番外編 娼婦の部屋にて
若干、本編にはなかった性的・残酷なシーンがあります。苦手な方は注意をお願いします。
娼館での、ジュラールに会うまでのリズ視点です。
「あの兵士達は?」
「公国が宣戦布告をしてきたということです!」
リズが目覚めると、部屋の外が騒がしかった。
「王は……亡命をしたとのこと。王族は既に姿を消したと伝わってきています」
「まさか! 民を見捨てたのか?」
リズの父の怒号が聞こえた。
少女は、あんなに激しい父の声は初めて聞いたような気がした。
バン、と勢いよく扉が開かれメイドが部屋に入ってくる。その顔は悲壮感に満ちていた。
「失礼しました。お嬢様、急いで避難を。なんとか国外に逃れる事ができれば……」
その声をかき消すように、ドタドタという誰かの、大勢の足音が聞こえた気がした——
リズが貴族だった頃の記憶はここで終わっていた。
*******
「起きなさい」
リズは気がつき目を開けると、見知らぬ天井が見えた。何か強制的に起こされたような、不快感がある。
起き上がると目の前には、執事風の服を着た館の主がいた。
「あの……ここは?」
「あなたは、奴隷として売られたのです」
「奴隷……?」
主の言っていることが理解できない。私は公爵……貴族だ。奴隷っていったいどういうことだろうか?
「どういうことですか——」
「黙りなさい」
主がそう言うと、言いかけた口が勝手に閉じ、リズの胸に激痛が走った。少女は、手を胸あてて痛みに喘ぐ。
「うぅ」
「その痛みは、奴隷の呪いによるものです。今後、私や使用人などこの館の者の命令を聞いていれば、痛みはありませんよ」
その声は優しかったが、有無を言わせない迫力があった。
リズは、先ほどの痛みを恐れ、何よりも彼の言葉に従うことにする。疑問は、後で解消していこうと考えていた。
「リズ・ド・ボロトラか。少々若すぎるが……この顔立ちと、気品なら客も取れるでしょう。あなたは今後は、リズ、とだけ名乗りなさい」
「はい」
何か書類のようのような者をめくり、彼が言った。多くの疑問が生まれるが、リズはそれを飲み込んだ。
「着いていきなりですが、貴方に指名がありました。優しい紳士ですので安心してください」
相変わらず、何を言っているのか理解が追いつかなかった。指名? 優しい紳士?
「初めてでは……辛いでしょう。この水を飲みなさい」
主は、透明な水が入ったコップを渡してきた。その水は、鼻を突く匂いがした。
リズは戸惑ったがさらに「飲みなさい」と言われたため、渋々口にした。
口に入れると甘く感じ、すっと喉を通った。渇きを感じていたので、ごくごくと飲んでいく。不思議なもので、飲めば飲むほど、美味しく感じた。
「はい、結構です。少しふらつくかもしれませんが、貴方の為ですよ。では、こちらの服に着替えてください」
主が、薄く肌の露出が多い服を渡してきた。
この後のことをリズは良く覚えていなかった。
ぼんやりと、夢の中のように、体のあらゆる感覚がぼやけ頭も上手く回らない。眠くはないけど何か考えようとしても、ぼーっとしてできなかった。
まるで他人ごとのように見える映像、音、味、匂い、触ったり触られたりする皮膚の感覚。
その後に会った中年の貴族の男性に体を洗われ、裸で抱き合って——。
そして……痛み。
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「リズちゃん。あらかわいい」
次の日、リズは、この館で働く女性が待機する部屋にいた。
彼女たちは、様々な理由で娼婦をやっている。だが、その意味そのものをリズは理解できなかった。昨日、自分が何をして、何をされたのか、その意味を。
「辛かったよね」
娼婦の一人がリズを抱き締めた。温かく、柔らかくて、いい匂いがした。石鹸の香りがする。
「良く覚えてなくて……あの、色々教えて貰えたら……」
「うん、もちろん」
リズは、自分の両親がどうなったのか心配だった。そして自分が何をするのか。
娼婦達は、優しく一つ一つ教えてくれたのだった。
リズの両親は、遠くに行ってしまったと娼婦らは話した。また会える? と聞くと、彼女たちは泣きそうな顔になり、いつかきっと、と話した。リズはなんとなく察した。もう二度と会うことはできないのだと。
実感がない分、受け入れも早かった。今の状況ですら実感がない。なんとなく、自分の心のどこかが壊れたかもしれない、そうリズは感じていた。
リズ自身のこと。ここは、少女が暮らしていた国でも公国でもなかった。遙か遠くの別の王国。奴隷制が色濃く残るこの国に、リズは奴隷として売られてしまったのだと説明された。
その理由は公国に戦争で敗れたから、ということであった。リズは、これもなんとなく理解したことにした。
