表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
処の境界  作者: 成橋 阿樹
第5章 偈と詞
163/182

第19話 偽経

『早く追い掛けた方がいいですよ。鬼に変わらないうちに……ね?』



「不動明王の種子字……お前が口にする真言は『呪』だ。その種子字を刻んだのは、持明者の証だからな」

 持明者……。


 持明の『明』は明王の明……その『明』を持っている者。

 それは、呪文を保持する神の使者であるという事だ。


 羽矢さんの言葉に、回向はふっと笑みを返した。

 そして、髪を束ねていた紐を左手で(ほど)き、その紐を手にグッと握る。

 周囲に群がる魂を見据え、回向は立ち上がると、右手を切るように振った。その瞬間にシュッと光が走る。

 ……まるで……刀が握られているようだった。

 その動作に、逃げるようにも魂が動き出した。

 回向は、左手に持った紐を、魂へと目掛けて即座に投げる。

 逃げる魂が紐に絡め取られ、動きを止められた。

 絡みつく紐から逃れようと魂が暴れるが、逃れる事など出来ず、暴れれば暴れる程に強く絡みつく。

 それでも舟は少しも揺れ動く事はなく、その場に踏み留まっていた。


「はは。本当に……全力だな」

 蓮は、回向の動きを目で追いながら、そう呟いた。


 河原は地獄へと繋がる処……だが、河原自体がもう地獄だ。

 そもそも、道が決まるまでの中陰の間の七回の審理は、地獄が掲げられている中で行われている。

 だからこそ、冥府の王の正体は、慈悲ある仏と結びつくのだろう。


『回向……お前は託されているんだよ』


 死後の追善供養で(もたら)される功徳は、七つに分けた一つのみ。だが、生前で功徳を積めば、全てを得る事が出来るという。

 ……回向……か。


 左手には索を持ち、右手には刀を握り、磐石(ばんじゃく)の上に坐す……。


 回向の姿に、不動明王の姿が重なるようだった。

 調伏とは、ただ捻じ伏せるだけではない。

 強引ではあるが、正しい道へと導く為の方便だ。


 その思いが伝えられる時を、僕は見ている。

 高宮は、誇らしげに回向を見つめている。

 回向が舟の上で力強くも足を踏み締めても、舟が揺れ動く事がないのは、高宮の支えもあるのだろう。


 自身の力を支えてくれる者を大事に……当主様の言った言葉が、ここにも表れている。


「奎迦……お前の目には、どう映る……?」

 回向から目を離さずに、神祇伯は住職にそう訊いた。

「ふふ……瑜伽。私の判断以前に、お前には明らかなのではないか?」

「揶揄するような事を言うな。冥府の番人の判断を仰ぐのが……」

「それが定め、とでも?」

 住職は、神祇伯の言葉を遮ってそう言った。

「瑜伽……私に戒はない。だが、ないとは言っても、受けない訳でも説かない訳でも、授けない訳でもない。関心がないと口にすれば、あまり良くは聞こえはしないが、正直に言えば、そこに重きを置いてはいないという事。そもそも下界は欲界……戒を定めなければならないという、逃れる事の出来ない欲がある処だと言えるのではないか」

「……そうだな。だからこそお前は、そのような者たちをも救う方便を手にしたのだからな……」

「ふふ……瑜伽、それはお前も同じではなかったか?」


 穏やかな笑みを見せながら、住職は言葉を続けた。


「冥府の王に正体という仏が結びつくのも、仏の道ならではのもの。死後の界が明確になればなる程に、死に対しての恐れを抱く。その不安は、いずれ正しい道へと導く者はいなくなり、経典だけが残され、経典をもってしても正しく導く事など出来ない、上辺だけの仏教者だけが存在する、所謂(いわゆる)像法(ぞうぼう)の時が来るという恐れが、地獄の恐れと重なり、逃れる方便を探し求めた……それが閻王の正体……その名を以ての法ではないか」


 住職の言葉に耳を傾けながら、神祇伯は静かに答えた。


「地蔵菩薩に十王。つまりは救済の為の偽経(ぎきょう)を置いた……か、流」


 神祇伯はそう言うと、当主様を振り向く。


 神祇伯の目線を受け止める当主様は、満足そうにふふっと笑った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