名残蝉と夏神輿
今年も夏終わりの神輿が、名残蝉と共にやってくる。
「ねえ。夕食は焼き肉にしようと思うんだ」
娘は額に浮かんだ汗を拭いながら、歌うようにいう。
「建てたばかりの家で焼き肉をするのってさ、ちょっと背徳感あるよね。壁なんて真っ白だし。匂いもつくしさ。まあ焼き肉というより肉炒めなんだけどさ」
そういいながら彼女が冷蔵庫から取り出したのは、皿に盛られた肉の山。
彼女は熱したフライパンの上で、音をたてて肉を焼き始める。
たっぷりの油の上に赤い肉が踊って縮む。白い脂身はやがて透明になり、茶色に焦げて油を飛び散らした。
白い煙に、肉の香り。
肉はじわじわと焼き上がり、赤い汁をにじませ、それがまた焦げていく。
煙と匂いにいぶされて、彼女の髪が汗に滲んで揺れている。
真夏の台所は灼熱地獄だ。白い首筋に浮かんだ汗が、シャツの内側に滝のように流れ込んでいた。
「あっつい……」
顔も体も小さいくせに、やけに勝ち気な顔をした女である。いや、性格も、顔に似て勝ち気なのである。
まず人の言うことを聞かない。自分の決めたことは絶対に通す我の強さがある。
「台所の壁だけでも茶色にしておけばよかったかな。でも台所って白のイメージが有るからさ」
彼女は落ちてきた横髪を指先ですくい上げながら、呟く。
私はそもそも、この女が嫌いであった。
新築の家で煙の出るような料理をするな。
「ああ、油が飛んじゃった……」
するのであれば、せめて、綺麗に掃除をしろ。
「……あ。お神輿」
私の小言な、遠くから鳴るシャンシャン音にかき消された。
「……」
その音を聞いた彼女は、まるで小娘のように飛び上がりコンロの火を止める。
まだじゅうじゅうと煙を吐き出すフライパンをコンロの上に置いたまま、飛び出していったのは勝手口。
その扉を開けると、裏道が見えるのである。
曲がりくねったその道の向こうには、山がある。
山の上には、小さな神社があり、夏終りのこの季節。小さな祭りが行われる。
遅れてやってくる夏祭り。名残の蝉の声に合わせ、小さな神輿が繰り出されるのである。
山の麓、緩やかなカーブのちょうど終わりのあたり。
そこに小さな家が建てられたのは、夏の日だった。
まだ日差しが眩しく、地面に黒い影が焼き付いていたのを覚えている。
この家を建てたのは、まだ若い女だった。
けして大きな家ではないが、頑丈な家だった。部屋の数は少ないが、機能的に作られていた。
彼女が一人で設計し、使う壁紙から木材まで、事細かく施工会社に口を出したと聞いている。
屋根だけが夏空のように青く、壁は白い。アスファルトと山の緑が広がるこの場所にしては、少し洒落すぎている、そんな家だった。
周辺では「あんなところに家を建てて」と小馬鹿にする囁きも聞かれた。
なぜなら年に数回の祭りの際、この道には大勢の人が道にあふれるからだ。
特に夏の終わりに行われる、神輿祭りは人出が多い。神輿がすぐ目の前を通り抜けるので、喧しい。
駅からも遠く、道も悪い。祭り以外の時は寂しいもので、夜は真っ暗になる。
地元の人間ならばこんなところに家は建てない、というのだ。
それは若い娘が一人で家を建てたことへのやっかみも多少、含まれていただろう。
彼女は、人から嫌われやすい娘である。
「風邪引いちゃった。窓開けてたからかな」
ある夏は、彼女はひどい風邪を引いた。
「若いと思ってたけど、やっぱり三十路も終わりになると、だめだわ。体力が若い頃とぜんぜん違う」
彼女はぶつぶつと文句を言って一人で粥を作り、水を用意する。
建てて10年経つこの家は、少し薄汚れてきた。
台所の壁はいつか彼女が一人で貼り直し、綺麗な茶色に生まれ変わった。
