第31話 還相
相手は死神さえも倒せる者……。
その言葉に僕は、複雑な思いを手に握る。
「依」
握り締めた僕の手を、蓮がそっと掴んだ。
「お前は何も心配しなくていい」
「……ですが……」
僕は、そっと目を伏せながら、蓮だけに聞こえるように小声で言葉を続ける。
「大日如来の教令輪身は、不動明王であり……」
「死神さえも倒せるという教令輪身は、大威徳明王であり、ここで言うなら自性輪身……つまり、本来の姿は阿弥陀如来だからか」
蓮は、僕が答えるより先にその言葉を口にした。
僕の不安がそこにある事を分かっているから、僕に口にさせなかったのだろう。
「……はい」
「羽矢の言うように、『経典』は数多い。ただ一つの姿に思想が重ねられた。だが……本来の仏の境地は変わらないだろう。それでも、その法力をどう使うかは……その者次第だろうな」
蓮は、大丈夫だと言うように、僕の背中をポンと軽く叩くと、高宮に向かって言った。
「俺の父親である総代は、神の力を使う事が出来る陰陽師だ。だが……神の力だけを使っている訳じゃない。切紙九字は、仏の力も使う」
「あなたのお父上が神仏混淆の名を残し、その力を持っているからこそ、全ての神社と寺院に立ち入る事が出来る……あなたのお父上はより深く、相手を知っています。お伝えしたはずです。どの界にも正体を隠した化身と眷属がいると……」
「当然、この下界にも……か」
「ええ、そうです」
「全ては『救済』の為と名を打っても、導く教えも理解、納得次第だな」
蓮がそう言った後に、羽矢さんが口を開く。
「設害三界一切有情。不堕悪趣」
羽矢さんのその言葉に、回向は驚きを隠せないようだった。
「羽矢……」
「生きとし生けるもの全てを殺しても、地獄に落ちる事はない……か?」
「羽矢……お前何処まで……」
「何処まで? 自分の決めた道は当然、一つだが、何を信じるかは人それぞれだしな……そこに来いとは強制しない。だが……侵してはならない境界は守るべきだ。文字だけで理解するのは危険だと、回向……お前がその言葉の意味を一番よく分かっているんじゃないのか」
「……ああ、分かっている。だが、羽矢……それは……」
「そこに辿り着いたなら、その前に知るべき事があったはず……それを知らない者は、そこに辿り着く事は許されない。知っているという事は、辿り着く事を許された者。そう言いたいか? じゃあ、俺はどうなんだろうな? 許されていると思うか? お前はどう思う、回向」
「……」
回向は、返す言葉が見つからないのか、無言になった。
「生きとし生けるもの全てが悪で、悪人は全て救われる。善の基準が己にしかないならば、本質的な善が分からない事もまた罪である……お前がそれでもその言葉を口にしたのは、その名の意味を聞いた事があるからじゃないのか。だが…… 一つ抜けているよ、回向」
「抜けている……? 俺が……何をだ……?」
回向は、納得がいかない様子で眉を顰めた。
「回向」
羽矢さんは、はっきりとした口調で、その名を口にした。
「……その名で呼ばれる度に、何故、こんな名をつけたんだと不快に思うよ。それでも一生ついて回るんだ……」
回向は、苦笑しながらそう言うと、長い溜息を漏らした。
「お前がその力を手にしていると信じ、願ったからこそ、この世に生まれたお前にその名が与えられたんだ。還相回向。お前は託されているんだよ」
還相回向……この世に戻ったならば、全ての者を救う事が出来る……。
「……羽矢……」
羽矢さんは、ニヤリと笑みを見せて、回向に言った。
「それでもお前は、その名を嫌うか?」