この館で、自分が何をするのかということも聞く。リズは若すぎたため、その意味と、何のためにするのかは理解できなかったが、何をするのかは理解できた。
ただ、行為自体は嫌だった。裸になることも、知らぬ男に触れられることも。昨日の甘い水は、それを和らげてくれたようだ。心身の疲弊を引き換えにして。
「リズ、指名だ」
あの甘い水は、もう飲ませて貰えなかった。欲しいと館の主に言ったことはあるけど、駄目だと断られた。
リズは、その後仕事で何をしても、痛みしか感じなくなっていった——。
******
「お客様。彼女は、この館の大切な商品です。傷を付けられますと……。今後のご利用は遠慮いただきます」
リズに暴力を振るった男が、出入り禁止になった。
時々、日頃の鬱憤を晴らすような男がいた。少女の両腕を縛り、どうやって持って入ったのか鞭で打つ者もいる。上級貴族といえど、歪んだ性癖を持つ者などいくらでもいたのである。
しかし、初回だとか、今まで問題が無かった客は一回受け入れてみないと分からないという事情もあって、被害を受けてからでしか手を打てなかった。
傷や怪我は、お抱えの治癒の魔法を使える者が治せる。
しかし、それを受けた時の痛みや、心の傷は塞ぐことができない。傷だけは早く治せるだけに、休むことが許されなかった。体には、次第に痣が残ることが増え、少女は心身を消耗し衰弱していった。
「リズ、指名だ」
この声が聞こえると、リズは体が震えはじめるようになっていた。さすがに限界に来そうになったときは、甘い水でその場を凌ぐ。だが特に精神面での負担が大きく、毎回飲ましてもらえるわけではなかった。
全てを諦めれば……痛みも少ないよね、きっと……。
このままでは、心が壊れる。リズは考えた結果、感情を殺すことにした。
何も思わず、何も感じなければ、もう少し耐えることが出来る。耐えることが出来れば、もう少し生きていられるかもしれない。
そうやって工夫しつつリズは、なんとか仕事をこなす。しかし限界は確実に近づいていた。
朝になると、ぽろぽろと涙が出てきていた。空を登っていく太陽が嫌いになっていた。
自殺は呪いによってできず、逃げることもできない地獄で、リズは神経をすり減らしていった。まだ若い彼女にとって、状況は過酷すぎたのだ。
もう、朝なんて……来なければいいのに。この世が、滅んでしまえば……。命なんかなくなってしまえば……。
それでも、朝はやってきた。
「リズ、指名だ。定期的にこの客が来るようになれば、お前の負担を減らせるかもしれない。ミスは許さんぞ」
瞳から、ほとんどの光が消え去ったある日、館の主はリズに告げた。
******
二人連れの紳士がいた。
一人は、中年でこの館でもありふれていたが、もう一人は若かった。十四〜十五歳といったところだろうか。
リズは、少年を相手にすることになった。
彼を見て、歳が近い分親しみを感じた。根拠など全くなかったが、リズは少し休まるような気がした。それにしても、二人とも気品に溢れている。話し方や服装、歩き方。人への接し方が優しい。それに、不思議と凄みも感じる。その姿は、他の貴族と比べても、圧倒的だった。
きっと最後は、今までと同じように嫌な思いと痛いことをすると思うのだけど、彼なら多少は……ましかもしれない。少女はそう思った。
部屋で、リズと少年は二人きりになる。
「座って話がしたいのだが」
少年はそう言って、リズがしようとしたことを制止した。
彼の体調が悪ければ仕方ないことだが、自分が何かミスをしてたということであれば、呪いの罰を受けるかもしれない。
リズは不安になった。せめて機嫌を損なわないようにと、彼の隣に座って質問をする。
「具合でも悪いのですか? それとも私をお気に召しませんでしたか?」
「いや……問題ない。ここには君くらいの年の子がいるのか?」
この人は……今までの人と違うとリズは感じた。自分を見下すようなことも、嫌らしい目で見てくることもなく私自身を見て話をしてくる。
だったら、それに応えようと思った。多少感情が出てしまっても、大丈夫かもしれないと期待しながら。
少し話をしていると、少年は唐突に聞いてきた。
「君の名前を教えてくれないか?」
最初に会ったときに紹介されていたのだけど敢えて聞いたようだ。リズは素直にもう一度、名を伝える。
「リズか、良い名だ」
お世辞を言うのでもなく、思ったから言った、そう感じたのでリズはとても嬉しかった。両親からもらった最初の贈り物。まるで両親をも褒めてくれたと感じて、喜びが倍増する。感情が動くのを止められなくなっていた。
気がつくと少年はリズの顔を見つめていた。
その瞳は、とても暖かで真剣だった。しかし、しばらくそのまま少年が固まってしまったように感じる。彼の心が、どこかにいってしまったような……。
私は、いったいどうしたらいいのだろう?