エアコンも、壊れた床も玄関も、彼女はたった一人で治す。
けして人は頼らない。「だって自分の家だもん」と、彼女は意地を張る。つまりは人を頼るのが嫌いなのである。
そうやって無理をするせいで体力がなくなるのだ。つまりは病弱なのである。
やはりこの娘は馬鹿だった。
「……お神輿」
今年も蝉しぐれの向こうに、神輿の音が響く。10年たっても変わらない。しゃんしゃんと響く音。男たちの掛け声。そしてそれに重なる蝉の声。
この家が、ここにあるよりもずっと前から続いていた名残の蝉と神輿の音だ。
「見なきゃ……」
彼女は熱っぽい体のまま、這いずるように勝手口に向かう。
馬鹿な娘である。
彼女は乱れた髪をゆい直し、わざわざ着替えた浴衣の合わせを整え、白い手で勝手口を開けた。
ぜえぜえと、熱っぽい息を吐きだして彼女は道を見つめる。
扉の向こうは、夏の終わりとも思えない熱い日差しに温い風。
うるさいくらいの蝉しぐれの雨の中、曲がりくねった道の向こうから神輿の音がする。声がする。
黄金色の神輿を担ぐ男たちが、勇ましく、足袋と法被姿で駆け下りてくる。
神輿の上に乗るのは、坊主頭の男である。
小さな体だが、肩幅は広い。太い眉毛をぎりりとあげて、神輿の上で勇ましく腕をふっている。
腕には大きな傷跡がみえた。確か数年前、この道のカーブを曲がりきれずに神輿から転がり落ちたのである。
娘はそれを見てすぐさま駆け出し、男を手当した。おかげで深い傷も残らなかった、と数日後に神社の神主からお礼があった。
男は、神社の息子であるという。
幼い頃から神輿に乗り続けてきた男であるという。
言われてみれば凛々しい男だ。しかし、まだまだ青臭い。その男が玄関で娘に頭を下げた。その声を受けて、娘は珍しく赤面なんぞしていたものだ。
男が帰った後も、彼女は玄関から動けず呆然と……ただ呆然と耳まで赤く染めていたものである。
つまり、この娘は神輿男への一方的な恋情で、神輿の見えるこの場所に家を建てた大馬鹿者である。
「最近はどうも腰が弱くなっちゃってねえ……」
娘はある日、そう言ってあるところに電話をかけた。
腰を曲げたまま、何事かをぼそぼそと電話口に話した数時間後、すっかり古ぼけたチャイムが間延びした音を立てる。
ゆっくりと玄関口に向かった彼女は驚くように目を丸めた。
「……あら」
「こんにちは」
玄関口で立っていたのは、老年の男。
すっかり白髪交じりではあるものの、あの神輿の上に乗っていた青年の面影があった。
「最近はお神輿に乗らないのね」
「もう歳なもんでして、若いもんに譲ってます。まあ本部で、神輿の具合は見たりしてるんですが。神社も甥が継いで……私は手先が器用なもんで、もう何十年か前からこういう仕事を」
若い頃は無愛想な男だったが、年をとって多少丸くなったらしい。
肩から背負った荷物から、様々な道具を取り出しながら娘に世間話を語りだす。
むき出しの腕は枯れ果てて、かつての傷はもう見えなかった。
「いつもこの家から神輿を見ていただいたでしょう。もう……40年前になりますか、一度怪我したときに助けていただいた」
男はまぶしそうな顔で、娘をみる。しかし彼女はとぼけたように肩をすくめるばかりである。
「まあ……そんなことも、ありましたかねえ。年のせいか忘れやすくて」
男が取り出したのは、壁に取り付けるタイプの手すりだった。
彼は玄関の壁を注意深くなでながら、ゆっくりと作業を開始する。
ドリルのような、震わせる音と振動が静かな部屋の中にしばらく続いた。
「最近は腰がこんなでしょう。玄関の上がり下りがつらくて」
