晩夏の散策 松虫の声
太吉は目が視えぬ。
先の戦争で友を庇い、顔面に砲弾を受けたがためである。
戦争が終わって早3年。
太吉はいまだに夏が来れば、友人のことを思い出すのだ。
りんりんと、どこかで虫が鳴いている。
温い風には、かすかな秋の香りがまじりつつあった。
鳴く声は秋の虫。暑かった夏も暮れようとしているのか。
しかし、茜の夕日も稲穂の色も、そして濃紺の空の色さえ太吉は見ることができない。目を失う前に見たその光景を、匂いとともに思い出すだけである。
「今年で3回目ですね」
杖で地面を掻きながら、太吉はつぶやく。
太吉のすぐ目の前に、乾いた衣擦れの音。そして変わった香の匂いがある。
なんでも久留米絣の着物ということで、織りのせいか音が上品である。
その音と香りを目印に、太吉は進む。
「あなたがこうして、晩夏の散策に付き合ってくれるのは」
太吉の前を、言葉少なく歩くのは友である。
戦争が終わってしばらくの後、二人は再会した。
彼は太吉を見て、友はホロホロと泣いていた。
太吉がこうなったのは自分のせいであると幾度も悔いて、残りの人生をかけて太吉の願いを叶えたいとそう言った。
しかし、太吉に叶えてほしい願いなどなかった。
敢えて、というのであれば、晩夏の黄昏時に散策をしたかった。
「今年の夏は暑かったですか?」
「ああ」
「昨年よりも?」
「ああ。とても、年々暑くなるようで、仕事が億劫でしかたがないよ」
「それは大変だ。しかし活気があっていいじゃないですか」
「景気も少し上向きのようだ」
友の声には張りがあり、太吉はほっと安堵した。
最初の年、太吉と友が再会した年。そのとき、友の足取りはもっと重く、声は今にも死に絶えそうであったのだ。
今、友の声にはかすかな張りがある。昔と同じ、優しい声だ。
「あの戦争……貴方を庇ったことを、私は後悔などしていないのです」
太吉は杖で何かを蹴った。
杖の先に乾いた感触が広がり、太吉はその場で腰を落とす。
やがて小さな羽ばたきが太吉の耳を通り過ぎていった。
指の先には乾いたものが触れる。
……それは、蝉の亡骸だ。
気がつけば夏は暮れ行き、秋の香りがまじりつつある。
腰を下ろしたその場所は、草むらの中だろう。草は乾き、かさかさと音を立てる。その合間を蠢く虫の動きは緩慢だ。
夜ともなれば蝉とは異なる別の虫が鳴く。
もう、秋が訪れようとしていた。
「私は貧しい漁村の8男でしてね。幼い頃から背が伸びず、体格も悪かったのでこの子は成長しても大物にはなれんと……村長からも陰口を叩かれる始末。先の戦争では、実は出来のいい兄の身代わりで出兵したのです」
太吉は村の風景を……今はもう見えないまぶたの裏に思い起こす。
「死んでこいと、暗に言われたようなものです。もともと、生きて帰るつもりもなかった」
太吉が思い出すのは、イカを干す網と白い砂浜。
太吉は夏が嫌いだった。
漁村の夏、眩しいほど海は光る。夜は暗く、海のうねる音に幼い太吉は怯えたものだ。
漁村の男たちは気が荒い。
太吉はそんな環境で幼い時代を過ごした。
彼は村でただ一人、本が好きなおとなしい少年であった。
「虫の声」
太吉は座ったまま、耳に手を当ててみせる。
「マツムシですね。鈴虫によく似ているんですが、ほら、声が高いでしょう」
草むらから響くのは、チンチロリン、と響く高い声だ。
それは夏の終りから秋の終わりにかけて鳴く虫で、夏の終わりと秋のはじまりを教えてくれる。
「詳しいな」
「私は虫が好きなのですよ」
「お前は本が好きだったものな。戦地でも色んなことを教えてくれた」
「ええ」
虫の声は草むらから響くようだった。
二人が足を止めたこの道は、草むらの多い場所である。
毎年、友は太吉を連れてこの道を歩く。
まっすぐ進み、しばらく足を止め、そしてまた道を戻る。その繰り返しである。
「虫の声といえば能の松虫をご存知でしょうか」
友はまた、例年と同じところで足を止めた。
太吉は昨年と同じように、そこに腰を下ろした。
しばしここで語り合うのが、二人の習慣である。
「……能?」
「松虫の声。りんりんりんりんとして夜の声。冥々たり」
太吉は唄を思い出すように、たどたどしく口に乗せる。
「虫の音ばかりや。残るらん。虫の音ばかりや。残るらん」
それは悲しい物語だった。
