異様なる男の崩壊
目の前の光景があまりにも非現実的に思え、イグナーツは一瞬我が目を疑った。
目の前では、主君たる呪術王が罵声をあげながら少女の胸を何度も何度も押し込み、挙句の果てには殴打までしているのである。
胸部圧迫や人工呼吸、前胸部叩打法などの心肺蘇生法という概念がないこの世界では、死者はどこまでいっても死者でしかない。蘇りとはすなわち奇跡であり、万に一つの事例である。
そんなものをアルバートが故意的に発生させようとしているなどとは想像もつかないイグナーツにとって、主君の行動は死者への冒涜に他ならなかった。
だが、アルバートは言った。
手を尽くすことは約束する、と。
それはつまり、どれほど異常に見えてもアルバートの行動は命を助けるためのものであるはずだ。
そう信じたい気持ちがむくりむくりと頭をもたげるが、しかし獣じみた絶叫で罵声をあげるアルバートの姿に萎えそうになる。
それほどにアルバートの姿は狂気を孕んでいたのだ。
そうこうしている内に、アルバートが動きを止めた。
ようやく気が済んだ、という様子ではない。気力のすべてを失ったかのように悄然と座り込み、ぼうと少女の死体を眺め始めるではないか。
「あれは、誰だ……?」
自問など意味もなく主君であるはずで、イグナーツの目を盗んで別人に入れ替わったなどということもない。
体の内から漏れ出る膨大な呪力を感じるまでもなく、目の前の存在が呪族の守護者たる呪術王であることは疑いようもなかった。
だがイグナーツ達呪族にとって、主君とはすなわち絶対者である。力と威厳を合わせ持ち、これぞ我らが王ぞと声高に叫び、納得いかぬことがあっても頭を下げさせるだけの威容を誇る者のことなのだ。
もちろん生物である以上は欲望や弱みを持つこともあるだろうが、こと呪術王という存在に関していえば、主君としての弱みというものは一切存在していなかった。
唯一、魔導に関する強い関心と探求心が旺盛という点があるが、それは呪術王という存在の根幹たる呪術を強化することにつながる。己が力を目的のために強化することは、イグナーツにとっては弱みとまでは言えない。
つまるところ、主君はおよそ考えうる限り完璧に近い存在だったわけだ。
それがどうだ、目の前にいる男の在り様といったら。
まるで抜け殻のようであり、これでは主君と呼ぶことなど難しいではないか。
あれは人の目に触れさせてはいけない。
主君の威厳が、呪術王という存在への忠誠の根源が揺らぐ代物だ。
イグナーツはその考えに思い至ると同時に駆け寄り、羽織っていた上着でアルバートを覆った。
運がいいと言うべきか、周囲はさいほどの呪術によって粉塵が立ち込めて視界が悪く、ほとんどの者がアルバートの姿に気づいていなかった。
目を凝らして周囲を見まわし、数人の顔を覚える。いずれもイグナーツの直近にいた部下達であり、その中には長年付き従ってくれた副官の姿もあった。
だが、彼らの顔はいま自分が見たものが信じられぬと語っている。
口が固く、彼らの口から情報が洩れるとは思えない。
それでもイグナーツは苦渋の決断をした。
「モーロック殿、呪術王様を!」
同じくアルバートの姿に呆然としていたモーロックだが、さすがに我に返ればイグナーツと同じ結論に至る。
災いの芽が育たぬことを願うなど愚かなこと。可能であるならば、根本から引き抜き処分してしまうべきなのだ。
モーロックに後を任せたイグナーツが近寄ると、怪訝な顔をする部下達の中で、副官だけが覚悟を決めたように頷いてくれた。
「察しが良いのも良し悪しだな」
「いえ、そろそろイグナーツ様のお守りも飽きていたところなので。楽隠居と洒落こませて頂きましょう」
「戯言を……だが、そうだな。良い隠居生活を送れ」
「ええ、あなたの分まで存分に」
拳の一振り。
ただそれだけで、つまらなそうに言った青い巨人と部下達は地面に転がり、二度と言葉を発さなかった。
副官は皮肉屋だが仕事は確実にこなし、死鬼族には珍しく頭を使うことを好む素晴らしい戦士だった。それこそ、親の顔よりも長くその仏頂面を拝んだものだ。
胸に去来する想いを吐き捨て、イグナーツは声を張り上げた。
「呪術王様に仇なす裏切者を粛正した! しかし、呪術王様は傷を負っておいでだ! ここに陣を張り、呪術王様の傷を癒す! 貴様ら、準備にかかれ!!」
「は、ははっ!」
直前までともに肩を並べていた者達が裏切者だと言われても納得し難いだろうが、訓練された精兵達はひとまずの思考を棚に上げてすぐに行動を開始した。
働き蟻に思考する頭は不要。
兵は命令を与えることで働き蟻となるものだ。
悩み苦しむのは、指揮官だけでよい。
「イグナーツ殿、これも処分を」
モーロックが示した少女は、横たわる死体の妹だ。
「駄目だ。その少女は呪術王様が守れと命じられた。処分するにしても、呪術王様が落ち着かれてから判断を仰ぐ必要がある」
「ならば、せめて隔離を。情報が漏れては目も当てられない」
「言われずともそれくらい分かる。少し口を閉じていろ!!」
ひとまず、少女は建てられた天幕の一つに押し込み、兵に見張らせることにした。
それ以上は何も命令せず、イグナーツは天幕に引きこもった。
怒りと悲しみがないまぜになった不快感に支配された彼にとって、もはや何も考えることはできず、ただ、主君の復活を待つことしかできなかったのだ。
だがそれから四日が経過しても、アルバートが元に戻る気配はなかったのである。
コルネリアに早馬で現状を伝えたのは、苦肉の策であった。
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