第13話 正使
しんと静まり返った深い闇が留まる中、住職がゆっくりとした足取りで現れた。
焦る様子など全く見せず、穏やかな表情と、その口調は、救いを齎すようだった。
「……御住職……」
住職は、僕の不安を和らげるように、穏やかに微笑んだ。
だが、闇へと視線を変える住職の目つきが、鋭くも変わる。
「奥底に隠れたままの煩悩……働かずにも存在し、それはいずれ芽を出して現れる種のようなもの。随眠と異を持って称しますが、少々……動かしてみましょうか」
……まだ眠っている煩悩を動かす。住職の言葉と、その佇まいに緊張する僕は、小さく息を飲んだ。
蓮たちは、潜在的にあるものまでも押さえ込もうとしていたんだ。
だから全く動きを見せず、闇は留まったままになった。
だけど……闇に突き刺さったあの無数の矢は一体……。
僕の頭の中に様々な思いが迷いのように現れたが、その迷いを断つようにも、住職の『偈』が流れ始め、僕は住職へと目線を向けた。
「正使尽未尽 習気亡未亡 功用無功用 証智未証智」
正使……煩悩の本体の事だ。
習気は煩悩が尽きても、習慣性として残っているものを言う。
功用は努力を意味し、証智は智慧を言う。
煩悩を断つ事が出来た者とそうでない者。習慣性として残る煩悩もなくなった者と、そうでない者。
努力する者とそうでない者。智慧を得た者とそうでない者……。
住職がそう説くと、闇の中から声が返ってくる。
「云何自知心。色受想行識。眼耳鼻舌身意。色声香味触法。乃至一切。界域、識域、所謂。『処の境界』一切分断。求めるに不可得」
僕は、その言葉と声に驚く。
住職の声に返ってきた声は、神祇伯の声だった。
だけど……これは……法を説いている。
住職も神祇伯も互いに法を説き、法を重ね合っている。
まるで問答のように。
社殿で神祇伯と顔を合わせた時、神祇伯が蓮に言った言葉を思い出す。
『出来るか出来ないかを訊いている。時がない。返答次第では配置を変える他ないからな』
それはきっと、祭壇の奥に隠されているものを言っていたんだ。確かにあの時、蓮はその奥をじっと見つめていた。
水景 瑜伽。神祇伯である呪力も、和尚としての法力も持っている。
煩悩を断ち切る為に、どのようにして心を知るのか、それは感官であるのか、感覚であるのか……境界を示しても、得る事は出来ない……と、そう説いた。
住職が答えるように偈を口にする。
「開彼智慧眼 滅此昏盲闇 閉塞諸悪道 通達善趣門」
闇を滅ぼし、諸々の悪の道を閉ざし、善の門へと……住職はそう説き返した。
少しの間が開き、住職は数珠を握った手をそっと下ろす。
闇の中から光が見えた。
その光は次第に大きくなり、闇を晴らしていく。
僕は、闇が晴れていく事にホッとしていたが、それは僅かな時だった。
「依さん。私の後ろへと」
住職の言葉に、何かが起こると察する事が出来た。
闇へと突き刺さった無数の矢が、闇から飛び出して来る。
住職の法衣の袖が大きく振られた。
それは、黒衣に変わる瞬間だった。
闇から飛び出した無数の矢が、高く天へと昇ったかと思うと、その矢の向きがまた地へと向く。
いつまた矢が降り落ちるかと僕は、ハラハラしながら矢の動きをじっと見つめていた。
辺りを白く染める程の光が、大きく広がる。
同時に、落ち着きを持った声がゆっくりと流れた。
その声は、当主様の声だった。
「放たれたものが邪であれば、その邪は……」
カッと強く光が弾けると、向きを変えた矢が、もの凄い速度で地へと落ちて強い風を生んだ。
「返りの風を吹かせる」