第三話 儀式の間にて
五年後。
とある地方の湖の畔。青く輝く水面に、青い空が心地よい。森に囲まれた広大な湖の底には、かつて栄えたというエルフの都市が眠っているという。
二人の間を、爽やかな風が吹き抜ける。
風の気持ちよさに、つい呆けた顔になるジェラールだった。そんな気が緩んだ彼は、何も考えがないまま、ふと、思ったことを口に出した。
「リズは、王様の杖を見たことがあるな?」
「はい。玉座の間に飾られているものですね」
王様の杖。代々王家に伝わる神に祝福されし恩恵が、隣国の侵略や、災害、魔物の出現から、この国を守ってきたとされている。
いざというとき、王の願いを叶えてくれるという。ただし、その対価として、生贄が必要なことも伝えられてきた。生贄の条件は、特に伝えられていない。数百年あまり、使われてこなかったので、諸外国はおろか、国内でもその存在が疑われている。
「いざというときは、生贄になってくれるか?」
「はい。貴方のためであれば、喜んで」
彼女に迷いはなかった。リズは、ジュラールが何気なく冗談のつもりで発した質問に答えた。真剣そのもので、わずかな微笑みすら浮かべている。
「いや……怖くはないのか?」
「いいえ」
彼女は、まっすぐだった。その視線から、ジェラールは目を逸らしたかった。冗談のように聞いたことと、即答すると思っていなかったことを恥じていたからだ。
「生贄って事は、命を捧げる……つまり、失うって事だ」
「はい。それが何か?」
彼女は、頑なだった。あくまで平静を保とうとするジェラールだったが、陥落寸前だ。きっともう、自分の気持ちはバレているだろう、彼はそう思った。
「貴方の願いであるこの王国を、民を守ること。それを成すための一端になれるのであれば、悔いはありません」
彼女は、ジェラールの手を握り、言った。
「リズ、君はそれでいいのか?」
「はい」
彼女は笑顔だった。初めて出会った時の花の咲くような様子は、何一つ変わらない。
「バカな話さ。民を守るため、民を犠牲にしなきゃならないなんて。一人も、失いたくないのに」
リズは、ジュラールの言葉を聞いて、あくまでも民を思う姿に、やはり、私には、この人だと確信した。一生ついて行こう。最後まで。そして、自らの命を捧げるのだ。リズは心の中で誓ったのであった。
「条件があるとすれば、その時は、貴方が、杖を突き立ててください。貴方以外は、考えられない」
「いや……それでは……私はその後どうしたらいいのだ? 君を失った後のことなど……」
ジュラールは、顔を曇らす。しかしリズにとっては、彼のその苦悩の顔と、言葉で十分だった。自分のことを案じてくれる、ただそれだけで。
「殿下は、例え罪人であろうとも、生贄になる人のことを思うのでしょう。それでは、私は嫉妬してしまいます。貴方の心に一生残るのは、私であるべきだと……我が儘ですが、そう思いたいのです」
「考えさせてくれ」
こんな話をしていても、杖を使うことは無いのかもしれない。でも、それが、一番いいのだ。この点においては、二人の共通の認識であった。
*******
一年後。
ジュラールは、ついに国王となった。彼の成長を見て、現在の王である彼の父が、早期の引退を決めたのだ。
これから、いくつか儀式やイベントがあるのだが、一番最初に行うことがあった。それは、現在の王から、ジュラールに王様の杖を継承するという儀式。それが執り行われ、ジュラールは、杖の力が使えるようになった。
しかし。継承されたその日に、領土を次々と拡大している隣の公国が動き出した。一方的に協定を破棄し、宣戦布告を行ったのだ。それは野蛮で、貴賓のかけらも無い行為だった。
「国境沿いの村は、公国軍に占拠された模様です!」
「西の砦と連絡が取れません。公国軍、もしくはそれに準ずる者の攻撃を受けている模様!」
「公国の兵士が、白亜の城はるか西方の平野に集結しつつあります。その数、十万! さらに増えているようです!」
伝令からの報告が、次々に集まっていた。
王都付近の兵士は、合わせて二万。このまま地の利を生かして守りを固めても、十万以上の兵士に攻められたら、守りきるのは難しいだろう。
「陛下さえ生き延びることができれば……」
「私どもは、ここで朽ちる覚悟はできています!」
ジュラールの人柄だろうか。彼らは若き王のために、命を落とすことを恐れていなかった。
しかし……公国が戦争によって植民地とした国の民は、過酷な運命を辿っていると聞く。リズも、その一人だ。
我が国の民に、彼女のような思いをさせるのは……。
ジュラールは、迷わなかった。
杖には強大な力がある。それを引き出すことも可能だと彼は確信していた。なぜなら、継承の儀式の際に、杖から伝わる声があったのだ。
……其方が新しい王か。我の力を必要とする事態が起きることを願ってはいないが、もし力が必要なら、生贄の命をもって我を呼び出せ。
さすがに、すぐに杖を使うことになるとは思わなかったが、伝説は間違い無いものと考えていた。
「杖を使う。兵士は全て、城の西側にある砦で待機。陣を組んで、杖が逃した敵を殲滅しろ」
「陛下は……?」
「私は儀式の間で、リズと共に杖を使う」
