女は疾く走る
アルバートは冷え冷えとした牢獄の中にいた。
それは彼自身の心が作り出した心象風景でしかなかったろうが、確かに体の芯まで凍るような冷たさを感じながら、ただその場に立ち尽くしていた。
沸き起こる感情は、後悔と羞恥。
何が民を守るか。
何が世界を平和にするか。
脳裏をよぎる罵倒に、己が失敗を噛み締めるしかない。
いまこの時ばかりは世界平和という夢も、王級に襲われる可能性も、すべてがどうでもよかった。
いいや、そもそもが過ぎた夢であったのかもしれないとさえ思うのだ。
己が傲慢で救える民を殺してしまう、その程度の男に何ができようか。
誤解がないように言っておけば、アルバートにとって死とは許容すべき悪友である。
恐怖によって世界を支配しようと決めた時から、邪魔者を殺すことも、手勢を目的のために死に追いやることも納得づくだった。
では守られるべき民が死ぬことは想定していなかったのかと言えば、それは違う。場合によっては民も死ぬことがあると理解していたのだ。ただしそれは、病や事故といった、己の手が届かぬやむを得ぬ事柄でのみだと確信していた。
そう、確信していたのだ。
それを慢心と呼ぶかどうかは後世の歴史学者に任せるとして、少なくともアルバートは己の手が届く範囲において、守られるべき民が守られ生存することを微塵も疑っていなかったのである。
ゆえにこそ、アルバートは苦悶する。
己が手が届かない状況だったのか、否だ。
くつがえせぬ状況だったのか、否だ。
情けないと思うが、アルバートは自分の失敗がゆえに民を殺し、それを間近で見たことに激しい衝撃を覚えていた。
自分の判断が一つでも変わっていれば、あの少女はいまも生きていた。姉を思う妹は、いまも仲睦まじく姉と手を取り合っていた。ギドの村人は誰一人かけることなく、平穏な日常を送っていた。
エギオラが殺したのではない、己が殺したのだ。
すべて自分の判断の誤りであり、責任は己にある。
この糞のような愚か者の傲慢が、あの少女を殺したのだ。
鬱屈とした思考に、アルバートは何もする気力が起きずにいた。
イグナーツやモーロックの声が幾度となく聞こえたが、それらに答えるという行動一つが億劫に感じられたのだ。
それはいわば、心の閉塞であった。
それからどれほどの時間が経過したのか。
もはやこのまま冷たい牢獄の中にあればいいと自虐的に考え始めていた頃、ふとぬくもりを感じた。
体の外側から温かい柔らかな熱が伝わってくる。
それはまるで、真冬の寒さに凍えた体を湯舟に沈めた時のように、じわりと温めてくれる優しいぬくもりだった。
そして、ひどく懐かしい声が、アルバートの名前を呼んでいた。
「――様」
目を開けると、赤い光が見えた。
いや、光と見えただけで、実際には天幕の入口から差し込む陽光に透ける、美しい紅い髪のベールだった。
アルバートは仰向けに寝ているのだが、その上からコルネリアが覗き込んでいるせいで髪が薄衣のように顔にかかっているのだ。
どうやら、コルネリアの膝に頭を置いて寝かされているらしいと気づくが、そんなものはどうでもよかった。
「呪術王様」
「……呼ぶな」
返答があったことに気づき、コルネリアの顔に満開の花が咲いた。
「よかった、お目覚めになられたのですね呪術王様」
切れ長の眦からぽつりぽつりと水滴が滴るのを見れば、心配をかけたのだろうと嫌でも察する。
だがそれでも、生まれたのは拒否だった。
「その名で呼ぶな! 私は、アルバートだ!!」
しまった、という気持ちと、もうどうでもいいかという気持ちが同時に沸き上がった。
きょとんとするコルネリアの顔が、なんとも腹立たしかった。
「呪術王様?」
「私は呪術王などではない! ただの人間、ただのアルバート・フォスターだ! 確かに呪術王の力を受け継いだが、お前達の救世主の呪術王本人ではない! だから、だから――」
もう終わりだと思った。民すら守れぬ軟弱者に世界平和など成し遂げられるはずもない、ならば自分からすべてを暴露して終わらせてしまえばいいと思った。
「……だから?」
コルネリアの聞き返す声がわずかに震えているのを感じ、目を見ることができずに顔をそむけた。
そして、吐き捨てるように言った。
