第36話 感覚
「総代様の式神にお相手頂く程、自身の力を驕ってはいません。ですが……全くもって敵わないとも答えませんよ。どの界にも正体を隠した化身がいる事をお忘れなく……勿論、その眷属も」
意味ありげに言葉を残して、口を開けた幹の中に神司は姿を隠すと、開いた口が閉じてしまった。
地に降り立った羽矢さんの舌打ちが聞こえた。
「羽矢……すまないな。巻き込む事になると知りながら、力を借りた」
「総代……これは俺にとっても見過ごす訳にはいかない事……出来る限りの力添えはします」
「頼りにしている。藤兼家の存在は、紫条家にはなくてはならないものだからな」
「……総代」
「父上……何故、ここに……」
「蓮……私の立場を忘れた訳ではないだろう?」
「だからではないですか……表立って動く事は許されないのでは……」
「表立って動く事が出来る状況が、ここに出来たからだよ、蓮」
「父上……まさか……それを初めから……」
『空間領域も地に足を置けば、下界の領域と結びつく。私が立ち入るには容易な事だ』
……当主様。
「総代。廃仏毀釈を行ったのは神職者、つまり神社側。神仏分離の令は国が出したもの……国は、廃仏毀釈に繋がったものが、神仏分離の令によって起きたものだと認めないという事では? それはつまり……」
「羽矢」
羽矢さんの言葉を止めた当主様だったが、その声も表情も穏やかだった。
「……余計な事……でした」
「互いに進む道を守る事が出来れば、突きつける事の出来る答えとなる。お前たちなら分かるだろう。そこにないものをあるとは言えないのだからな……」
当主様は、そう静かに言うと、歩を進め始めた。
その背中を追う式神が、当主様の中に入るようにもスウッと消えていった。
消えていく時に、僕を振り向いた式神の表情には笑みが見えていた。
羽矢さんは寺院に戻り、僕と蓮は紫条家に戻った。
僕は、自分の部屋に入ったが、眠る気にはなれなかった。
溜息が漏れると頭を抱えた。
……感覚が……分からなくなっていた。
あの時の嫌な感情が、襲ってくる。
『彩流 依。彼と私には『秘密』があるんですよ』
『あの事を彼が知ったら……どう思うのでしょうね……?』
僕は、僕の感覚を取り戻そうと、あの言葉をゆっくりと口にする。
「眼……視覚に置き……耳……聴覚に置き……鼻……嗅覚に置き……舌……味覚に置き……身……触覚に置き……意……知覚に置く。我が器を処とし……境界を定める……」
それでも。
これが呪いだとでもいうのか、神司がまだ間近にいる感覚から抜けられない。
神司との境界を作りたくとも、自分の思いなど薄くも消えて、全てが奪われていくようだった。
僕は、短刀を手に取った。
……痛みを感じる事が出来るなら、僕の体はここにあると言えるのだろうか。
そんな思いが頭の中を掠めると、僕の手は、僕の腕を切った。
流れる血も赤く……色を染めるのだろうか。
机の上に置いてあった白い紙に、雫を落とす。
ポタリと落ちて描く色……。
「……なにやってんだよ、依。またくだらねえ事、考えているのか?」
蓮が部屋に入って来た。
僕は、クスリと静かに笑みを漏らした。
蓮の手が、傷を作った僕の腕へと伸びる。
「……馬鹿ですね、蓮。そこまで深い傷など、作りはしませんよ」
蓮の怒ったような目を、真っ直ぐに見る事も出来ない。
僕の腕を掴む蓮の手に力が籠った。
「痛っ……」
「認識出来たか?」
「……蓮……」
蓮の強い目は、僕の目線を離さないと言っているようだった。