「物語です。ある時、松虫の声に惹かれた男が松虫を探して草むらに分け入ったまま戻らず……案じた男の友が草むらを探ってみれば、その男は草むらの中で死んでいたそうです」
「……それから?」
「死んだ友を偲び、男はその場から動けず……」
仲の良い友が、目の前で死んだ。それを知った男は、自らも死を選ぶ。
「死んでしまうのか」
「……そうです」
太吉は座ったまま杖に手を伸ばし、杖の先で地面を掻く。
その杖の先に、地面の抵抗感はない。まるで宙をなでているように、軽い。
太吉は杖をそっと引き戻した。
……太吉の座る半歩先には、もう地面がない。
風の音も強い。
太吉は、そっと友の袖を握った。
乾いたその浴衣は、いつも下ろしたてである。
晩夏の散策の時、友はいつでも下ろしたての浴衣をまとう。
それは、彼の覚悟の現れのようであった。
「……そもそも、死者に近づくというのは、危険なものなのです」
「俺は」
太吉の言葉を聞き、友の声が震える。
彼の足元も、あと半歩で宙となるはずだ……ここは、高い崖の上である。
しかし友は怯えることもなく、その場に立っている。
いつも長い間、崖の上にそうして立っている。
あと一歩、踏み出そうとするように。
最初の年はもう少し崖から離れた場所で足を止めた。
昨年は、少し近づいた。
今年、彼は崖のすぐ際に立っている。
「お前に……恨まれ、命を奪われるものと」
「恨みなどはなくあなたが生き残ったことが幸福でありました。ただ私の願いは、あなたの心が癒えること」
太吉は、潰れた目をそっと押さえた。
あの戦争の中、太吉は友人の肩を掴み、友をかばい顔に砲弾を浴びたのである。
それは、とっさのことだった。
友には兄弟が多い。父はなく、母と幼い弟が友の帰りを待っている。
このような男を、ここで、こんな僻地で死なせてはならない。生きて帰らねばならぬ男だ。
そう、思った瞬間に体が動いていた。
太吉が最期に思い浮かべていたのは故郷の風景でも母の顔でもなく、この友との歓談の時間であった。
彼が、彼だけが、太吉の趣味を受け入れてくれた。
「崖の上は危険ですよ。さあこっちにお戻りなさい。後ろを振り返らず、まっすぐ」
太吉はもう二度と触れられぬ手を友に向かって差し出す。
友はしばらくの逡巡ののち、太吉の体をすり抜けて崖から離れた。
「あなたを癒やすのに3年かかりました」
太吉は安堵の息を吐いて微笑んだ。
鼓動も止まり生きた体もない身でありながら、安堵の息が全身より漏れるようだった。
……太吉はあの夏、戦場で死んだのだ。
死んだ身となり翌年の夏。
気がつけば、また現し世に浮かんでいた。
幽霊というものであるのか。しかし相変わらず目が見えないのが、因果と言えば因果であった、
なにか未練でもあるのかと思い悩んだそのとき、太吉は懐かしい香りを嗅いだのだ。
「私が現し世に引きずられたのは、貴方をこの世に結びつけるためでした」
友と再会したのは、墓場。
友がそこにいる、と気づいたのは彼の声を聞いたせいだ。
今にも泣きそうな、絶望に彩られた、そんな声。その声は、太吉の名を呼んでいた。
友の香に気づき、太吉はその背を思わず追っていたのである。
絶望の彼からは、死臭がした。死の足音が聞こえた。
それを止めるがために、太吉は敢えて友の前に姿を現し晩夏の散策を申し出た。
「……お前は、どこへ」
友の声はまだ震えているが、死臭は消えた。それを嗅ぎとり、太吉はやっと体が軽くなる。
「さあ。地獄か極楽か。それでも晩夏の散策は楽しい思い出となりました。あなたは」
焼け付くような夕日が、太吉を包む。
晩夏とはいえ、夕刻の暑さは秋の涼しさを吹き飛ばす。
先程まで鳴いていたマツムシも口を閉ざし、涼やかな風を待つようだ。
夕日はいい。と、太吉は思う。
潰れた目でも、この燃えるような赤は、しっかりと見ることができる。
「……松虫の男のように、死んではなりません。生き生きて、そして」
太吉は夕日に体が溶けていくのを感じ、杖を手放す。
杖は音もなく、草むらに散ったようである。
「何十年かあとにまた、お会いできたら」
その身もやがて、夕日の赤に溶けた。
彼が目を覚ましたのは、草むらの中である。
昼とは違い涼やかな風が吹く。もう夏も終わり秋の風だ。
そこに、マツムシの鳴き声だけが響き渡る。
その中に、静かに唄が聞こえる。
虫の音ばかりや。残るらん。虫の音ばかりや。残るらん。
それは、三年前に逝った友の声である。