第19話 偽経
『早く追い掛けた方がいいですよ。鬼に変わらないうちに……ね?』
「不動明王の種子字……お前が口にする真言は『呪』だ。その種子字を刻んだのは、持明者の証だからな」
持明者……。
持明の『明』は明王の明……その『明』を持っている者。
それは、呪文を保持する神の使者であるという事だ。
羽矢さんの言葉に、回向はふっと笑みを返した。
そして、髪を束ねていた紐を左手で解き、その紐を手にグッと握る。
周囲に群がる魂を見据え、回向は立ち上がると、右手を切るように振った。その瞬間にシュッと光が走る。
……まるで……刀が握られているようだった。
その動作に、逃げるようにも魂が動き出した。
回向は、左手に持った紐を、魂へと目掛けて即座に投げる。
逃げる魂が紐に絡め取られ、動きを止められた。
絡みつく紐から逃れようと魂が暴れるが、逃れる事など出来ず、暴れれば暴れる程に強く絡みつく。
それでも舟は少しも揺れ動く事はなく、その場に踏み留まっていた。
「はは。本当に……全力だな」
蓮は、回向の動きを目で追いながら、そう呟いた。
河原は地獄へと繋がる処……だが、河原自体がもう地獄だ。
そもそも、道が決まるまでの中陰の間の七回の審理は、地獄が掲げられている中で行われている。
だからこそ、冥府の王の正体は、慈悲ある仏と結びつくのだろう。
『回向……お前は託されているんだよ』
死後の追善供養で齎される功徳は、七つに分けた一つのみ。だが、生前で功徳を積めば、全てを得る事が出来るという。
……回向……か。
左手には索を持ち、右手には刀を握り、磐石の上に坐す……。
回向の姿に、不動明王の姿が重なるようだった。
調伏とは、ただ捻じ伏せるだけではない。
強引ではあるが、正しい道へと導く為の方便だ。
その思いが伝えられる時を、僕は見ている。
高宮は、誇らしげに回向を見つめている。
回向が舟の上で力強くも足を踏み締めても、舟が揺れ動く事がないのは、高宮の支えもあるのだろう。
自身の力を支えてくれる者を大事に……当主様の言った言葉が、ここにも表れている。
「奎迦……お前の目には、どう映る……?」
回向から目を離さずに、神祇伯は住職にそう訊いた。
「ふふ……瑜伽。私の判断以前に、お前には明らかなのではないか?」
「揶揄するような事を言うな。冥府の番人の判断を仰ぐのが……」
「それが定め、とでも?」
住職は、神祇伯の言葉を遮ってそう言った。
「瑜伽……私に戒はない。だが、ないとは言っても、受けない訳でも説かない訳でも、授けない訳でもない。関心がないと口にすれば、あまり良くは聞こえはしないが、正直に言えば、そこに重きを置いてはいないという事。そもそも下界は欲界……戒を定めなければならないという、逃れる事の出来ない欲がある処だと言えるのではないか」
「……そうだな。だからこそお前は、そのような者たちをも救う方便を手にしたのだからな……」
「ふふ……瑜伽、それはお前も同じではなかったか?」
穏やかな笑みを見せながら、住職は言葉を続けた。
「冥府の王に正体という仏が結びつくのも、仏の道ならではのもの。死後の界が明確になればなる程に、死に対しての恐れを抱く。その不安は、いずれ正しい道へと導く者はいなくなり、経典だけが残され、経典をもってしても正しく導く事など出来ない、上辺だけの仏教者だけが存在する、所謂、像法の時が来るという恐れが、地獄の恐れと重なり、逃れる方便を探し求めた……それが閻王の正体……その名を以ての法ではないか」
住職の言葉に耳を傾けながら、神祇伯は静かに答えた。
「地蔵菩薩に十王。つまりは救済の為の偽経を置いた……か、流」
神祇伯はそう言うと、当主様を振り向く。
神祇伯の目線を受け止める当主様は、満足そうにふふっと笑った。