「転ぶと大変ですからな。神輿の上から落ちるよりは低いですが、でも大怪我をする」
男は穏やかな微笑みのまま作業を続けた。手慣れているのか、家を傷ませることなく素早く作業が終わる。
娘は、男の左手薬指に光る指輪だけをじっと見つめ、自身の左手を右手で隠す。
彼女のそこには、とうとう一度だって指輪が光ることはなかったのである。
「私ね、もう長くこういう仕事をしておりましてね」
男は穏やかな声でいう。神輿から転がり落ちた頃は無愛想な男だと思ったものだが、人間は年齢を重ねると穏やかになるらしい。
思えば、娘もずいぶんと丸くなった。
「ええ、存じてますよ。町では有名な施工店ですから」
「だからいつか家の修理なんぞでお声がかかったら、手当してくださったお礼をもう一度言おう言おうなんて思ってましたが……」
「私も手先が器用なもんで、一人で何でもなおしちゃうんですよねえ」
娘は……若い頃の跳ねっ返りの名残りもなく、穏やかに笑う。
男は、手すりをしっかりとつけた後、また家の中をゆっくりと見渡した。
「本当に」
小さな家。
古びた壁に、すり減った階段のヘリ。きしむ廊下、色の落ちかけた壁紙。
「本当に、綺麗な家だ。築年数は随分経っているはずなのに、本当に大事にされて」
男は幸せそうに微笑む。
「この家が羨ましいですよ。こんな大事にしてもらって」
「そうね」
そして娘も壁にそっと額を押し付けて笑う。
「……この子は私の宝物」
その小さな声は、私にだけ聞こえた。
すなわち、この家たる私にだけ。
娘はまた風邪を引き込んだ。
若い頃とは異なり、風邪もなかなか完治はしない。
布団に横たわったまま、彼女は畳をなで天井を見上げる。
「ごめんねえ、私が逝ったらこの家、誰かが買ってくれるといいんだけど……そうじゃなきゃ、潰されちゃうわねえ」
風邪をひくたび、彼女は弱気になっていくようだ。昔はあれほど、強気だったというのに。
「私が一人で建てた私だけのお城」
私は彼女が倒れても何もできない。布団をかけてやることも、温めてやることも、そも、彼女が私に気づくこともない。
「一緒に、連れていければいいのに」
……だから私はこの娘が大嫌いなのである。
私が潰されるのが嫌ならば、少しでも長生きをすればいいのだ。
人間は、弱くて情けなくて腹が立つ。
そんな心配などせずとも、私は彼女だけ逝かす気など、はなからないのである。
彼女が死ねば、この家ごとつぶして彼女の墓とする用意はとうにあるのだ。
だから心配せずに、好きなだけ生きていけばいい。
……どうせ、私の声など聞こえてもいないのだろうが。
「そうね」
しかし彼女は、はじめて床に向かって囁きかけた。
「死ぬときは一緒に死にましょう」
聞こえるはずのない、私の声に、彼女が初めてこたえた。
「……あ。お神輿」
私が呆然と固まった時、蝉の鳴き声とともに神輿の音が響いてきた。
ちょうど、山の上の道を神輿がゆっくり降りてくるところである。
その神輿の上に乗る少年は、どこか先日の男に似た風貌を持っている。
彼女は毎年恒例のように勝手口を開けて、じっとその神輿を見送る。
「ずっと一緒に見ていてくれたでしょう。知っているのよ」
彼女は年老いた手で古びた柱をなでさする。
撫で返す手をもたない私は、ただ、もどかしさと悔しさに悶えるばかりである。
彼女の白い額が壁に押しつけられた。
「ありがとう」
数日前よりぐっと秋めいた風が吹く。
まもなくこの苦しい夏も終わって秋が来る。
夏が細かな断片となり、新しい秋の断片が空気をさまよいはじめるころ。
その予感を感じさせるような、蝉の鳴き声だった。
今年も夏終わりの神輿が、名残蝉と共に通り過ぎていく。