第二話 馬車の中にて
ジュラールは叔父と合流し、王都に帰る馬車に乗り込んだ。叔父の顔が、なんだかテカテカしているのを見て彼は憂鬱な気分になる。
叔父は、ジュラールに話しかける。
「いやー、大変だったな」
完全に他人事のようだ。あの館を選んだのは貴方だろう?
ジュラールは、不満を飲み込みこらえる。この会話は全てあの少女のためだと、割り切ることにした。
「はい……危うく殺されそうになりましたよ。しかし、あの者達は?」
「うむ、追跡させている。何か分かったら伝えよう」
「はい、お願いします」
ジュラールは、叔父の言葉は真実ではあるが、捕らえるのは難しいだろうと考えている。ここは王国では無い。友好関係はあるとしても、どの程度本気で捜査をしてくれるのか分からない。
「それで、あの可愛い子とはうまくやれたのか? 初めてだったんだろう?」
ジュラールの叔父は目を細め、興味深そうに彼の顔を見つめた。
「そのことですが、叔父様。外遊の目的は、あの館だったのですね? 私はうっかり、叔母様にこのことを話してしまうかもしれません」
「なっ。何だよ……自分だって楽しんだのだろう?」
よかった。開き直られてはまずかった。ジュラールは心の中でほくそ笑む。損得を考えてくれるように、冷静に話を持っていかなければならない。
「話をしていただけですよ」
「ほんとか? やったんじゃないのか? いや、そんな怖い顔をしないでくれ……な、何か欲しいものでもあるのか? 私にできることなら何でもやるぞ……だから妻には……」
ジュラールは、内心とても喜んでいた。彼のこの言葉を引き出したかったのだ。計画通りである。
後は、仕上げを残すのみだ。
「何でもする、ですか? では——」
どういうわけか、彼の願いは迅速に叶えられた。
なんと、この翌日にリズは、ジュラールと会った館を出ることができたのだ。そして一週間後、ジュラールの住む城の前に姿を現したのだ。彼女を手配した者は、何をそこまで恐れたのだろうか?
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——ジュラールが去った、館にて。
「リズ、起きなさい」
男の声に体が反応し、無理矢理に起こされる。少女にかけられた奴隷の呪いの力によるものだ。
「はぁ……」
少女は、溜息を漏らした。
昨日はとても幸せな出来事があった。だが今はとても、本当にとても、遠い夢のように感じる。リズにとっては、夢は夢であって、決して現実になることは無かったのだ。しかし——。
「急いで、荷物をまとめなさい。貴方は、もうこの館から出て行かなければなりません」
館の主が告げた。
「どうして……ですか?」
ここから追い出されたら、次はどんなところに連れて行かれるのだろう? もっと、痛い目に遭うところなのだろうか?
それに、ジュラールと接点があった館を出るということの意味を考える。もう二度と、ジュラールに会えないだろう。リズは、恐怖に震えそうになった。
だが、なんとか踏みとどまる。まだ、まだ……きっと……希望はある。少女は、感情を抑えた声で、先ほどの言葉を取り消すように、冷たい声で答えた。
「承知しました」
——ジュラール。
リズに、一瞬の安らぎを与えてくれた、歳上の男の子の名前。リズが過去に目にした、どの貴族よりも、優雅で、力強く、優しかった。
彼は、両親が私に唯一残してくれたもの——名前——を褒めてくれた。
彼は、乱入してきた男に刺されかけたとき、危険を顧みず、守ってくれた。
彼は、流した涙を優しく拭ってくれた。
彼は、名前をくれた。
リズの瞳から涙がこぼれはじめる。人形のように硬くした頬の上を水滴が伝った。
ジュラール。
この名前だけは、覚えておこう。これから、どんなに辛いことがあっても、自分を失わないために。
リズは、共同の部屋に戻り自分の荷物をまとめ始めた。
与えられたトランクに、自分の持ち物を機械的に入れて行く。しかし、その作業はあっという間に終わった。
あまりに、彼女の私物が少なかったのだ。いや、無いと言ってもよかった。
「準備できました」
リズは、そう使用人に告げる。すると、ついてこいと言われたので、そのまま後を歩いていった。
やがて薄暗い館から外に出た。朝日が彼女を照らし、目が眩んだ。それが収まると、リズは目の前に一台の馬車があることに気付いた。
「乗れ」
言われたとおりに、トランクと一緒に馬車に乗った。馬車には誰も乗っておらず、リズのみであった。
誰も見送りに来ない出発。だが、心を閉ざしたリズには、寂しいという感情は生まれない。
——その一週間後。リズはようやく目的地に着いた。
「下りろ」
そう言われ、リズは力なく俯きがちに馬車を降りた。ここは、一体どこなのだろう?
すると、御者は何かの巻物を取り出すと、それを広げ、書いてあった呪文を唱え始めた。
「え……?」
彼女にかけられていた、奴隷の呪いが解除された。
「うそ……」
御者は、少女から呪いが解除されたことを確認した。満足げに頷くと、待機していた士官にリズを引き渡した。
リズは顔を上げる。そこには、見たことのない真っ青な空と、天に向かってそびえる美しい白亜色の城があった。
眩しい陽射しが彼女を照らしている。
「リズ・ド・ボロトラ殿。お疲れさまでした。殿下がお待ちです」
「殿下?」
「はい。まだかまだかと、私も急かされまして……」
誰かが私を待っている? どういうことだろう。リズは、戸惑いを隠せなかった。
少女の様子を見て、士官の女性はにこにことしている。
これは……もしかして、感情を閉じ込める必要は無いのでは……?
「……あの……その方とは、いったい?」
リズは、恐る恐る聞いてみた。まさかと思いつつも心の中に、ある少年の名前と顔が浮かんでいた。