家族③(千歳家の場合)
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千歳春陽の母親、千歳弥生は二十三歳の頃に街中で出会った高身長で身なりの良い男に襲われた。
それは突然の出来事で、何故か弥生は叫び声を上げることも、その男から逃れることも出来なかった。
飽きた。
およそ数時間にも及ぶ行為の末に、男はその言葉と供に弥生を解放した。だが、弥生の心に残った傷は深く、弥生は重度の男性恐怖症に陥り、当時付き合っていた男とも弥生は一切触れることが出来なくなった。
それでも、友人や家族に支えられながら弥生は何とか務めていた会社に復帰した。触れることは出来なかったが男性と会話が出来るようにもなった。
変化があったのは、弥生が襲われてから一月が過ぎてからだった。
つわり、そう呼ばれるキリキリとしたお腹の痛みや胸やけのような症状が弥生を襲うようになった。だるっぽさを感じる日も増えていった。
極め付きは予定日を過ぎても生理が来ないことだった。
まさかと思い産婦人科を訪れた弥生に待っていたのは何も知らない医師の「おめでとうございます」という残酷な言葉だった。
堕ろした方がいい。家族も友人も口を揃えてそう言った。
弥生自身、罪のない生命を捨てることに強い抵抗感を感じていたが、堕胎するべきだと思っていた、おかしな夢を見るまでは。
その夢の中で弥生は毎日小さな子供を見た。
何も知らずに笑顔で公園を駆け回る姿。転んで涙を流す姿。可愛い女の子に出会い楽しそうに笑う姿。
それが弥生には自分のお腹に眠る小さな生命に思えて仕方なかった。
悩み続けた結果、弥生はお腹の中の子供を育てる決意をした。
苦難の道だと分かっていたが、それでも弥生に罪なき我が子を殺すことは出来なかった。
弥生の選択を愚かだ、バカだと嘲笑う人もいたが、弥生の選択を尊重してくれる人も弥生が想像する以上にたくさんいた。
それからは苦しくも温かい日々だった。
この時、男性恐怖症の弥生を隣で支え続けてくれた一人の男性に弥生は恋をする。そして、その男性もまた弥生に恋をし、二人は結ばれることになった。
周りの人の温もりに触れながら弥生は小さな生命を産んだ。
春の日差しが心地いい日だった。
「温かな日差しのように、明るく皆を照らすような存在になって、多くの人に愛されるような人に育って欲しいから、春陽。それがあなたの名前」
望まれた生命ではない。
寧ろ多くの人から死んでも仕方ないと思われた子だからこそ、弥生はそう名付けた。
そして、弥生と弥生の夫にして春陽の義父、春陽の三人の生活が始まった。
生活は順調そのもので、やや引っ込み思案気味だった春陽も引っ越しを機に明るくなり、三人の家庭には笑顔が絶えなかった。
だが、悲劇はまだ終わっていなかった。
春陽が小学四年生になる春の日だった。
「なあ、弥生。俺さぁ、自分の女が誰かに奪われるのこの世で一番嫌いなんだよ」
春陽が遊びに出かけていた休日、そう言って弥生の前に姿を現したのはあの日、弥生を強姦した春陽の実の父親だった。
弥生は愛する夫を目の前で殺され、自分が誰のものか教え込まれるようにその男に再び身体を弄ばれた。
夕暮れ時、夫の血と心の底から嫌悪する男と自分の体液に塗れ、呆然自失となっている弥生がいるリビングの扉が開く。
扉の先から姿を現したのは、弥生から全てを奪った男の面影が残る春陽だった。
「……お母さん? お父さん?」
「いやあああああああ!! お前の! お前のせいでええええ!!」
つんざくような悲鳴を上げ、弥生は近くにあったものを手あたり次第愛していたはずの息子に投げつけた。
何も知らない春陽はただ母親の豹変ぶりに怯え、涙を流すことしか出来なかった。
弥生の悲鳴と春陽の鳴き声は近所の人が異変に気づき、警察を呼ぶまで続いた。
春陽にとっての地獄の始まりはその日からだった。
まともな精神状態では無かった母親は入院したが、数日もすればまた家に戻って来た。
義父が突然死んだこともあり、強い寂しさを感じていた春陽は直ぐに弥生に抱き着きに行った。
だが、弥生は春陽が抱き着いた瞬間、悲鳴を上げ春陽の頬を強くはたいた。
弥生にはもう春陽が自身を襲った男にしか見えなかった。
それから春陽が高校に入学するまでの間、春陽は幾度となく弥生に殴られ、物を投げつけられ、暴言を吐かれ続けた。
それでも、春陽が弥生の傍から離れなかったのは、弥生が春陽を傷つけた後いつも「ごめんなさい、ごめんなさい。あなたは悪くないのに、本当にごめんなさい」と涙を流しながら謝り続けるからだった。
いつかまた幼い頃の様に母親と仲良くできる。
その日を春陽は信じ続けていた。だが、そんな春陽の思いとは裏腹に春陽と生活する弥生の心と身体はどんどん衰弱していった。
若い頃の美しい容姿は見る影もなく、頬はやせこけ、何度も頭をかきむしったせいか髪はすっかり薄くなり、白髪も目立つようになっていた。
そして、春陽が高校への入学が決まり、中学を卒業した日、弥生は糸が切れた人形の様に横になり動かなくなった。
入院が決まった弥生に春陽は直ぐに会いに行こうとしたが、弥生の両親、春陽の祖父母に止められた。
弥生にもう会わないでくれ。祖父母は春陽に涙を流しながら懇願した。
弥生はもう随分前から限界だった。
春陽が自分を襲った男に見える。春陽を愛せない自分が嫌になる。春陽が怖い、一緒にいたくない。でも、母親としてせめて春陽が中学を卒業するまでは一緒にいてあげたい。
こんな自分が母親で春陽に申し訳ない。自分は母親失格だ。
弥生は毎日の様に周りの人にそう言っていたらしい。
それを聞いた春陽は直ぐにでも弥生の下へ行きたくなった。愛する母を抱きしめて、自分にとって世界一の母だと言いたかった。
だが、成長期を迎え、ますます容姿が実の父親に似て来た春陽は弥生にとってはトラウマそのもののようなものだ。
零れ落ちそうな涙を必死にこらえながら、春陽は母にもう会わないと誓った。
春陽が勉強や運動を頑張ったのも、明るい性格になっていったのも花恋と付き合うためだ。
だけど、それだけじゃない。
変わり果てた母にもう一度愛して欲しい。その一心もあったからこそ春陽は頑張れた。
春陽は今でも夢を見る。
『お母さん! あのね、今日花恋と結婚する約束した!』
『本当? そうなったらお母さんも凄く嬉しいな』
『お母さんも幸せ?』
『うん。すっごく幸せ!』
『じゃあ、俺がんばるよ!』
花恋と春陽が結婚し、弥生が笑っている。
叶うことのない幼い頃の夢を。
***
千歳春陽には父親が二人いる。
春陽と血の繋がりがある父親と、血の繋がりが無いながらも春陽を母親と供に育ててくれた義父だ。
春陽にとってどちらが父親かと問われれば、春陽は迷うことなく後者を答えるだろう。
少なくとも春陽の母親に一生忘れられぬ傷を二度も残し、春陽の義父を殺し、結果として春陽から母親を奪うきっかけを生み出した男を春陽は絶対に許さない。
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