第37話 六識
「蓮……」
何も聞かずとも、蓮には分かっている事だろう。
蓮が何を思ってるかは、僕も分かっている。
僕は、それを確かめていたのだから。
あの声は、あの言葉は。
神司なんかじゃない、蓮なんだって……。
『おいで……依』
蓮の手の力は緩む事はなかった。
怒ったような顔。強い目をじっと僕へと向ける。
「河原から戻って来た時から、お前の様子が気になっていた」
「そう……ですか」
「お前の所為じゃない。守りきれなかった俺が悪いと言っただろ……」
「……蓮は悪くありません。僕が……」
「依」
蓮は、僕の言葉を止めると、こう答えた。
僕が呟いていたあの言葉に、その言葉を加えるように。
加えられる言葉がある事で、僕は僕の存在をしっかりと感じる事が出来ると……そう伝えた。
「眼、耳、鼻、舌、身、意。それぞれに識を足して認識出来れば、それがお前という存在だ。彩流 依」
それでも僕は……。
苦笑が漏れた。
蓮の目から、僕の目線は離れてしまった。
真っ直ぐに向けられれば向けられる程、なんだか辛くなる。逃げ出してしまうように。
『あの事を彼が知ったら……どう思うのでしょうね……?』
……遠ざけたかった。その感覚を捨ててしまいたくて。
それでも勝手に動かされてしまう事に、自分がなんなのか分からなくなった。
「……浅いんです」
「依……」
「見えていても、聞こえていても……痛みを感じても……この体は、僕のものですか……?」
泣こうと思って泣いている訳じゃない。
勝手に涙が溢れて、頬を伝っていく。
涙が蓮の姿を霞ませて、まるで僕から蓮を遠ざけようとしているみたいだ。
蓮の両腕が僕の体を捕まえる。
グッと、ギュッと、とても強い力だった。
呼吸さえ、苦しくなる程に。
だけどこの苦しさは、あの時とは違う。
「そう不安になるんだったら……俺のものでいいだろ……依」
低く静かに流れた声は、僕の耳元ではっきりと聞こえた。
「蓮……」
「俺がお前の姿を見て、俺がお前の声を聞いて……お前の痛みも俺が感じるから……お前は俺のものでいいだろ……」
涙が溢れて止まらなかった。
「俺のものでいいだろ、依」
強く抱き締められる蓮の背中に、僕はそっと腕を回した。
蓮の鼓動が耳に流れる事に、安心感を覚えている。
速く聞こえていた蓮の鼓動が、段々と安定していく。
蓮……蓮も不安だった……?
蓮の体重を感じながら、僕は寝床へと押されていった。
「依……」
蓮の手が、僕の頬を包むように置かれた。
蓮を見上げる僕。降り注がれる蓮の目線が重なり合う。
僕は、この目が好きだ。嘘も偽りもない、この真っ直ぐな目が。
力強くも、それでいて優しさに溢れるこの目を、ずっと見ていたかった。
「不安になるなら何度でも言う。依……俺は、何よりも、誰よりもお前がいい」
馬鹿は、僕だ。
蓮が僕を選んだだけじゃない。僕だって蓮を選んだんだ。
「……依」
この束縛には、僕の束縛もあったんだ。
「僕も……他の何よりも……誰よりも……蓮……君がいい」
蓮の息遣いが間近になって、受け入れるように目を閉じた。
目を閉じても、直ぐそこに蓮がいる事が感じ取れるのは。
僕の唇に触れる、その温度を感じる事が出来たからだ。