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処の境界  作者: 成橋 阿樹
第5章 偈と詞
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第13話 正使

 しんと静まり返った深い闇が留まる中、住職がゆっくりとした足取りで現れた。

 焦る様子など全く見せず、穏やかな表情と、その口調は、救いを(もたら)すようだった。

「……御住職……」

 住職は、僕の不安を和らげるように、穏やかに微笑んだ。

 だが、闇へと視線を変える住職の目つきが、鋭くも変わる。


「奥底に隠れたままの煩悩……働かずにも存在し、それはいずれ芽を出して現れる種のようなもの。随眠(ずいめん)と異を持って称しますが、少々……動かしてみましょうか」


 ……まだ眠っている煩悩を動かす。住職の言葉と、その佇まいに緊張する僕は、小さく息を飲んだ。

 蓮たちは、潜在的にあるものまでも押さえ込もうとしていたんだ。

 だから全く動きを見せず、闇は留まったままになった。

 だけど……闇に突き刺さったあの無数の矢は一体……。


 僕の頭の中に様々な思いが迷いのように現れたが、その迷いを断つようにも、住職の『偈』が流れ始め、僕は住職へと目線を向けた。


正使尽未尽(しょうじじんみじん) 習気亡未亡(じっけもうみもう) 功用無功用(くゆうむくゆう) 証智未証智(しょうちみしょうち)

 正使……煩悩の本体の事だ。

 習気は煩悩が尽きても、習慣性として残っているものを言う。

 功用は努力を意味し、証智は智慧を言う。

 煩悩を断つ事が出来た者とそうでない者。習慣性として残る煩悩もなくなった者と、そうでない者。

 努力する者とそうでない者。智慧を得た者とそうでない者……。


 住職がそう説くと、闇の中から声が返ってくる。


云何自知心(いかんじちしん)(しき)(じゅ)(そう)(ぎょう)(しき)(げん)()()(ぜつ)(しん)()(しき)(しょう)(こう)()(そく)(ほう)乃至一切(ないしいっせい)。界域、識域、所謂(そい)。『処の境界』一切(いっせい)分断。求めるに不可得」

 僕は、その言葉と声に驚く。

 住職の声に返ってきた声は、神祇伯の声だった。

 だけど……これは……法を説いている。

 住職も神祇伯も互いに法を説き、法を重ね合っている。

 まるで問答のように。


 社殿で神祇伯と顔を合わせた時、神祇伯が蓮に言った言葉を思い出す。


『出来るか出来ないかを訊いている。時がない。返答次第では配置を変える他ないからな』


 それはきっと、祭壇の奥に隠されているものを言っていたんだ。確かにあの時、蓮はその奥をじっと見つめていた。

 水景 瑜伽。神祇伯である呪力も、和尚(わじょう)としての法力も持っている。

 煩悩を断ち切る為に、どのようにして心を知るのか、それは感官であるのか、感覚であるのか……境界を示しても、得る事は出来ない……と、そう説いた。


 住職が答えるように偈を口にする。

開彼智慧眼(かいひちえげん) 滅此昏盲闇(めっしこんもうあん) 閉塞諸悪道(へいそくしょあくどう) 通達善趣門(つうだつぜんしゅもん)

 闇を滅ぼし、諸々の悪の道を閉ざし、善の門へと……住職はそう説き返した。


 少しの間が開き、住職は数珠を握った手をそっと下ろす。

 闇の中から光が見えた。

 その光は次第に大きくなり、闇を晴らしていく。

 僕は、闇が晴れていく事にホッとしていたが、それは僅かな時だった。

「依さん。私の後ろへと」

 住職の言葉に、何かが起こると察する事が出来た。

 闇へと突き刺さった無数の矢が、闇から飛び出して来る。


 住職の法衣の袖が大きく振られた。

 それは、黒衣に変わる瞬間だった。


 闇から飛び出した無数の矢が、高く天へと昇ったかと思うと、その矢の向きがまた地へと向く。

 いつまた矢が降り落ちるかと僕は、ハラハラしながら矢の動きをじっと見つめていた。


 辺りを白く染める程の光が、大きく広がる。

 同時に、落ち着きを持った声がゆっくりと流れた。

 その声は、当主様の声だった。


「放たれたものが邪であれば、その邪は……」


 カッと強く光が弾けると、向きを変えた矢が、もの凄い速度で地へと落ちて強い風を生んだ。


(かや)りの風を吹かせる」

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