第20話 回向
男の言葉に羽矢さんは、言葉を返す事はなかった。
ただじっと男を見つめたままで、その表情さえ変える事はなかった。
僕は、なんだか不安になり、蓮の袖を掴んだ。
「……蓮……」
「……ああ」
蓮が足を踏み出そうとした瞬間、羽矢さんの手が男の両肩辺りに触れると、男を押し倒すように倒れる。羽矢さんは、倒れる男を追い、腕を男の頭と体に絡ませると、衝撃を緩和しながら共に倒れた。
……羽矢さん。
仰向けに倒れた男は、上に乗る羽矢さんをじっと見つめていた。
あまりにも冷静な態度だ。押し倒された事に、言葉一つない。
この男は……。
岩から飛び降りた時にも感じたが、男の身体能力はかなり高いはず……ましてや、験者であったなら、自然の中で修行する。山に登る事も多く、体力も筋力もかなりのものだろう。
羽矢さんにしても、そんなに強い力で押してはいない。倒れる事が不自然だ。
羽矢さんの行動を予想していた……だからあんなにも近い位置に立って……。
……わざと押し倒されたんだ。
「……回向……」
羽矢さんが、男に視線を向けたまま、そう言った。
……この様子から察するに、男の名だろうか。
回向といえば、自分の積み重ねた功徳を、相手に与えるという意味を思い浮かべてしまうが……そうだとしても……その名は……。
いや……そうだとしたら尚更だ。
羽矢さんの指が、男の目元にそっと置かれた。
「もし……お前の目を刳り貫けと迫られたら、俺は……」
羽矢さんは、男から手を離し、自分の目元へと場所を変える。
「俺の目を刳り貫くよ」
回向と呼ばれた男の手が、羽矢さんの手に伸びた。
そして、羽矢さんの手を掴むと、静かに笑みを漏らす。
「……変わらないね……羽矢、お前は」
回向は、羽矢さんの手を掴んで、ゆっくりと起き上がる。
「お前が変わっていないなら……俺が言った事を忘れるなよ、羽矢」
「……回向」
「俺は、その名が嫌いだよ。まるで罪人の烙印のようだ」
やはり、男の名だったか。
「俺は……自分を守る為なら、誰だろうと裏切るからな」
回向の言葉を聞くと、高宮が楽しげに、ふふっと笑った。
「いいでしょう? 彼。ある意味、正直で」
「あいつが水景 回向……か」
蓮も知っているんだ。
「ええ。その名を持って、その名に背く……中々なものでしょう、その覚悟は」
「ふん……その覚悟が誇れるものならいいんだがな。そもそも、あいつの覚悟もそうだが、お前こそどうなんだよ、高宮」
「私の覚悟ですか? そうですね……それは……まだ言えませんね」
……それにしても……。
この山に来てから、僕たちの他に動き出していた者の姿が顕になってくる。
当主様は……この事も分かっていたのだろうか。
それとも……。
僕たちがここに来た事が始まりとなっている気がして、それが始まりだというのなら、彼らを動かしたのは当主様という事になる。
だけど、高宮にしても、この男……回向にしても、僕たちと心から協力しあって事を進めるというのは難しそうだが……。
だから……なのか。
互いの行動を把握出来る状況は出来た。
目的は違うだろうが、向かう先は同じはずだ。
敵対するような仲でも、彼らと行動を共にするという事は、彼らの力も必要だという事なのではないかと……そう思った。