傾国の王
呪術王の出現は、世界を混乱の汚濁の中にどっぷりと浸した。
ラーベルク陸軍大将の死と、世界の敵――呪術王の出現という事実。
現代日本とは異なり、神の存在を身近に感じる世界だけに、それらの事実がもたらす衝撃はひどく大きく人心は容易に乱れかねない。
だからこそ、国家という壁が遮二無二なって隠蔽をしようとした。
彼らは秘密裏に呪術王の存在を確固たる事実として確認し、あらゆる国家が連合して対応できるよう体制を整えようとしていた。万全の準備の末に国民に事実を伝え、不安と恐怖をすべからく戦意に昇華させるのだ。
それができてこそ、世界の敵を最小限の被害で確実に滅することができると考えたのである。
それがどうだ、情報の海に重しとともに沈めていたはずの呪術王復活の報は、あっさりと白日の下にさられてしまった。
まだ戦える準備は整っていないというのに、やけくそのように戦うことを選ぶ民衆どものなんと愚かしいことか。
ましてや説得すべき呪術王討伐に消極的な指導者連中は、どこからとも知れぬ情報に踊らされ、呪術王など存在しないと愚にもつかぬ確信を深めているではないか。
あらゆる国の足並みが乱れ、人心は荒れた。
考えうる限り最悪の出だしである。
とはいえ、人の噂などそう長く持つものでもない。噂など吹き抜ける風のように去りゆくものだ。
ラーベルクの回覧板以降、呪術王から明確な接触がなかったこともあり、いつしか人々は呪術王の復活に対する意識を薄れさせていく。一年という長い時間が、人々の狂乱をじわりじわりと平常へ近づけていた。
それはロゼリア神聖王国の最奥に勤める、歴戦の武装神官達も同様だった。
彼らは神官として五年、騎士として十年以上の修習期間を経て、初めて武装神官と認められる。齢三十を超えていることがざらだが、その修練の長さと年齢ゆえに成熟した精神と実力を併せ持つ。
油の乗った鍛え上げられた肉体は筋肉の鎧に盛り上がり、卓越した技能を支える熱心な向上心を持って、それぞれが英雄級の力を持つ。
揃いの銀色の鎧ゆえに銀騎士とも呼ばれる彼らは、いかにも勇ましい。
一軍に十数人もいれば強軍と評される英雄級のみで構成された軍隊。
彼らの存在はロゼリアを各国から一目置かせる、それほどの戦力だ。
しかし、時の流れは彼らにも等しく影響を与え、戦争の気配を忘れかける有様だった。
事実、神殿の警備に就いていた一人の武装神官は、深夜まで魔導書を読みふけっていた影響もあって、うつらうつらと睡魔と戦っていた。
そんな彼に、溌剌とした声が飛んだ。
「ご苦労様です! 過ごしやすい季節になってきましたね!」
大量の食事を乗せたワゴンを押す少年が声をかけると、はっと我に返った武装神官がわざとらしく咳払いをしてみせた。
少年はそんな様子におかしそうに笑いを噛み殺し、扉を開いてくれた彼に礼を言って扉を潜った。
英雄級の武装神官が守る扉であるから警戒厳重な場所のはずだが、この少年は見咎められることもなかった。むしろ、彼以外にこの部屋に入れる者はいないのだから当然とも言える。
さっさと部屋の中に入った少年は扉を閉めると、それまでの愛くるしい笑顔を放り捨て、妙に大人びた粘りつくような笑みを浮かべた。
部屋の中は分厚いカーテンで光が完全に遮断されていて、壁に吊るされたランプの魔道具の明かりだけではなんとも頼りない。
だが、少年は特に気にする様子もなく部屋の中央にワゴンを留めて部屋の主に声をかけた。
「ご飯をお持ちしましたよ、聖神祈王様」
「おう、ミシェルか。待ちわびたぞ。ちょうど運動していたところでな、飯が食いたいと思うとったんじゃ」
蓮っ葉な口調だが、それは紛れもない少女の声だ。
ただ、やや艶っぽい。
上気し、体の動きに合わせて跳ねるような喘ぎが混じる声だった。
ミシェルはその声の主を見て、またかと顔をしかめた。
わずかな光に浮かび上がる少女は、年の頃にして十四、五というところか。金糸のようなきめ細やかな髪は左右の側頭で結ばれている。
いわゆるツインテールという髪型だが、長い毛先が上下の動きに合わせ汗で濡れる腰にひたりひたりと打ち付けられている様子は淫靡で仕方ない。少年は男の劣情を誘うためにわざとその髪型にしているのではと疑っているのだが、あながち間違っていないだろう。
少女は全体的に細いが、痩せぎすというほどでもない。
子供から大人への階段を登りかけ、ほどよく肉が付き始めて女性らしいフォルムになってきた頃合いだ。
つんと上向く二つの突起も、年相応よりわずかに大きな膨らみの上にある。
それらが見えている以上当然だが、彼女は裸だった。
いいや、もっと直截に説明するのであれば、彼女の下には男がいて、裸であるべき行為に勤しんでいた。
白い裸身を汗で濡らし、男の上で楽し気に体を跳ねさせる姿は、多くの男達の生唾を誘うだろう。二つ残念なことがあるとするならば、魅力的な円らな瞳であろう双眸が、金色の一つ目が描かれた黒い目隠しで塞がれて見れないこと、そして愛らしいであろう両の手が拘束されているということだ。
首元と両腕だけをたっぷりとした布が覆い、二本の腕を後ろに回した状態で袖口をベルトで繋がれている。
