最終話 王様の杖
祭壇に仰向けになっているリズを、ジュラールは突っ立ったまま、見つめていた。
彼女は目を瞑り、にっこりと笑っているように見えた。とても安らかに、眠っているように見えた。花が静かに咲いているように見えた。
先ほどまで触れていたリズの温かさが、体に残っていた。
頬に、唇に、手のひらに、指先に、胸に——。
彼は、リズの胸に杖を突き立てるように、持ち上げ、下ろそうとした。しかし杖の先端は途中で止まり、それ以上リズの胸に近づくことはなかった。
ジュラールは思い知った。ほら、こんなことできないじゃないか、と。彼女を生贄にすることなど、できなかった。彼は最初から決めていたのだ。今こそ、我が身を生贄として差し出す時だ、と。
後のことは、皆がやってくれるだろう。リズを含め優秀な者が、きっとうまくやってくれる。ジュラールは、そう思いたかった。
勝手な決断を相談もせずに決めたことを、リズは怒るかもしれない。しかし彼女は強い。きっと一人でもやっていけるだろう。少し寂しい考えであったが、そう思いたかった。思いたかったのだ。
彼は、杖を手に持ったまま、祭壇の横、リズの隣に音を立てないようにしゃがんだ。
そして、ゆっくりと杖の先端を自らの胸に突き刺した。凄まじい痛みが襲ってくるが、次第に楽になっていく。杖は彼の体を貫き、背中に突き抜ける。
リズに気づかれないように、声を必死に殺した。目の前が赤く染まる。
…………王よ。其方の決断は、見届けた。
杖が、どっくん、と震えたような気がした。
ジュラールは、頭の中に響いた声に音を出さぬようにして応える。
(ああ、そうだ。これが決断だ。今我が王国に攻めてきている公国軍を、排除して欲しい)
…………承知した。その願いは、必ず現実のものとなるだろう。
しかし、彼はそれだけでは止まらなかった。駄目で元々、そう思いながら杖に告げる。
(もう一つ、リズと一緒になりたい)
…………願いは一つだ。それに、我に望むことではなかろう?
(貴族より上等な王族の生贄だ。高貴な血とも言うのだろう? たった一つでは割に合わない。必ず、この最後の願いも叶えろ!)
…………そんなことを言った王は、其方が初めてだ。だが、我の力は不要のようだぞ? 既に——。
杖の言葉を最後まで聞くこともなく、ジュラールは意識を失い、底の無い深い闇に落ちていった。
*******
リズは、杖の先端が我が身を貫くのを待っていた。
しかし、いくら待っても杖は下ろされなかった。もう、とっくに指定の時間は過ぎているだろう。それなのに……。
リズは思い切って、目を開けた。すると彼女の瞳に、儀式の間の天井が映った。そこには、ジュラールの姿は無い。
嫌な予感がする。
彼女は飛び起きた。すると、彼女のすぐ横に彼がいた。ただ座っているように見えた。しかし、様子がおかしい。近づきよく見ると……彼は杖で、胸を貫いていたのだ。
「な…………」
ジュラールは既に、事切れていた。杖を伝う大量の血が、床に海を作っている。
「そんな……そんな……!」
リズの心に強い痛みが走る。
何のために、ここまで頑張ったのか、分からなくなった。自分の心を手放さないようにした、あの日々は何だったのか。
「リズか、良い名前だ」
彼がくれた言葉を思い出す。
「ジュラール」
彼がくれた名前を思い出す。そして次々に、ジュラールとの想い出がリズの頭を駆け巡る。
目の前が真っ赤に染まっていくのを感じた。闇に包まれていくのを感じた。底の無い、暗闇の奥に引っ張られるのを感じた。
リズの瞳から、光が失われていく。
心が……壊れる……だったら、その前に……。
リズは、フラフラと立ち上がり、ジュラールが携えていた短剣を手に持った。次に、その切っ先を、自らの首に当てる。
「私も、今すぐ貴方の元へ」
そう告げて、目を瞑り、短剣を持つ手に、ぐっと力を込めた。
リズの柔らかな喉に、硬く冷たい剣先が食い込む。
その瞬間——
…………いやいや、待ちなさい。
ふと、頭の中に響く声があった。
その声をリズは初めて聞いたのだが、なぜか懐かしく感じた。気付くと短剣の先は、肌に触れただけで、刺さってはいなかった。
さっき力を込めた勢いだと、確実に刺さっているはずなのに、とリズは違和感を抱いた。
…………王が、せっかく、正解を引いたのに、其方が死んでいては意味が無いではないか!
