第31話 広開
ふと、こんな思いが脳裏を過ぎった。
……もしも。
そこに魂が残ったままだったとしたら、その責め苦に耐える事は出来たのだろうか……と。
そう思いが浮かんだら、高宮の言葉が蘇った。
『責め苦を受ける前の魂が救済を求めるとは思えません。苦があるからこそ救いを求める訳ですからね』
……苦……。
あの時、幾つかの堂も社も壊され、それでも残った堂と社は空っぽになった。
投げ出された仏の像には矢を射られて、更には火を放たれ、その光景は地獄となんら変わりはしなかっただろう。
僕が側に居させて貰っているんだと、心の何処かで感じていたかと問われたら、それはなかったとは言えなくて。
いつか離れなければならない日が来るのではないかと思っていた。
「お力に添えます事、お間違えないかと存じておりますが……如何でしょうか」
住職のその言葉に、蓮と羽矢さんが僕を振り向いた。
二人の表情は、誇らしげにも、堂々とした笑みを僕に向けている。
僕は、少し照れ臭くもあって、微笑みながらも俯いた。
住職の問いが、体全体に染み渡る。
確かに僕は、ずっと二人に助けられている。
助けられている事に心苦しくあったが、それでいいと伝えられたのだと思えた事が、僕の迷いを払拭するようだった。
僕は、顔を上げて住職へと目線を向けた。住職は、真っ直ぐに向けた僕の目線を受け止めると、それが返答であると受け止め、静かに頷きを見せた。
穏やかで、ゆっくりとした所作。瞬きをするその仕草でさえ、関心なくはいられない。
僅かな動きにも、目を追わずにはいられなかった。
大きく、広く、何事に対しても受け止められるその許容は、安心感を与える。
住職は、本尊を前に偈頌を説く。それは先ず自らが請願し、実現に至る事に向けての意図の証明だ。
「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 願入弥陀界 帰依合掌礼……」
更に偈頌は続いたが、住職の声に重ねるように羽矢さんは、その後に続けられた住職の言葉を共にした。
「「広開浄土門」」
偈頌が重ねられた事に、住職の目線が羽矢さんへと向いた。
羽矢さんは、住職の目線を受け、ニヤリと笑みを向ける。
得意げにも見える羽矢さんの表情に、住職は少し呆れたような顔を見せたが、羽矢さんの返答を待っているようだった。
羽矢さんの得意げな表情は変わらず、住職へと答えを返す。
「願わくは功徳を以て、一切平等に施し、境地を目指す」
そう答えた羽矢さんを、住職はじっと見つめていたが、羽矢さんは目線を動かす事はなかった。
それは、間違いはないと、自信を持って答えた事だからだろう。
羽矢さんの思いが揺れ動くかどうかを見極めているようだった。
その様は、冥府での閻王と羽矢さんを重ねさせる。
この処では、住職がまるで閻王のようだ。
「よろしい」
少しの間が開いた後、住職はそう答えた。
羽矢さんは、当然だというような、自信に溢れた表情を見せていた。
穏やかな空気感の中で、心落ち着く静かな時を過ごせている。
それは皆、僕がそう思うと同じように感じていた事だろう。
住職の説法が終わりを迎える。
ゆっくりと立ち上がる僕たちだったが、向けられる声に動きを止めた。
「……ところで羽矢……」
住職のその声に、立ちあがろうと片膝を立てたところで、羽矢さんの動きが止まる。
羽矢さんは、その姿勢から少しも動きを見せず、住職の方にも目線を向けない。
そんな羽矢さんの様子を見て、蓮はクスクスと笑っている。回向は呆れた顔を見せていた。
羽矢さんは、肩を落とし、小さくも溜息をつくと、住職に答える。
「これよりの説示、一人、聴聞する事、願い……求めます……」
住職を向かいに座す羽矢さんに、住職はにっこりと笑みを見せて頷いた。
「よろしい」