「まさか……リズ殿を……。私共では駄目なのでしょうか?」
「リズが、嫉妬するからな」
ジュラールが真剣な眼差しで言ったので、彼の声を聞いた者は、冗談なのか本気なのか分からなかった。しかし、彼らにとっては、ジュラールの言葉が全てだったので、従うほか無かった。
国境に近い街や砦の者は、全て王都に集結するように命令が発せられた。既に戦闘が始まっている地域の部隊も、一斉に民を守りつつ、退却を始める。
どうしても撤退が難しい部隊には、翌日の正午まで持ちこたえよとの命令だった。
杖の存在を警戒してなのか、公国の兵士の動きが鈍く、住民の避難や兵士の移動は、順調に進んだ。
公国側は、王国軍の動きを見て、敗走を始めたのだと考えた。兵力の差があるとはいえ、反撃が殆ど無く、もぬけの殻となった街や砦を次々と明け渡していたからだ。
王国に、伝説の杖の力など無い。戦力差に恐れを成した王国軍は、士気も低く逃げ出した……そう、公国側は考え始めた。
だとしたら、とっとと王城……白亜の城を落とし、王族を皆殺しにしてしまえばいい。大きな戦力差で、蹂躙すればいい、と。
*******
「ここからだと……よく見えるな」
儀式の間。そこは、白亜の城の上層部にある。高い位置から先を見つめるジュラールの目には、広い平原の先に集結している、公国軍が映っていた。
距離を置いて砦があり、そこに我が王国軍が陣取っている。士気は高く、逃げ出す者はいなかった。彼らは、ジュラールを信じていた。必ず杖の起動に成功し、侵略者を倒してくれるのだと。
ジュラールは、できるだけ一箇所に公国軍を集めたかった。
杖の力がどの程度か分からない。どんな魔法が繰り出されるか分からなかった。それに、願いは一つだけ。たった一回だけ。それなら、一箇所に集まっていた方が良い。だから、各部隊に公国から逃げる場合は一度平原方向に逃げ、それから王都を目指すように指示していた。
その後ろに控える王都の民には、念のため避難指示を出していた。
しかし、殆ど逃げる者はいなかった。彼らの多くもまた、若き王を信じていたからだ。逃げたところで、難民になる道も過酷なものだろう。
自分の狙いは、成功するのだろうか。ジュラールは、平静を装っていたが、とてつもない不安も抱えていた。
失敗したら……自分は間違い無く、公国軍に殺されるだろう。下手をしたらリズも、命を奪われるだろう。例え生きながらえたとしても、碌なことにはならない。生きている方が、辛いことになるかもしれない。
全部隊に伝えた杖の起動時刻まで、あと数時間となっていた。
城の上層部にある儀式の間には、ジュラールとリズだけがいた。杖の起動で何が起こるか分からなかったので、他の者は退避させていた。
「私たちだけになってしまったな」
「はい」
「リズ、本当に……いいのか……」
「今さら、ですよ。むしろ、陛下の方が迷ってるみたい」
彼女は、おどけて、控えめに微笑みながら言った。
「そうだな」
「はい」
笑顔で返事をした。リズは少しも怖くなかったのだ。
彼女が貴族だった頃、住んでいた国に攻め入ったのは他でもない、公国だ。それが再び、押し寄せてくる。
もし戦争に負けたら、またあの生活に戻るのか。あの、痛い思いをするのか。
違う。私は、王となったジュラールに、死を与えてもらうのだ。生贄となり、ジュラールも、この国も、救うのだ。
リズは自分に対して、誇ってもいいと思った。ジュラールの生涯の伴侶になれないのは残念だが、彼を救い、彼の英雄になれる。それが嬉しかった。
白亜の城に来て六年。彼と城の皆と過ごす日々は、幸福そのものだった。
ジュラールがいなかったら、あの時会わなかったら、今頃どうなっていただろう?
多分、生きていないだろう。生きていても、心が壊れていただろう。
彼は、生きる力をくれた。ならば、それを今、返すだけだ。
「まだ、少し時間があるな……」
「はい、陛下」
いつのものように、返事をする。
「リズ……今は、名前で呼んでくれないか?」
「はい。ジュラールさ——」
リズの唇に彼の唇が触れた。それを受け止め、リズは彼の背中に腕を回し引き寄せる。鼓動が早くなり、体が熱くなっていく。リズは、自分の身体の全てが、より強くジュラールを求めていることに気付いた。
「んっ……」
リズの唇から、声が漏れた。ジュラールは、彼女の頭を撫で髪の毛の感触を楽しんでいるようだった。そうやって、彼の心を感じると体の奥が、もっと熱くなっていく。
髪に触れる彼の指先が動く度に、リズの心を焦がした。
二人の影が、一つになる。
最後の時が、近づいていた。
「時間だ……」
祭壇に布を敷き、その上にリズは、仰向けになった。
「ずっと貴方の側に……います」
リズは告げ、目を瞑った。もう思い残すことは無かった。夢は叶えられたのだ。後はジュラールが、自分の心臓に杖を突き立てるのを待つだけだった。
かちゃり。わずかに聞こえる音から、ジュラールが杖を持ち、リズの胸の上にかざしたのを感じた。
後は、それを下ろし、彼女の体を貫けば全てが終わるのだ。国が救われる。その対価として私の命を差し出す。それだけだ。
リズは、強く目を閉じ、胸を貫かれた時に感じるであろう、強い痛みに備えた。