心配になって、呼び戻すように話しかける。すると少年は、はっと我に戻るような仕草をして、顔を少し赤らめて頭をかいた。
その様子を見て「とても可愛らしい人」と少女は思った。失礼にならないように心の中で微笑む。もうそれだけで、リズの心が安まるのを感じた。
他愛ないやりとりが、とても楽しい。リズは、この少年ともっと話をしたいと思い始めていた。
しかし、彼が別の話題を振ってくれたとき、突然この部屋のドアが開く音がした。リズは無意識のうち立ち上がり、ドアを開けた者を見る。
男二人。一瞬立ち止まった後、短剣を構えてリズの方向に走り出した。少女は突然のことに動けなくなってしまった。
「リズ!」
少年に押され、リズはベッドに倒れ込んでしまう。振り返ると少女がいた場所を、男の持つ短剣が通り過ぎ、少年がそれを受け止めた。
彼が押してくれなければ、今頃胸に短剣を突き刺され——。
…………怖い。怖い!
これまで感じたことのない身の毛がよだつような恐怖に、寒気を感じてリズは自らの体を抱いた。死の淵が一瞬見えたような気がした。かたかたと体が震えている。
ガキッと音がする方向を見ると少年が必死の形相で、男達と戦っていた。
彼がいなければきっと私は死んでいただろう。でも、今は彼が危ない目に遭っている。自分のせいだ……。
少年は二人から受ける短剣の攻撃をうまくかわした。やがて、男共が立ち去ると、リズは彼が無事なことを確認し、安堵の息をつく。
気がつくと、少年と二人きりになっていた。
リズは恐怖から解放されておらず、頼れるものを探した。その結果、つい、側にいた少年に抱きついてしまう。彼は嫌な顔一つせず、受け止めてくれたようだ。
鼓動が、伝わってくる。とくん、とくんと少し早くなっていた。彼から感じる体温が少し熱い。
背中に少年の手を感じる。彼が抱き返してくれたのだ。その気持ちが嬉しかった。少年の片手はリズの髪の毛に触れていた。少しこそばゆいけど、嫌では無かった。もっと、触って欲しいと少女は思った。
少女は、しばらく少年と話をする。次第に心の傷が癒えていくように感じた。
あ……。
少女の心に温かいものが触れる。いつのまにか頬に伝っている涙を、少年の親指が拭ってくれたのだ。自分が泣いていたことを、ようやく実感した。
恐怖からの解放もあったが、何より自分のことを少年が思ってくれていることが嬉しかった。商品ではなく、一人の人間として。
もっと彼に触れたい。
リズの手は、少年の手を取り自らの頬に当てた。これまで感じたあらゆるものより、温かく感じる。少女は目を閉じ、その熱を漏らさぬように心に刻んだ。
ああ、この手はなんて優しくて、心地よく私を癒してくれるのだろう。
リズは、また明日から始まる地獄に、何か少年のとの絆が欲しくなった。今しかないと思い、聞いてはいけないという気持ちを振り切り、彼に問うた。
「お名前を聞いても……よろしいですか?」
それさえあれば、また辛い日々を乗り超えることが出来る、彼に会える日まで頑張れる、少女はそう思った。
少年は、全く躊躇せず、リズが一番欲しかったものを与えてくれる。
「ジュラール」
ああ、なんて素敵な名前だろう。この名前があればまた頑張れる。自らの心を見失いそうなときは、彼を思い出そう。
ありがとう……沢山のものをくれて……私を見てくれて……ありがとう。
リズの瞳に強い光が宿った。また会えたらいいなと少女は夢を見る。
その夢は、すぐに現実になるのだった。
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翌日、何者かの手配によりリズは娼館を離れた。
しばらく経った後、館の主が死体となって街の郊外で発見された。リズに対し過酷な状況を与えた報いであった。
また、同じ館に働く娼婦のうち数名に施されていた奴隷の呪いが解かれていた。そのうち館に残る者もいたのだが、少なくともこの館で働く娼婦の中に、奴隷は一人もいなくなったのは事実だった。
そして、後任となる主は、ある王国から派遣された者であった。以降、この娼館の娼婦達の労働環境は、それまでと比べものにならないほど向上した。
それもまた、リズを励まし、支えていたことに対する、報いであった。