第32話 虚無
「これで間に合ったか、高宮」
鬼に変わらない内に……。
「まだです、紫条さん……! まだ……!」
魂に張り巡らせた呪符に火が点き、燃え上がる。当主様は魂へと再度、呪符を張り巡らせた。
うっすらと白かった魂が、火の玉に変わった。
神祇伯の手に檜扇が握られる。
……調伏。
瞬間的に、そう言葉が思い浮かんだ。
呪符を燃やそうと、火の玉が次第に大きくなっていく。
蓮は、それでも少しも動じる事なく、呆れたように溜息をつくと言う。
「まったく……各々の価値基準に敵う者を立てるとしたなら、足掻けば足掻く程、失敗すると、誰か教えてやらなかったのかよ。誰もが神になれると思うなよ?」
……失敗って……。
「何を言っている、蓮。失敗したら失敗したで、それでも自身の価値に敵うんだろーが」
「はは。そうだったな、羽矢」
ああ……そうか。
だから……鬼に変わらない内と……。
尸解に失敗した者は、神になる事は出来ず、鬼に変わる。
神になれなくとも、鬼にはなれる。
それはまた、違う意味での理想となるのだろう。
だけど、尸解出来たとしても、まだ生きている状態から尸解するのと、死してから尸解するのとでは格が違う。
生きているのか、死んでいるのか……そう蓮が気にしていたのは、尸解した状態がどうであったのかという事だろう。
「おい、蓮。いい加減、呑気に構えていないで、どの道に送るのか、さっさと決めてくれ」
河岸に立つ羽矢さんは、そう言うと、大きく袖を振った。その瞬間に、黒衣が法衣に変わる。
そして、羽矢さんに並んで住職も黒衣の袖を振り、法衣に変えた。
……浄界への導きの準備を……?
向かい側の神祇伯は調伏を示し、羽矢さんと住職は浄界へと導く事を示しているようだった。
「そう急かすなよ、羽矢。どの道、執着を断たなければ、浄界にだって送れないだろ」
「ははっ。相変わらず余裕な事だな? まあ、この河原に連れて来る事が出来た時点で、その道を説くのも難解な話なんだがな。正直、気が進まねえ」
「それでもやるのが、お前のいいところだ、羽矢」
「蓮、お前に褒められる時程、大きな仕事はないんだよ」
「それなら、やり甲斐があるって訳だろ?」
「はは。人使いが荒いな」
羽矢さんは、そう答えると、手に数珠を握った。
「こっちはいつでもいいぞ、蓮」
「ああ、分かった。じゃあ……こっちは……」
蓮の手が印契を結ぶ。
「回向」
蓮は、印契を結んだまま、回向を呼んだ。
「それでもお前は、道が違うと言うか?」
「……馬鹿を言うな」
回向は、決まり悪そうにも苦笑しながら、蓮の元へと向かう。
そして、蓮の隣に立つと、手に印契を結んだ。
……蓮と同じ印契だ。
「ついて来いよ、回向」
「ああ、お前が先だからな、紫条」
「ふん……やっと気づいたか。だが俺は、順序なんかどっちだっていい。お前が持っているものに、俺が持っているものが、相重なるだけだ。ただ……」
蓮は、言いながら印契を結び変えると、回向も蓮と同じ印契に結び変える。
蓮の言葉の後を、回向が続けた。
「ああ。紫条……お前の道には虚を語り、俺の道にはその虚を無と説き、有を置く……ただ、空っぽであるという『空』には、無の中にある有を以って相即とする。それが自然だ。つまりは」
蓮と回向の手が、同時に空を切った。
はっきりとその言葉を言った回向に、羽矢さんは笑みを見せた。
「生死即涅槃は空を説く」