「でも、ジュラールが……ジュラールが……」
彼の方に視線をやると……彼に突き刺さっているはずの杖が、フワフワと浮いていた。
床にあった血の海は消え、ジュラールは、祭壇の上で眠っているように見えた。
「えっ?」
…………脅威は去った。彼の願いは叶えられた。もし、其方を生贄にしていれば、我もここまでの力を出せなかっただろう。
頭に響く声の正体は、王様の杖そのもののようだ。
「ジュラールはどうなるのです?」
…………今はただ眠っているだけだ。じきに目を覚ますだろう。それにしても代々続く王家の血というのは、素晴らしいものだな。
リズは、杖の言葉に嘘は無いと確信し、ほっとした。なぜ信じられるのか分からなかったが。落ち着くと、さっき自分の心が壊れかけたことを思いだした。納得がいかないことがある。
「正解、とは?」
…………あるべき姿、かな。正しい心を持っていてもたどり着くことはできないかもしれない。不正解でも、国は救えたのかもしれない。その時は、これほどの力は出なかったろうし、生贄の命が戻ることも無かっただろう。
「はい……?」
リズはその言葉の全てに納得はできなかった。言葉は分かるのだが、意味が分からない。しかし、だいたい理解したと思うことにした。どちらにしても、ジュラールは生きているのだ。これからも、一緒にいられるのだ。
…………それにしても、この王は、随分と欲張りだな。まぁ、最後の願いも叶うだろう。その為に、其方は、くれぐれも体は大事にな。繰り返すが、脅威は去った。今は、ゆっくり休みなさい。
最後の願いとは、一体何だろう? リズはそれを聞きたいと思ったのだが、襲ってくる睡魔に負け、目を閉じたのだった。
*******
戦争は、あっけなく終わった。
突然、公国の兵士全員が、武装などを置いたまま、全て消滅したのだ。次の瞬間、彼らは公国の上空に放り出され、怪我を負ったようだ。
一人残さず、全員である。
国境沿いの村や町は、たいした被害を受けていなかった。ジュラールは、復興にかかる費用に少し上乗せをする程度の、賠償金で済ますことにした。もちろん、彼らが置いていった装備や馬、食料などは全て没収した上で。
この奇跡で、王様の杖が有名になり各地で語られるようになった。恐ろしい術で酷い目に遭った公国の兵士が、杖の話を広めていったのだ。
「王国に攻め入ったら、丸裸にされた。何を言っているのか分からないと思うが……」
と、この後、数百年にわたって、語られることになる。
王座の間にて。
「あの時は、本当に……怒りましたよ。今でも、怒っています」
「許してくれないのか?」
「はい! どれだけ心を痛めたか……」
相変わらず繰り広げられる会話に、周囲の者はやや呆れていた。リズが過去のことを持ち出し、王は終わったことだと済まそうとする。
「陛下。英雄らしく、振る舞って頂かないと……それでは、ただの痴話げんかですよ。それと、リズ殿は怒って当然です」
「おいおい……」
その日も、次の日も、さらに次の日も。白亜の城は賑やかであった。もっとも翌年にはジュラールとリズの間に生まれた子供のため、賑やかさに拍車がかかっていくことになる。
最後の願いが叶えられたのを見て、王様の杖は、満足げに眠りにつくのだった。
……おしまい。
お読みいただきありがとうございます。
以上で完結になります。
以降、番外編が続きます。