いわゆる暴れる可能性のある重篤な精神患者用の拘束具、それの胴体部分が存在しない物を想像してもらえば良い。
これでは少女の可憐さは陰り、魅力も半減するというものだ。
いいや、逆か。
歪な社会を闊歩する労働者諸君にあってはむしろこういったモノがお好みで、きっといきり立つ己に驚きつつも新たな扉を開いていくのだろう。
少女のいたいけさが、可憐さが、美しさが。
拘束され、蝕まれ、蹂躙される。
偏見という誹りを恐れずに謂わば、それに興奮する歪んだ者達はひどく多いに違いない。
そう確信させるほどに、少女は蠱惑的に過ぎたのである。
「くふっ、くふふふっ」
急に笑い出して男の上から飛び降りた少女は、どかりと男の腹部に腰かけた。
「なんじゃ、いつの間にか事切れておったわ。道理で柔っこいと思うた……まったく、期待はずれじゃのう」
「聖神祈王様がお相手じゃ無理ってもんですよ。だって、底なしの蟒蛇じゃないですか」
「くふっ、くふふふっ」
少女は動かなくなった男を椅子代わりに腰かけ、ぷっくりとした小さな唇を突き出して食事を催促した。
拘束具のせいで自分で食事ができぬからこその行動だが、それがまた淫靡に誘うように見える。
だがミシェルも慣れたもので、気にする様子もなく一口で食べれる程度に食材を乗せた匙をテンポよく少女の口に運んだ。
「うむうむ、やはり味わって食うなら美味い飯に限るのぅ。これで腹が膨れぬのが残念じゃな」
「やっぱり膨れないんですか?」
「膨れぬのぅ。長く拘束されておったからの、失われた力を取り戻すにはまったく足りはせんわい。ようやっと頭でっかちの小僧どもが飯を用意してくれたはいいが……いやはや、小粒過ぎてのぅ。腹が膨れるまでどれほどかかるか。おかげさまでずいぶんと体が縮んでしもうたわ」
この場合の飯が何を指すかは、少女がわざとらしく足蹴にする男の死体を見れば一目瞭然だろう。
彼女はかつては世界最高の聖女と名高かった王級の一人だ。
だが、呪術王との戦いで受けた呪術により、人の魂根を食らう化け物になり果てていた。
王としての力ゆえに呪術王の眷属に成ることは防いだが、それでも人ではない何かに変貌を遂げてしまったのである。
死なず、滅せず、ただひたすらに命を食い漁る魔性。
呪術王が消えた後、時のロゼリア教教皇が多くの犠牲を出しながら少女を捕らえたが、その時までに多くの男が食い漁られていた。
その瞳は魅了の魔力を持ち、抵抗に失敗した者は目を合わせるだけで虜となる。
いまでこそいたいけな少女の姿だが、かつては豊満な肢体を持つ妖艶な美女であり、その瞳の力は嫌が応にも効果を増して、生来不能の男ですら抗えぬほどだったという。
平民も貴族も王族も関係なく食い散らかされ、失われた国は一つや二つではない。
ゆえに<傾国>。
ロゼリア教の最大戦力であった聖神祈王は、その戦場での戦い振りから敬意を込めて蹂躙聖女と呼ばれ、魔性に堕ちることで傾国と呼ばれるに至ったのだ。
「わざわざそんなことしなくてもご飯は食べられるでしょ。接吻でもいいって聞きましたよ?」
「可能じゃが、嫌じゃな。どうせなら楽しみたかろう。それが駄目ならば腹を空かせておったほうがマシじゃ」
「それ、目的と手段が逆になってません?」
「くふふ、あれもこれもと求める強欲こそ妾が本性よ」
自慢げに胸を反らす少女に、ミシェルはため息をついて上着を着せてやった。両手を拘束されているせいで、少女は一人で服を着ることすらできないのだ。
あまりにも厳重なそれらの拘束が、少女に対する教皇達の恐れの現れだった。
「ところでのう。毎回言っておるが、名前で呼んで欲しいのじゃがのう。妾にはシルフィナ・ラ・ユミナという名前があるのじゃ。愛情を込めてシルフィナと呼んでよいぞ?」
「はいはい、わかりましたよ、聖神祈王様」
ミシェルの返答に面白そうに笑いながら、少女は身支度をするミシェルのされるがままになっていた。
「おう、ところで例の話はどうじゃ。そろそろかの?」
「そうですね。教皇からも催促が来ていますし、もう間もなくかと思いますよ。正直、ここまで引っ張るのが大変なくらいの矢の催促だったので……ちょっと誘導したらすぐに動くと思いますね」
「ふむふむ。飯が足りんのに戦えとは、無茶を言う小僧よのう。とはいえ、約束は約束じゃ。忘れるでないぞ、ミシェル」
丁寧に髪を梳る少年の手つきに気持ちよさそうに足をぱたぱたと動かしながら、ロゼリア教によって封印された強欲な少女は楽し気に歌を口ずさんだ。
遠い昔に失われた歌劇のそれは、男と女の許されざる愛を歌ったものだ。
少女には不似合いながら、妙にしっくりとくる。
「もちろん、忘れていませんよ。教皇は自分達が全て操っていると思っているようですが、全て手のひらの上とも知らないんでしょうが……少しばかり思い通りに行き過ぎていますね」
「所詮は己の都合のいいようにしか考えられぬ小僧というわけじゃな。人とはなんとも愚かしく、どれほどの時が経とうと変わらぬことがないものじゃ。くふっ、ふ、可愛いのぅ、やれ、可愛いのぅ」
シルフィナの楽し気な笑い声は、それからしばらく部屋に響き続けた。
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