳躍する鮎の群れに混じり、鮎は跳ねた。
鮎たちは何度も跳ね、力尽きるまで跳ねた。ハーモニカの音が止んだ。流れに負けて息絶える鮎が続出し、川辺には鮎たちの死骸が広がった。
ハーモニカの音がまた始まった。鮎はあと一歩のところで流れに押し戻されていく自分の肉体を感じた。それからも鮎は跳ね続けたが、段々と鮎は弱ってゆき、いつしか流れに押し流されて、下流の岸でただじっと、その身を横たえさせていた。
それでも、鮎は闘志を失わなかった。あの川を登ること。登らねば。鮎は最後までぼんやりととそれを意識していた。
しかしついにそれが叶わないことが分かると、鮎は他の鮎はこの川を登りきれるだろうかと、ぼんやりとした頭で考えた。鮎が思考したのはそのときが初めてだった。
そして鮎は死んだのだった。
〈了〉