「私を呪術王などと呼ばないでくれ……頼む」
◆◇
時は少しばかり遡る。
メギナ・ディートリンデの執務室で政務に励んでいたコルネリアは、遠隔通話の魔道具によって呪術王の状況を知らされた。
イグナーツの説明では何が起きたか要領を得ないが、少なくとも主君が正体を無くしているらしい。
すでに主君が変容し五日が経過してイグナーツも対処に困っていると聞くや、コルネリアはすべての業務を投げ捨て駆け出していた。
恐ろしいことに淑女として身支度を整えるなどという思考は露とも頭に浮かばなかった。取る物も取らずに厩舎に向かい、手近な馬の背に蹴上がるやそのまま廃都を後にギドの村へと向かったのである。
ギドの居住地まで中隊の行軍で二日の距離とはいえ、全員が騎兵、しかも精鋭の死鬼族の中隊である。一日の行軍距離も当然のように常識をはるかに超える距離だ。
だが、コルネリアは街道沿いに設けられた兵の駐屯地で馬を変え、死に物狂いで駆けに駆け、実に一昼夜という短期間でギドの村に到着していた。
その速度は脅威としか表現できない。
イグナーツが送り出した精兵の早馬ですら途中に休憩を挟みながら一日半の時間がかかった道程を、休みなしに一昼夜で駆け抜けたのである。
君主であるとはいえ、紅眼族であるコルネリアが身体的な強度が死鬼族の精兵に劣るのは言うまでもなく、まさしく想いが肉体を超越した事例と言えた。
「呪術王様はどこですか!!」
大音声に天幕を飛び出したイグナーツは、昨日の今日でコルネリアが現れたことにまず驚いた。
それから、コルネリアの姿を目にしてさらに驚いた。
馬を飛び降りたコルネリアは歩くことすらままならぬほどに疲弊していたのである。
さらに言えば、イグナーツの知るコルネリアはどんな時も身だしなみに気を遣う鼻持ちならぬ女のはずが、汗と砂埃に塗れ、額にへばりついた前髪を払うことすら忘れる有様なのだ。
一瞬、本当に目の前にいる女がコルネリアかと自問する程度には唖然とし、しかしすぐにそれどころではないと主君が待つ天幕へと案内した。
「呪術王様!」
自分では勢い込んで天幕に飛び込んだと思ったが、実際には痙攣する両足を引きずり、イグナーツの腕にすがりつくようにしながら天幕に入った。
そこにいたのは、敬愛する主君であった。
ただ、様子がおかしい。
暗がりの一点をぼうと見つめながら座り込み、微動だにしないのだ。
コルネリアの来訪にも気づいていないようで、横に座って呼びかけても反応はなかった。
「もうい六日もこの状態なのだ。ギドの村人が一人死んだことぐらいしかきっかけが思いつかんが、そんなことでこうなるとは思えんしな。とにかく、いくら声をかけても反応がない。こんな状態をほかの者に見せるわけにもいかんからお前に連絡したが……他には誰も来ていないのか?」
「必要ありません。私が適任ですから」
紅眼族は戦闘能力こそ低いが、その他の能力は軒並み高い。言ってしまえば裏方に特化した一族であり、特に高い能力を発揮するのが政務と医術だ。
コルネリアは幼いころから政務を特に叩き込まれているが、医術の心得も最低限は持ち合わせている。
だからこそ、アルバートの状態が一種の心神喪失状態であることを看破していた。
目を覚ますだけならば簡単だが、問題はその後。
心に負ったなにがしかの傷に折り合いをつけられるかどうか。
心の平衡を保てず、元に戻らなかった者を幾度も見てきたコルネリアにとって、それだけは避けるべき事態だった。
「少し時間がかかります。二人にしてください」
「わかった。手が必要な時は呼べ。だが、急げよ。少しばかりきな臭いことになっているからな」
言われて、出迎えにモーロックの姿がなかったことに気づいた。
アルバートの側仕えであり、護衛でもあるモーロックが出迎えにも現われず、主君の天幕に控えているわけでもないという状況は確かに異常を感じさせる。
下手をすれば、という不穏な考えがちらつく。
呪術王に仇なす存在を許すべきではないが、少なくともいまは問いただすよりも先にやるべきことがあった。
「そちらは任せます」
「わかった。頼むぞ」
そして、時はまた元に戻る。
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